あなたの乗っている乗り物はなんですか。253
ご縁があって、ウェルビーイングの連続講座に参加している。
先日、その連続講座の第一回があった。
その中で、「あなたの乗り物はなんですか?」という問いがあった。
もちろん、今乗っている車の車種を聞かれているとかそういうことではない。
自分の人生を乗り物に例えるとすると、今どんな乗り物に乗っていますか?ということ。
ぼくは、少し考えて、スプレッドシートにこう書いた。
「原付」
もうちょいかっこいい乗り物に乗っていたかったと思わなくもないが、直感で決めた割には気に入っているし、確かに自分に合っているなあとふり返るたびに思う。
原付って、小回りが利く。
だから、いろんな小道に入っていける。
「小道に入っていける」というイメージが浮かんだ時に、自分の中で連想したのは、「道草」だった。
寄り道するのが、大好きだ。
予定にない道でも、その時「あ、いいな!」と思ったら、そっちに行ってみずにはいられない。
ただ、小道は、その先が行き止まりになっていることが多々ある。
残念に思いながら引き返しつつ、「でも、こんなものを発見できたなんてある意味ラッキーなや」とか、リフレーミングしてみたり。
一方、小道は、思わぬところで、大きな道に合流していたりもする。
ふと興味に引っ張られて飛び込んだ先が、自分の目的地への大きな道につながっている。
そこそこスピードは出るけれども、周りの景色も良く見えるし、風やにおいも感じることができる。
時折、スピードを出しすぎて、すっ飛ばしてしまうステキな景色もあるけれど。
前しか見ずに、目的地に向かうことだけ意識してて、気付くと燃料切れで動かないなんてことも。
そんな全てが、自分の人生と妙にリンクしているようで、原付に必要以上の愛着がわいてしまったぐらいだ。
ついつい横をすごいスピードでビュンビュン抜かれていくと焦ることもあるけど。
自分の人生がこのまま、原付のままなのか、どこかで違う乗り物に乗り換えるのか、それは今の自分にはわからないけど、まあ、自分のペースよなあ結局、と思う。
動き出した夏。252
31日で、1学期が終わった。
最初からペースがつかめず、最後までペースがつかめなかった1学期だったなあと思う。
だれが悪いというわけではないが、なぜか焦ってしまうような環境、ピリピリした雰囲気が学校全体を覆っていて、誰もが余裕のない中で、もがき続けた。
1学期が終わった今、ふり返ってみれば、「結構頑張ったんじゃないか自分」と思える自分がいる。
と同時に、突っ走っている最中に、自分をメタ認知することの難しさを感じた。
続けていたリフレクションが苦しかったのは、そんな枠組みの中からのリフレクションに過ぎなかったからなのかもしれないなと今では思う。
例えるなら、水中でおぼれているのに、「どうやったら上手に泳げるのか」と息を止めながら、考えているようなものかもしれない。
大事なのは、水面に顔を出して息をすることだった。
このタイミングで夏休みに入って、こうして少し1学期の自分を俯瞰してみることができて良かった。
さて、夏休みに突入してやっとゆっくりできる…とはならない。
自分で、この夏学びたいと思ったことがどんどん動き出しているからだ。
その一つ一つが、継続的な学びの場で、かなりアウトプットが多い。
でも、ワクワクしている自分がいる。
この夏の学びをどうやって2学期からの現場での実践に生かしていけるのか。
思えば、昨夏から今の状況に至る変化が起こり出した。
自分の中で、昨夏のきっかけが強烈なインパクトとして自分の中にある。
その残像が、今年の夏をまた「いいものにしたい」という自分の中のモチベーションにつながっている。
「学ぶ」とは、「私たちにとって意義のある、つまり、効果的なアクションを取れる能力を高めるためのプロセス」。
人は、望む姿があって、そこに近づこうとして学習する。
じゃあ、自分の望む姿って何だろう。
特に、ここ一年ずっと考えている。
「学校において、子どもたちが安心安全の中で自己選択・自己決定の経験を積み重ね、クラスづくりや学びに対してオーナーシップを持って過ごせる」
そんなビジョンはある。
「教える」ではなくて「ともにつくる」人として、伴走者として在りたいという望みもある。
まだまだ解像度が低いなあと思う。
けど、一年前と比べて、ずいぶん納得して言語化できるようになった。
これをいかに自分の言葉で語れるようになるか、借りてきた言葉ではなく。
これらのビジョンに向けて、その道中も楽しみながらこの夏を過ごしたい。
今年も夏が、動き出した。
「解決」にばかり目が向くとこぼれてしまうもの。 251
先週から始まった分散登校。
子どもたちに会えた2日間は、たった2時間だったとはいえ、とても幸せな時間だった。
ただ、一つだけ関わり方で後悔していることがある。
そのことについてきちんと書き残しておいた方がいいと自分の直感が告げているので、その直感に従おうと思う。
それは、分散登校2日目。
「ふり返りジャーナル」の説明をして、書き始めた時だった。
ある男の子が少しおびえたような顔をして、ぼくのところにノートを持ってきた。
「先生、名前の漢字まちがっちゃって…。」
そこには、へんとつくりが左右入れ替わってしまったその子の名字の一文字がネームペンで表紙に書かれてあった。
それを見たぼくはすぐに笑顔で、
「そっかそっか、大丈夫やで。この予備のノートがあるから、取り換えようか?」
と聞いた。
男の子は、ほっとしたような顔でこくんとうなずき、入れ替えたノートを持って自席に戻っていった。
その時は、無意識だったけれど、自分の中でその子の「不安」を解消してあげたいという気持ちが強かったと、今振り返って思う。
その判断や行動について特にどうこうはないのだけれど、それ以前に見落としてることがあるんじゃないか…と今も思っている。
2年生の男の子が自分の名前を漢字で書くという「チャレンジ」。
その子の名字はどちらもまだ習っていない漢字。
他の子が何人も「先生、名前習ってないけど、漢字で書いてもいい!?」とうれしそうに聞いてきていた。
そういう中で、彼もきっと刺激を受けて、「自分も!」と思ってチャレンジしたんだと思う。
そこに対する「承認」が欠けていたのではないか。
そんなことが頭から離れない。
「間違ったんかあ。そうかそうか。でも、自分の名前の漢字書こうと思って、チャレンジしてんなあ。ステキやなあ。ナイスチャレンジやわ。先生うれしいなあ、こうやって『やってみよう』って思って試してみるの。」
その一言があってから、「解決」でも良かったんじゃないかなあ。
子どもたちはこれからも、日々のちょっとした不安や不満を吐き出してくるだろう。
でも、いつもその「解決」にばかり目が向いてしまうことで、零れ落ちてしまうものがあるんじゃないか。
そういうところをていねいに掬い取っていける自分でありたい。
ただの観察です。 250
今週から分散登校が始まった。
二日間かけて、地区別でクラスの半分ずつ子どもたちが登校してくる。
会うのは2回目の子どもたち。
はじめこそ、緊張していたけれど、一緒に遊んだり、話したりするうちに、緊張もほぐれて、やわらかい笑顔を見せてくれるようになった。
そんな登校日のある男の子とのやり取りがもう最高におかしくって、今でも思い出して笑ってしまう。
それは、登校日の2時間があと10分ぐらいで終わる、というときに起きた出来事だった。
男の子「先生!俺の嫌いな食べ物何やと思う?当ててみて!」
ぼく「んー、そうやなあ。じゃあさ、3択クイズにしてよ。」
男の子「わかった!んー、じゃあ、いくでー!」
ぼく「はいはい、どうぞ!」
男の子「俺の嫌いな食べ物は何でしょう?」
ぼく「うんうん。」
男の子「一番トマト!二番…えーっと、何にしよかな…あ!わかった!二番コンソメスープ!三番はー…えーっとちょっと待ってな。んーっと…あ!麻婆豆腐!さあ、何番でしょうか!?」
ぼく「一番トマト!」
男の子「えー!?なんでわかったん!?」
最高かよ。
かわいくってかわいくって。
何度思い出してもにやけてしまう。
明日からの登校日第2弾が楽しみすぎて仕方ない。
処女作。 249
先日、オンラインのショートショート講座なるものを見つけて参加した。
昨年度の三学期に、作家の時間に取り組んでいたこともあり、「教師がたくさん書かなければいけない」を積み重ねようと思ったのがきっかけだ。
Peatixで偶然見つけて、何だか面白そうだったから気づけば申し込んでいた。
当日、少し緊張して参加したが、始まってみると、講師の方の説明がとてもわかりやすい上に面白くて、ワクワクしながら書いている内にあっという間に2時間が過ぎてしまった。
2時間前には全くのゼロ状態だったぼくの頭の中に、ショートショートが完成していた。
子どもたちとやってみても面白いんじゃないかと思った。
以下が、全く事前に考えることなしに2時間の中で一から完成させたショートショート。
仕上がりはともかくとして、やればできるもんだ。
「消したい過去」
あれは、ぼくが小学校4年生の頃だったと思う。家の近所の小さな文房具屋でおもしろい消しゴムを見つけた。消しゴムに内蔵されたAIが間違いを自動で判断して、同じく内蔵のスピーカーで教えてくれるというものだ。価格は500円と、普通の消しゴムにしては少し高い
と思ったが、勉強が苦手だったこともあり、貯めていた小遣いで買うことを即決した。
家に帰ってから、使ってみると、本当に間違えたところを教えてくれる。教えてくれる音声が予想以上に大きくてビックリしたが、消しゴム側面にあるボタンでなんとか調整できた。その日から、翌週のテストに向けて、ぼくは机に向かって勉強に励んだ。間違えたところがあると消しゴムが教えてくれるので、嘘のようにスルスルと勉強が進んだ。なぜか大阪弁なのも慣れてくると愛着がわいてくるものだ。そんなぼくの姿を見て、母はとても喜んだ。
テスト当日。スラスラと問題が解ける。終了まで10分以上を残して問題を全て解き終えた。そんなことは初めてだった。
残り5分を切ったころ、最後に見直しをしようと、テストを手に取ると、裏側が透けて見えた。
まさか…。慌ててテストを裏返すと、裏面にもびっしりと問題があった。
それまでの余裕は一気になくなり、慌てて裏面の問題にとりかかった。けれど、焦りのせいで思うように問題が解けない。
ああ、間違えた!くそっ!急いで消して書き直す。
…と、その時。「ちゃうちゃう!それ消さんでもそのままでおうてんねん!」
静かな教室に大音量の大阪弁が響き渡る。
ぼくの消したい過去の1つだ。
VACA 248
近所によく行くパン屋がある。少しお高めの値段設定だが、その分、あまり普段見かけないようなおもしろいパンやおいしいパンがたくさんあって、パン好きのぼくにとってはたまらない。
先日も妻と二人でそのパン屋へと出かけた。コロナで外出もままならない中で出かけるパン屋はいつもと違ってどこか特別感があって、少し遠出をするようなワクワク感があった。パン屋へ入ると、いつものように様々なパンがならんでいた。ゆっくりと、まるで美術館で絵画鑑賞をするかのように店内を回る。
ふと目をやった先に、チーズパンがあった。商品名の書かれた札には「ラクレットパン」と書かれてあった。「ラクレット」といえば、スイスの、とかしたチーズをかけて食べる料理のことではなかったか、と思い出す。確かに、パンの上にはたっぷりのチーズがかかっていて、その見た目だけで、お腹が鳴りそうだ。ラクレットパンは全部で4種類あって、チェダーやゴルゴンゾーラ、モツァレラなどどれもおいしそうだ。その中の一つをトングで挟み、トレイに置く。そのほかにもいくつかパンを選び、会計を済ませて家に帰った。
時刻は、午後6時。今からパンを食べると、晩御飯に影響が出る。「明日の朝以降に食べよう。」と決め、キッチンカウンターの上に置いておいた。
翌朝、目を覚ましてリビングに降りてきたぼくは、パンの袋の中から、クロワッサンメロンパンを取り出した。何だか、無性に甘いパンが食べたかった。クロワッサンメロンパンを食べると、お腹いっぱいになったので、朝ご飯はあっという間に終了。身支度をして、仕事に行き、定時で上がって帰宅して、晩御飯を食べ、風呂に入って、寝た。
翌朝、目を覚ましてリビングに降りてきたぼくは、パンの嚢の中から、ラクレットパンを取り出した。今日は、しょっぱい系のパンが食べたかった。上にかかっているチーズがすっかり固まってしまっていたので、電子レンジで少し温めることにした。ラクレットパンを持ち上げ、電子レンジに入れようとした。
その時、何か視界に違和感を感じ、ぼくは手を止めた。何かが引っかかる。ぼくは、電子レンジに入れようとしたラクレットパンをじっくり見た。ほどなく、ぼくは違和感の正体に突き当たった。
え、うそやん。これ…手前の方、カビてる…?
だって明らかに色が、こう、なんていうか、青っぽいような、灰色っぽいような感じになってるから。え、もともとこんな感じやったっけ。いや、わからへん。
2日前の自分の記憶をたどった。あのとき、確か…ラクレットパンには、4種類ぐらいあって…ぼくが買ったのは…あれ?何のチーズのパンやっけ?チェダーチーズ?いや、ゴルゴンゾーラ?それともモツァレラ?
でも、どうしても思い出せない。あんなにたくさんの種類があったのに、それをひっくるめて「チーズ」としか認識していなかったのか、と自分の浅はかさを呪いたくなった。
今、ぼくの目の前には、二つの選択肢がある。
一つ目は、これがチェダーチーズのラクレットパンであるという前提に立って考えるというもの。とするならば、これはカビてる可能性が一気に高まるので、食べない方が身のためだ。
二つ目は、これがゴルゴンゾーラのラクレットパンであるという前提に立って考えるというもの。こちらだと、もともとカビてて、こういう見た目になってる可能性が高いので、食べても大丈夫だろう。
どっちだ…身の安全か、満腹感か。
たっぷり3分ほど迷った挙句、ぼくは、ラクレットパンを、そっとゴミ袋に入れた。今でも、この時の自分の判断が正しかったのかわからない。ひょっとすると、あのまま思い切って食べていても何も起きなかったかもしれないし、逆に食べたことで食中毒を引き起こし、大変な思いをしていたのかもしれない。
変化の激しいチーズの見た目、買ったパンのチーズの種類に対する記憶の曖昧さ、それが引き起こす判断の不確実性…。
VUCA時代をチーズパンに見た一日だった。
4冊目「『できるクラス』の育て方」 247
今年度4冊目の読了はこちら。
著者は、現役小学校教員の山田さんとプロビジネスコーチの吉田さん。
コーチングを活かしたクラスのつくり方についての一冊。
自分自身の学級経営を見直したときに、今まで以上にもっとコーチングのスキルを活かしてこれからのクラスづくりをしていきたいと思い、コーチングについての理解を深めるという意味でもぴったりな一冊だと思って読むことにした。
教員は、とにかく「教える」ことが好きで、それは自分にも当てはまる。
でもぼくたちは教えてしまうことで奪ってしまっているものにもっと目を向けるべきだと思う。
そこで、「教える」を手放して、「質問」をうまくつないでいくことで、子どもたちから持っているものを引き出し、子どもたち自身が自分の思考を整理できるように促していくのがコーチングの基本スタイルとなる。
「答えは相手が持っている」と考えるのがコーチングの大原則だからだ。
それは、「子どもは未熟で、だからこそぼくたち大人が教えてあげなければいけない」と考える従来の教育観から、「子どもたちは本来有能である。ただ、その引き出し方を知らないだけ。
だから、うまく自分自身で引き出せるようにサポートしていく」という教育観への転換を意味する。
コーチングをただスキルとして使えばそれでOKなのではなく、コーチングを活かそうとする自分の教育観自体もしっかりとアップデートしなければその効果は半減するだろうなあと思った。
よく子どもたちに聞くときに、「なぜ?」と理由を聞いてしまう癖があるが、場面によっては、「なぜ」は圧迫感を生んでしまうそうだ。
だから、「なぜできないの?」ではなく、「何があったの?」と少し変えるだけで、受け取る印象が違って、子どもたちは安心して話してくれるようになる。
また、本書の序盤では、「承認」の重要性が何度も書かれている。
自分自身も最近特に、この「承認」の重要性を感じることが多い。
転勤してきて、新たに先生たちと信頼関係を築いていく中でも承認を積極的にしていくことで、コミュニケーションがうまく取れるなと実感している。
子どもたちも同じで、承認が積み重なるほど、安心安全な教室が広がっていき、だからこそチャレンジにも踏み出せるようになるんだと思う。
ドーパミンは人のモチベーションに関わる物質である。
このことからも承認が非常に重要であることが分かる。
承認する際には、YOUメッセージ(あなたはすごいね!)とIメッセージ(〇〇してくれて、私はうれしい!)があるという。
自分は普段YOUメッセージが強いなあとふり返って思った。
これって、やりすぎると、先生からの評価がないと頑張れない子(先生からの評価依存)になってしまう可能性もあるなあと思った。
だから、Iメッセージも積極的に意識して使っていくことで、子どもたちが素直に自己肯定感を上げていけるように、バランスを心がけたいと思った。
そして、承認は、教師から子どもへのベクトルだけのものではない。
積極的に子どもたち同士が承認できるような場面を積極的に仕掛けていく必要がある。
クラスでの話し合いで最終的に多数決を取る場面がよくある。
でも、その時、なかなかうまく決まらなかったり、納得感が低かったりすることがあり、そこは問題だと感じてきた。
(もちろん、多数決でない決め方もまず選択肢として取り組んだ上で)
本書に書かれていた「手を挙げる回数を増やす」のは、シンプルでとても効果的な方法だなあと思った。
例えば、6つの中から2つ決めるとき、決める数の倍の4回手を挙げてもらう、3つの中から1つ決めるとき、決める数の倍の2回手を挙げてもらうといったやり方だ。
少しの工夫で、子どもたち一人一人が「自分で選んだ」という実感を持たせることができる可能性が高まるのでとてもいいと思った。
また、子どもたちにうまくいかないことや悩み事がある際に、活用できるスキルとして「スケーリング(計測)」もとても有効だと思った。
そのままでは見えない現状を一旦自分の感覚でいいからスケーリングして数値化することで、理想とのギャップがどれくらいなのかを何となくイメージし、手立てにつなげることができるからだ。
このスケーリングを活かすことで、様々な場面で、子どもたちが自分の現在地を把握し、そこから次の一手を自分で見つける手助けができると思った。
スケーリングの汎用性はかなり高いと思う。
どんどん使っていきたい。
最後に、子どもたちが全て決める給食当番システムもやってみたい実践の一つだ。
テーマだけ決めて(例えば、「素早く」「正確に」「盛り切る」とか)あとは、そのテーマを達成するためにどう動けばいいかを子どもたちで考えながら修正しながらどんどんチャレンジするという方法だ。
はじめは時間がかかるかもしれないが、それでもチャレンジすることで、失敗を恐れず、みんなで共同修正して、自分達でクラスを作っていくオーナーシップが芽生えてくるのではないかと思う。
この給食当番の例だけではないが、日常的に、子どもたちが考え、自己選択・自己決定をし、それを対話しながら振り返る機会というのをいかに位置づけることができるかはとても大事だと思う。
コーチングの考え方をベースに、子どもたちの主体性を育む学級経営を進めていきたい。