3冊目「『人間とは何か』はすべて脳が教えてくれる」 246
今年度3冊目の読了はこちら。
著者は、アーケシュフース大学病院の神経専門医で、オスロ大学で教鞭もとっている。
最近、脳科学や学習科学、認知心理学に興味がある。子どもたちの学びをもっと科学的なアプローチからも充実したものにしたいのと、学びが生起するメカニズムについてもっと理解し、それを取り入れて授業を組み立てられるようになりたいからだ。
そう思って手に取った本書だが、その内容は、人間生活全般について言及されていて、もっと「学習」という「側面にフォーカスしたものを期待していた自分としては、少しピントがずれてしまった感は否めない。
が、その中でも、教育に還元できると思った部分について以下にまとめていこうと思う。
まず、「権威への服従」という部分に共感した。
アメリカの心理学者スタンレー・ミルグラムの研究からの引用だ。
「通常の知能を持つ65%の人々が、権威者から指示されれば、仲間に危害を加えることがある」という部分。
学校での子どもたちの集団心理にも似ている。
一人ずつだといい子だが、集団になると難しくなるというのは、よく聞く話だ。
人が集団で何かをするときには、個人の良心が働きにくくなる。
でも、これって、逆にプラスで使えないのだろうか。
そこに関しては疑問が残る。
4月が始まって、部会での話し合いで、今年の授業を誰がするかという話になった時、急にみんなの歯切れが悪くなった。
きっとそれぞれの先生方の中で、「自分はやってもいい」という思いがあったのだろうけれど、それが集団の場でなかなか言い出しにくい、お互いにけん制するような雰囲気が邪魔をして、膠着状態になってしまったのだろう。
まさに、ミルグラムの研究が示したことと一致する。
場にいるメンバーが、自分の発言に自己検閲をかけすぎると、その場は健全とは言い難い。
そのような場で発言することは、脳の前頭葉でさえ間違っていると判断できない側面があるらしい。
だから迷ったら思い切って自分の意見を言う方がいい。
自分自身、職員の中でもそういう自分を忘れないようにしたいし、子どもたちがそういう状況にあるときには、暖かく見守って、発言できるようにそっと背中を押せるようなサポートを意識したい。
次に、よく「将来の自分のためになるから勉強しましょう」とか「新しいことをどんどん学んで賢くなりましょう」という言葉に関して。
脳科学的に見れば、これは「正解」。
「新しいことを学ぶ」というのは、脳の中の神経細胞ネットワークが新たにつながったり、太くなったり、強化されたりすることを意味する。
これは、今まで何となく教員が自分の経験則からだけでやっていた声掛けに脳科学的なエビデンスという援護射撃を得たことになる。
子どもたちに学ぶことのメリットを伝えるときにも生かせそうだ。
そして、「新しいことを学ぶ」というのは「できるようになる」とは違う。
「学ぶ」ことそのものが、つまり、「チャレンジすること」が神経細胞ネットワークを増やし、強くしていくという事に他ならない。
これは、失敗を恐れてなかなか一歩を踏み出せない子どもたちにもすごく重要な事実ではないかと思う。
そして、やればやるほど、ネットワークは強く、速くなり、ハードルを感じることなく、前より楽にできるようになっていく。
成功するかどうかは重要なことではない。
チャレンジをくり返していくことが重要だ。
今回得たこの知見も生かして、子どもたちに前向きな声掛けやフィードバックをしていきたい
2冊目「どの子も輝く教室のつくり方」 245
今年度2冊目の読了本はこちら。
著者の桑原さんは、自身の「好き」と「経験」を掛け合わせて、スポーツマネジメント×イエナプランというかけ算で、現在、長野県で「学校法人茂来学園大日向小学校」で学校長を務めている。
公立小学校で勤める身として、自分だったら自分のリソースの何と何をかけ算するだろうと考えた。
そのためには、まず自分のリソースが何なのか、それを明確に把握しなければいけない。
現在、「メモの魔力」巻末付録の自己分析1000問に毎日20問ずつ答えて、それを記録しているが、それをヒントに自分のリソースが何なのか、改めて考えつくしたいと思った。
やはり「好き」をかけ算の中に入れ込むのは強いなと思う。
「やらされている」で生まれる力は「やりたい」の力にはどう頑張ったって勝てない。
子どもも同じだ。
いかに子どもたちの「やりたい」「好き」を原動力にして学習をデザインしていけるのか。そのために、自分の強みを最大限に活かせたらいい。
自己と向き合い続け、問い続けていかなければ、そういう教育はきっと実現できない。
問い続けていくときに、有効だと思ったのが、「事実→理想→行動」のサイクルを常に意識するということ。
いつも事実から理想とのギャップを把握し、そのギャップを埋めるための行動を起していくというもの。
これは、コーチングプロセスと同じ構造だ。
「事実」を見極めるためには、「観察する力」が必要。
理想とのギャップを把握するためには、「ビジョン」が必要。
そして、行動を起していくには「成長的マインドセット」が必要。
これまでに自分で学んできたことがつながっていく感覚があった。
自分自身のサイクルでも意識したいが、子どもたちとの日々のやりとりの中で実践を積んでいきたい。
「気軽にシェアする文化をありとあらゆる場面で設定しよう」というメッセージにははっとした。
自分に欠けている視点だと思ったからだ。
「文化」になるまでのシェアを意識することは、子どもたちの自己有用感やゆるやかな協同性につながり、それは安心・安全なクラスという居場所を作ることになる。
話し合いのサイクルに関しても、学びがあった。
これまで「個→グループ→全体」の流れで授業を組むことが多かった。
けれど、そもそも何のための「グループ」なのか?
何のための「全体」なのか?
そこを考えた時、最終的には、全て「個」に集約されていく必要があると感じた。
教育は、一人一人の成長のためにある。
だから、そこをないがしろにしてはいけない。
それは授業でも学級経営でも言えること。
そこを忘れてただ何となく入れる「グループワーク」や「全体共有」をなくして意識的になれるか。
自分は「全体→個」の流れの意識が薄いと思ったから気を付けていきたい。
また、自己開示に関して、子どもの前ではかなりできる方だと自覚してるが、職員室ではどうかと言われると、まだまだだなあと思った。
色々頭の中で考えてるアイデアがあってもそれを100%出すのをためらう自分がいる。
自分の持ってるものを出して「何一人で熱くなってるんやろう。」って思われやしないか、「ひけらかしてる」みたいに受け取られないか、そんなところを恐れているのかもしれない。
でも、それじゃあ、自分のことを信頼なんて本当の意味でしてはもらえない。
その葛藤を勇気を出して乗り越えていけるのか。
自分の課題の一つだ。
1冊目「教師の力を最大限引き出すNLP」 244
新しい年度になったので、冊数リセットしました。
今年度1冊目の読了本はこちら。
自分の中では、珍しく中身を長めに試し読みして、購入を決めた一冊。
NLPは、Neuro-Linguistic-Programmingの頭文字を取ったもので、日本語に訳すと、「神経言語プログラミング」。
その成立の経緯については、本書の一部を引用する。
1970年初頭、カリフォルニア大学の心理学部の生徒であり数学者だったリチャード・バンドラーと、言語学の助教だったジョン・グリンダーが心理学と言語学の観点から新しく体系化した人間心理とコミュニケーションに関する学問です。
なぜこの本に惹かれたのかというと、タイトルの「最大限引き出す」に、コーチング的なニュアンスを感じ取ったのが一番の理由のような気がしている。
そこから手に取って中身を読んでみると、具体的な手立てが色々と書かれていて、使えるかもしれないなと思った。
今年度異動したてで、初めて出会う子どもたちとどんな風に信頼関係を築いていこうかあれこれ考えていたことも影響していると思う。
この本を手に取る過程をふり返ってみて、めちゃくちゃ「カラーバス効果」を実感した。
「コーチング」という特定のワードを意識して普段の生活をしているから、そこに関わるものや言葉が自然と目に入ってくる、そんな状態なんだろう。
NLPの効果として、序盤でプロテニス選手アガシの復活劇について書かれていたが、アガシを復活させたコーチは、テニスの専門家ではなかった。
「相手の力を引き出す」というスタンスに立つのであれば、テニスの専門性は必要でなくなる。
答えは相手が「持っている」ことが前提だからだ。
とてもコーチングと相性がいい考え方だ。
NLPには、15の前提がある。
1 相手の世界観を尊重すること。
これって、傾聴そのものだ。
3 行動は適応するための調整であり、そして、行動はその時選択可能な
最もよい選択なのである。
これって、子どもたちや保護者の思いを受け止めるときにすごく大切だ。
自分のものさしで相手を否定していたら、信頼関係は築けない。
6 行動と変化は、コンテクスト(背景・状況・文脈…)とエコロジー(生物と環境の相互関係)という観点から評価されなければいけない。
その場面だけ切り取って判断することって、指導の中でやってしまいがちだけれど、そこでこの前提を思い出したい。
そして、「エコロジー」って、これ認知心理学でいう「アフォーダンス」のことじゃないのか。
子どもたちの行動のきっかけとなる環境という観点は、もっと自分が持つべき視点だと思った。
子どもたちが望ましい行動を自ら選択したくなるような環境デザイン。
教室だけでなく、学校全体の中で、そういう視点で改善できるところを見極め、デザインしていけたらいい。
7 人は、成功するための能力をすべてもっている。(リソース(資源・能
力)をもたない人は存在しない。存在するのはリソースの足りないステ
ート(心の状態)だけ)
これも、「子どもはそもそも有能だ」という自分が大切にしている子ども観とリンクする。
8 クライアントからの抵抗は、ラポール(信頼関係の構築)の不足を示し
ている。
まずは、心理的安全性の確保による、安心・安全な居場所作りを心掛け、承認を積極的に行っていくことが大事だと改めて感じた。
9 あなたに返ってくる返答は、あなたが送り出したコミュニケーション
の真意に対応する。
よく「相手は自分を写す鏡」と言うが、まさにそれだ。
そして、「コミュニケーション」ではなく、「コミュニケーションの真意」に対応することも忘れないでおきたい。
いくら上辺で取り繕ったところで、本当に本心からそう思っていないことは伝わらないし、見透かされるってこと。
だからこそ、教師として「在り方」が試されていると思う。
11 私たちが使う言葉は、それが表象する出来事や物事そのものではな
い。マップはテリトリー(領域)ではない。(ひとつの出来事は個人によ
って捉え方が変わるということ)
人は、その人が見たいようにしか見ない、ってこと。
自分の見方もそうだし、相手の見方もそうだってことを忘れちゃいけない。
だから、そもそもコミュニケーションというのは、不完全でしかありえない。
だから、様々な手立てでその隙間を埋めていくことで、より精度の高いコミュニケーションが可能になり、相互理解につながるということ。
信頼関係を築く基本スキルとして登場した「キャリブレーション」は、そういう言葉があることを知れて良かった。
これは、「相手の心理状態がどうなのかを、言語以外のサインから情報を見分けること」をいう。
つまり、「よく観察し、気付く力」のこと。
これって、これまでの経験でおそらく無意識でくみ取っていた部分が大きい。
それに、全てを意識して気付くというのは、正直難しいと思う。
無意識、いわばオートパイロット状態で処理しているからこそ、受け止められている部分がかなりあると思うから。
でも、「こういうスキルがあって、こういうところから情報が読み取れる」ということを「知っている」と、子どもたちの行動の意味を一つ一つふり返る際の視点になる。
今までよりも、ほんの数%でいいから、「あ、この姿勢はひょっとして…」みたいにひっかかりを意識の上の持ってくることができれば、十分かな。
「直感と論理をつなぐ思考法」でも登場した「VAKモデル」がここでも出てきた。
改めて当てはまる項目にチェックしてみたけど、やっぱり自分はA(聴覚)優位っぽい。
この「VAKモデル」、レッテル貼りにしてしまうことだけには気を付けたい。
「この子は、聴覚優位だから~。」とその子のイメージを固定してしまうと、そのイメージの中でしかその子を見ることができなくなる。
それはつまり、目の前のその子を見ていないということだ。
あくまで、より良いコミュニケーションを取っていこうとするときの一つのとっかかりに過ぎない。
コーチングにおけるソーシャルスタイルと似ているかもしれない。
後の方で出てきた「メタモデル」についても、同じことが言える。
レッテル貼りのためのものではない。
他者視点での気づきを促す「ポジションチェンジ」は、ぜひ子どもたちの指導の中で活用してみたいと思った。
特に、今年度持つ低学年だと、なかなか頭の中だけで、相手のことを想像して考えるのが難しい子もいてると思う。
おもしろい。
人の目の動きでその人の考え方の傾向を読み取る「アイアクセシングキュー」もとても興味深い。
でも、ちょっと眉唾感が自分の中にあって、本当にこの通りになるのかと半信半疑。
まあ、「とにかくやってみよう」の精神で、ちょっと子どもたちを見取る時にやってみよう。
そして、「リフレーミング」。
ここ読んで、頭に「失敗」の文字が浮かんだ。
そうだ。
昨年度、ぼくは、子どもたちの中にある「失敗」の意味を「リフレーミング」しようと奮闘していたんだ。
そんなことに気づいた。
子どもたちにとって「失敗」という言葉の持つネガティブな意味をリフレーミングするのは、今後もとても重要になってくると思う。
このリフレーミングがうまくいくことで、子どもたちは主体的に学び、積極的にトライ&エラーをくり返せるようになるはずだ。
「けテぶれ」の実践の中では、まさに「失敗のリフレーミング」を子どもたちが自らの力で行っているなあと思った。
一冊読み終えて、「ああ、あれのことか。」という共感がたくさんあった。
それは、これまで積み重ねてきた実践知が理論とリンクしたんだろう。
今まで何となく言語化できないまま、感覚的にやっていたことが体系的に整理された感覚がある。
すっきりしたというか。
理論と実践、どちらも欠けちゃいけないってことを実感した一冊だった。
新型コロナウイルス対応で、子どもたちとの出会いはまだしばらくお預けになってしまったけれど、同僚の先生とのコミュニケーションの中とか、できるところからまた実践知を積み重ねて、向上しつつ、子どもたちとの出会いを待ちたい。
41冊目「あなたの授業が子どもと世界を変える エンパワーメントの力」 243
今年度(2019年度)最後、41冊目の読了本はこちら。
amazonで注文したこの本が届いてから、貪るように読んだ。
「教師とは?」という問いは、この半年、自分の中をぐるぐると相変わらず回っている。
おそらくその問いに絶対的な答えはない。
なぜなら、時代が変われば求められる教師像も変わっていくから。
そんな教師に必要な力もこの先どう変化するかわからない。
でも、そんな中でも結構普遍的に大事で、理想だなあと思うことが、この本に書かれていた。
何より、この本を貪るように読んだぼくは、確実にこの本にエンパワーされた。
読み始めて、これまでの自分の授業をふり返った。
今まで本当の意味で子どもたちの興味関心を大事にして、授業を継続できたことがない。
そこには、大人側の都合がいつも見え隠れしていて、「時間がない」「カリキュラムが…」「本当に指導事項を網羅できるのか…」と何度思ったことか。
その時点で、子どもたちの本当の姿は、霞んで見えなくなる。
でも、この本を読んで、もし本当に一年間継続して、子どもたちの興味関心から出発した実践をやっていけたら、子どもたちはどんな変化を見せてくれるのか、そんなことを考えてワクワクしている自分がいた。
読んでて、共感できる部分が多かったのだけれど、「なんで共感できるのか?」考えてみると、「作家の時間」でやってるサイクルと重なることが多いからだと気付いた。
「作家の時間」でやっていることを、他の授業にも汎用的に拡張していったのが、この本に書かれてある授業のように思う!
そして、前回の『「未来の学び」をデザインする』を読んだときにも感じた「何かがつながりそうな感じ」はこの本でも継続的に感じていた。
この「何か」って、理論では得られないものじゃないのかなあ、そんな気がする。
実践を継続してその「実感」からでないと「何か」ははっきりと言語化できないんじゃないだろうか。
そのためには、子どもたちをどこまでもそのありのままの姿を「見る」ことができるかにかかってる。
そこにひたすらに真摯に向き合えるかどうか。
年始のエデュシークから、ずっとつながってること。
今年、一年かけて大事にしたいこと。
子どもたちの興味関心、トライ&エラーを本当に大事にしたとき、授業計画というもの(毎時間何をして、何を学ぶかを時間ごとに明確にしたもの)は、実は、その都度修正を求められて、逆にストレスフルな状況を生み出すのではないか。
もちろん、だからと言って、授業準備をする必要がないといっているわけではない。
ただ、その計画がこちら側の手にある以上、それはその時点ですでに子どもたちの手を離れてしまっているという当たり前の事実。
子どもたちの興味関心は、そこに合う子だけに生まれ、それ以外の子にとっては「やらされている」の域を出ない。
だから、オーナーシップを持てず、当事者意識のないまま、学習を「強いられる」ことになる。
授業計画を含めて、教室の中で、子どもたちをもっと「つくり手」にできないか、そんな視点での試行錯誤が、もっともっと必要なんだろうな。
そんな授業を考える上で、本書に出て来る「LAUNCH」というデザインサイクルは汎用性があっていいなあと思った。
これまで、国語で単元構想しての授業を研究してきたけれど、その土台は残しつつ、学習計画表を時系列の一方向なものでなくて、チェックリストを活かした「学びの地図」(ルートは自分で選べる!)として、子どもたちと作ることができたら、もっと自由にその子のペースで学べるのではないか。
つまり、教室にもっともっと「自己選択」と「自己決定」の場面を増やしていきたい!
それが子どもたち一人一人のオーナーシップを引き出し、どんどんエンパワーされた子どもたちは、自分の学びに主体的に関わっていくようになるんじゃないか。
自分の教室でどこまで実現できるか。
これも一歩ずつ。
小さく始めて、ふり返って、をぐるぐる回す。
40冊目『「未来の学び」をデザインする』 242
本年度40冊目の読了本はこちら。
しばらく前に買って途中まで読み進めていたのだけれど、他の本に興味が移ってしまってほったらかしてたところを、再び一から読んだ。
タイトルにあるように、「未来の学び」について、「空間」「活動」「共同体」という3つの視点から書かれてある本だ。
やっぱり、これまで自分はもちろん、日本の教育って、学校での学びと学校外での学びを分けて扱いすぎてきたんだなあと痛感した。
実は、学校外での学びに、とてもたくさんのヒントが隠されていたのに、それを「学び」とさえ見ていなかったところあるよなあ。
「遊び」と「学び」も分けて考えてた。
でも、そうじゃないよなあってこの本読んですごく思った。
「教える」「教えられる」でもないし、「評価する」「評価される」って関係も違う。
みん職の高橋先生の講座で教わったインストラクショナルデザインとか構成主義とかが、すごく自分の中でしっくりくることが多くなってきたここ最近。
今までの色々な断片が、自分の中でつながりそうな、そんな予感。
まだ、はっきりつながって言語化できるわけではないけれど、この予感のしっぽを掴みたい。
本文中の「鉄腕アトムを実現させたい」のトピックで書かれていたことから、MC型教師とも言われている沼田先生(ぬまっち)のアナザーゴールという手法を思い出した。
大きなビジョンを立てて、そこに突き進んでいく過程で得られる周辺知識やスキルが実はたくさんあるんだと思う。
そして、もちろんビジョンの実現も本気で目指すが、結果として実現できなくてもそれはそれで、構わないんだと思う。
その過程で得られたものに十分価値があるから。
ムーンショットだ。
本文中に、「Lifelong Kindergarden(生涯幼稚園)」という言葉が出てくる。
意味は、幼稚園児の様に楽しみながら生涯様々なことを学んでいくというもの。
学級経営で大事にしたいことに組み込んでいきたいマインドだなって思った。
Build to thinkの考え方は、授業への応用を意識していけたらいい。
物を作って、他者の目にさらして、ふり返って考えるのサイクル。
この辺は、以前に読んだ「直感と論理をつなぐ思考法」の中に出てくるVAKモデルなんかともリンクする。
また、「空間」でいえば、新年度から校内の環境を少しずつ変えていくことにもチャレンジしていきたいなあと思う。
特に「オープンスペース」の活用。
たとえば、廊下にテーブルとイスを置いて、だれでも使えるようにしておいたら、いろんな学年の子が混じって何かする文化が生まれるのではないだろうか…とか。
もちろん、空間を整えたからといって、それだけじゃあ、文化は育たないと思う。
1つの手立てとして、強制的にでもオープンスペースを体験してみることもありだ。
体験してみる(プロトタイプ)ことで、その良さに気づくきっかけになるし、改善点が見えたら、それを修正していくことで、当事者になっていくことができるから。
そのあたり、いかにして提案して周りを巻き込んでいけるのか、が重要になってくるだろうなあ。
空間があって、そこに、活動があり、共同体が生まれ、それが文化になっていくんだろう。
「活動」と「空間」と「共同体」はそれぞれ独立していなくて、相互に関わり合っているということ。
麹町中学校や桜岡中学校なんかも、こういう環境デザインをうまく生かしてるのかな。
「活動」「空間」「共同体」、どこから手をつけていくかによって、そのプロセスはいろいろと変わってくるんだろうけれど、「空間」をデザインすることの心地よい強制力は結構あるんじゃないだろうか。
「空間」をデザインすることで、必然的に授業も変わらざるを得ないって側面もあるように思う。
相互に関わり合っているなら、そうなるはず。
今年度、教室リフォームを継続してきて、そういう環境が学習に及ぼす影響みたいなものに、これまで以上に敏感になってきたように思う。
もっと「学習」とどうつなげていけるのかを意識して、教室を見ていきたい。
前回の記事で読了した哲学対話の本との関連で言うなら、「サークル(円形)」の持つ空間としての力も大きいなあと感じた。
クラスにうまく取り入れていきたい。
取り入れるきっかけぐらいは、ぼくが作ってもいいかなあと思うけれど、そこから先は子どもたちでスクラップ&ビルドを繰り返し、共同修正していけたらいいなあ。
空間は、そこを使う人が思わぬ使い方を見つけることにもつながるから。
ぼくは、今年度そういう視点で教室リフォームを見ていなかった。
できあがったものに満足感を抱いている自分がいて、それはそれで悪い事じゃないとは思うんだけれど、もっとできたあとの使い方こそ、もっと目を向けるべきことだったなあと今は思う。
それが、一人一人の安心安全な居場所作りにも直結する。
活動面で思ったことで言うと、「情動的変化をいかに授業中、子どもたちの中に生む教材や授業を構成するか」の重要性をすごく感じた。
でも、ここでその教材なり授業を、教師が全部準備してしまったらあまりよろしくない。
そこで、学びのオーナーシップを子どもたちに手渡すのだ。
教材は子どもたちが選んで決めるし、授業の方法、というか、学習の方法も子どもたちが選んで決める。
そこを大事に授業をデザインできるようにしたい。
「共同体」についてで言えば、「正統的周辺参加論」がとても興味深い考え方だった。
『学び合い』なんかは、この理論をうまく教室の中で利用しているから成立しているところもあるのかもしれない。
クラスや学校の中で、いかにして、正統的周辺参加論の環境を生み出し、共同体を形成していけるかも、子どもたちの学びの大きなカギになる。
そして、共同体の形成には「言語と歴史の共有」が重要というのには、ものすごく共感した。
オンライン学習会で新しいメンバーが入った時に、このあたりのことを意識して、共有していかないと、共同体がうまく機能していかなくなる可能性がある。
転校してきた子にしてもそうだ。
なんか全然まとまってない感じにしかならんかったけど、まあ、いいや。
少しずつつながりそうな感じが強くなってきている。
んー、でも理論だけで頭でっかちは良くないから、そこに関しては、実践をして、目の前の子どもたちをよく見て、その間にあることをしっかりと考えて試して、そうやってくり返していこう。
39冊目「じぶんで考えじぶんで話せるこどもを育てる哲学レッスン」 241
本年度39冊目の読了本はこちら。
以前に、苫野先生の「ほんとうの道徳」を読んでからずっと「哲学対話」なるものが気になっていた。
自分の道徳の授業がゴリッゴリのワーク記入して発表して…みたいなワクワクしないものだったこともあり、頭の片隅で、道徳の教材や話に出くわすたびに、この「哲学対話」というワードが頭の中をふわふわと漂っていた。
とはいえ、「哲学対話」は数あるうちの一つのHOW TOだから、大事なのは、なぜこの哲学対話に惹かれるのか、というところ。
表紙を見ると分かる通り、子どもたちが円形になって座り、テーマについて対話をしていく。
この場では、教師と子どもという線引きはほとんどない。
ともに、その場でテーマについて探究する仲間とでも言おうか。
そこに、自分の苦手とする「道徳っぽさ」のような作りものっぽさ(ぼくの勝手な先入観だけれど)がないように感じたのだ。
道徳=正しいことを教えなければいけない、みたいな。
いやいや、待てよ。
でも、そもそも「正しさ」って何?
だれが決めるの?
決めた人は正しいの?
決める人はだれが決めるの?
全てから等しく客観的に見える正しさなんてこの世に存在するのだろうか。
「正しさ」という基準で話すこと自体、分断を生んでるだけなんじゃないのか。
人の数だけ正しさってあるんじゃないのか。
同じ方向性の「正しいっぽい」ってことぐらいはあるかもしれないけれど、そのニュアンスは、本当に無数に差異があって、寸分も違わず同じ正しさなんて、きっとない。
人は、自分が見たいようにしか物事を見られないから。
だから、その前提に立ったとき、「うそはいけません」「人には優しくしましょう」「自然を大切にしましょう」とか、そういう言葉に、何だか嘘くささを感じてしまう。
自分で言ってて、しらけている自分がいるというか。
そもそも、それが絶対の「正解」なんだったら、話し合う必要なんてどこにもない。
世の中、そんなにきれいに割り切れる事ばかりじゃない。
だからこそ、それぞれの差異にていねいに目を凝らして受け止め、一緒に考えていくことが必要なんだと思う。
答えじゃなくて、その考えていくプロセスそのものが大切というか。
そうすると、そのプロセスを踏んでいくときに、それがだれか、例えば、教師に敷かれたレールだったら、子どもたちは進んでいくだろうか。
いや、きっと何も疑わずに進んでいく子たちもいるんだろうけれど、それはそれで、その疑いのなさに危機感を抱く。
目の前にレールはまだなくて、でも自分達で列車を動かして、レールを敷きながら、ときに脱線もしつつ、未踏の地へ踏み出していくことの方が、圧倒的にワクワクするはず。
これまでの自分の授業は、ガッチガチにレールを敷いて、その上をお客さん感覚で子どもたちを走らせていたようなものだ。
で、「どうですか、お客さん?この景色は素晴らしいでしょう!?」と。
空気を読んでお客さんは答える。「ええ。その通り。素晴らしいですね。」
お客さんになった時点で、子どもたちは思考停止状態だ。
子どもが悪いんじゃない。
そういう状態にさせるような枠組みで授業を進めてしまっている自分の責任だ。
哲学対話では、レールがない。
レールは、みんなで対話しながら敷かれていく。
電車を進める燃料は、問いだ。
それも、子どもたち自身が立てて、考えたいと思った問い。
そう、出発点は子どもたち。
どの教科でもまだまだ「問い」をこちらが持っていて、それを下ろしてしまうことが多いけれど、一気には無理でも、やっぱり最終的には、子どもたちにオーナーシップを手渡すことを見据えて、少しずつでも、「問い」も子どもたちに渡していきたい。
そうすると、教師は一気に不安になると思う。
ぼく自身、手渡したところをイメージすると、不安が付きまとう。
「どんな対話になるんだろう?」
「そもそも対話は成立するのか?」
「変な方向にいったら、どうしよう。」
でも、きっとそれらすべての不安は、教師自身が安心したいだけのものなんだろうな。
不安との葛藤を乗り越えて、信じて、認めて、任せるを段階的にでも続けていった先に、見える景色を見てみたい。
問いを子どもたちが立てる場面は、発散思考から収束思考へ展開していくあたり、「問いづくり」の手法ととても近いものを感じたので、イメージが結構湧いたのは収穫。
始めた当初、うまく対話が進むように、その場を教師がファシリテートする必要がありそうだが、それもいい修行だと思って、やってみよう。
問いづくりで1時間、その問いについての対話で1時間と、2時間構成になっているから、そのあたり、内容項目と授業時数はうまく調整していかなければいけないなあとは感じるが、チャレンジしてみる価値はあるなあと思えた、そんな一冊だった。
まずは、1学期にどこかで一回まるっと2時間やってみよう。
そして、目の前の子どもたちをよく見て、一緒に修正していく。
それだけそれだけ。
ただただ、ていねいにそれをくり返していく。
明日からの楽しみがまた一つ増えた。
みん職フォーラム① 240
先日21日・22日の二日間、完全オンラインで開催された「みん職フォーラム」に、22日のみだが、参加した。
最初に参加したのは、上條晴夫先生の「協働的なリフレクションで授業をつくる」の講座。
朝一番で、前日の結婚式疲れがあったが、何とか参加できた。
最初に、上條先生から、協働的リフレクションとはどういったものか?ということについて、15分ほどレクチャーを受けた。
そして、その「協働的なリフレクション」に対する疑問を、PICAGIP法という手法で参加者で順番に質問にしていき、それを回すことで理解を深める、という流れで講座は進んでいった。
さらに、付け加えるなら、上條先生とぼくを含む9人がPICAGIP法で質問をつないでいくのを、そのほかの参加者は、さらに外側から観察して、最後に感想を交流するという、二重構造。
オンライン上でのフィッシュボール型。
この講座の構造自体が、若干参加者を当惑させていた感もあったが、やりながら把握して慣れていった。
個人的には、以下の二点について特に学ぶことがあったなと思う。
①PCAGIP法と「問いづくり」の類似性
②協働的リフレクションの校内研究での活用
まず、①について。
PCAGIP法は、上條先生曰く、「実践提供者を被告席に座らせない」方法らしい。
確かに、質問を参加者でつないでいくというスタイルは、「指摘」ではないので、まな板の上の鯉にはなりにくい。
「実践提供者とその他参加者」ではなく、「その場にいる参加者全員(実践提供者も含む)」というイメージ。
今回で言えば、上條先生が「実践提供者」であり、同時に「ファシリテーター」でもあった。
本来は、この二つは分けられている方が望ましいだろう。
PCAGIPという方法で、参加者全員を同じ協働探究者と位置づけ、その枠がうまく維持されるように、そのパワーバランスをファシリテートするという感じ。
「質問」をすることで、その場に「対話」が生まれる。
対話を通して、今回で言えば、「協働的リフレクションとは何か?」というコンテンツに対する理解を深めていった。
「参加者からの問い」を中心にその場が展開されていくという流れは、今年度社会で取り組んだ「問いづくり」と似ているなあと思った。
質問づくりにおける「問いの焦点」が「上條先生の15分のレクチャー」で、「参加者の質問の数々」は、「開いた問いと閉じた問い」だ。
自分が出した質問は、誰かにとってなかった視点で、誰かが出した質問は、自分にとってなかった視点だった。
質問をつなぐことで、自分一人では見えていなかった多角的な見方で、対象の解像度を上げていくことができるんだなあと感じた。
「問いづくり」では、作った問いについて、その答えを実際に調べ学習をしたり、様々な方法で探究していく。
PCAGIP法では、その方法が「対話」というのが、おもしろいなあと思った。
まるで哲学対話みたいだ。
この対話の要素を「問いづくり」の中にも入れ込むことができれば、「問い」自体の質を上げたり、その問いの解決策へのヒントが得られたりするのかもしれない。
次に②について。
結論から言うと、現在の勤務校での校内研究とは、真逆と言ってもいいスタンスで、でも、そこに魅力を感じ、これを校内研究で導入していけたら面白いのではないか?と思った。
協働的なリフレクションでは、何よりも参加者の「実感」を大事にする。
この「実感」という言葉がどういうことかを言語化するのはとても難しい。
ただ、まあ、その人の「直感」に近い部分というか、「なんとなくいい」とか「ここに惹かれた」「なんでか気になる、ひっかかる」みたいなところだろうか。
自分の情動的変化に敏感になるイメージかなあ。
で、その「実感」を掘り下げていく。
「どうしてその実感に至ったのか」「どこからその実感は得られたのか」「そういう実感を得るに至った自分の背景には何があるのか」
そういったことを、対話を通して。
そうしてリフレクションを進めていく中で、自分の課題や関心の解像度が上がっていく。
その結果、この授業から「自分の」実践に何をどう生かしていくのかが見えてくる。
コルトハーヘンのALACTモデルの話も少し出たが、まさに「行動」や「思考」だけではなくて、その奥にある「感情」や「望み」をもっと大事にする感じ。
校内研究において、研究主題が設定され、その中で授業の方法まで統一されて、講師の先生を呼んで…なんてことがよくある。
実際、自分が研究部長を務めていた時にもそういうことをしていた。
でも、それって本当に、目の前の子どもたちの、先生たちの血肉になるのに、ベストな方法なんだろうか、とそんなことをふと思った。
目の前の子どもたちは一人一人違うから、クラスの雰囲気も、積み重ねてきた歴史も違う。
担任の先生も、得意不得意、好き嫌い含めて様々なはず。
じゃあ、そんな全てがい違うと言ってもいい各クラスにおいて、統一した「やり方」を追求していくことにどれだけの効果があるのか。
効果というか、そういう研究スタイルがそこに関わる人たちに与えていくフィードバックは、本当に次に進むためのものになり得るのだろうか。
「このやり方は間違いない」と思って、他者の「感情」や「望み」をないがしろにして「研究を進めている!」なんて勘違いをしてこなかっただろうか。
「どんな子どもたちを育てたいのか」というビジョンの共有は、とても大事だと思う。
でも、そこに向けて、何をどう磨いていくのかは、先生によって違う。
それが、正解か不正解かじゃなくて、その先生がどう在りたいかだ。
その過程で「こっちじゃなかった!」ってこともあるだろうけれど、それは、そう気づいたときに修正していければいいし、そのためには、修正できる余白と環境がすごく大事な気がする。
そうして、それぞれの先生たちが、少しずつ自分をアップデートしていけば、その先で行われる協働的リフレクションは、また以前とは違ったものに変わっているはずだ。
まず、個人を大事にしながら、それぞれのアップデートが学校をより良くしていく。
そんなことができるんじゃないのかなと思うと、ワクワクする。
とはいえ、まだ何もやっていない時点での机上の空論状態なので、次年度から少しずつできるところからやってみよう。
まずは、この自分の「実感」を誰かと共有しよう。