小学校教員にょんの日々ログ

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みん職フォーラム① 240

先日21日・22日の二日間、完全オンラインで開催された「みん職フォーラム」に、22日のみだが、参加した。

 

最初に参加したのは、上條晴夫先生の「協働的なリフレクションで授業をつくる」の講座。

朝一番で、前日の結婚式疲れがあったが、何とか参加できた。

最初に、上條先生から、協働的リフレクションとはどういったものか?ということについて、15分ほどレクチャーを受けた。

そして、その「協働的なリフレクション」に対する疑問を、PICAGIP法という手法で参加者で順番に質問にしていき、それを回すことで理解を深める、という流れで講座は進んでいった。

さらに、付け加えるなら、上條先生とぼくを含む9人がPICAGIP法で質問をつないでいくのを、そのほかの参加者は、さらに外側から観察して、最後に感想を交流するという、二重構造。

オンライン上でのフィッシュボール型。

この講座の構造自体が、若干参加者を当惑させていた感もあったが、やりながら把握して慣れていった。

個人的には、以下の二点について特に学ぶことがあったなと思う。

 

①PCAGIP法と「問いづくり」の類似性

②協働的リフレクションの校内研究での活用

 

まず、①について。

PCAGIP法は、上條先生曰く、「実践提供者を被告席に座らせない」方法らしい。

確かに、質問を参加者でつないでいくというスタイルは、「指摘」ではないので、まな板の上の鯉にはなりにくい。

「実践提供者とその他参加者」ではなく、「その場にいる参加者全員(実践提供者も含む)」というイメージ。

今回で言えば、上條先生が「実践提供者」であり、同時に「ファシリテーター」でもあった。

本来は、この二つは分けられている方が望ましいだろう。

PCAGIPという方法で、参加者全員を同じ協働探究者と位置づけ、その枠がうまく維持されるように、そのパワーバランスをファシリテートするという感じ。

「質問」をすることで、その場に「対話」が生まれる。

対話を通して、今回で言えば、「協働的リフレクションとは何か?」というコンテンツに対する理解を深めていった。

「参加者からの問い」を中心にその場が展開されていくという流れは、今年度社会で取り組んだ「問いづくり」と似ているなあと思った。

質問づくりにおける「問いの焦点」が「上條先生の15分のレクチャー」で、「参加者の質問の数々」は、「開いた問いと閉じた問い」だ。

自分が出した質問は、誰かにとってなかった視点で、誰かが出した質問は、自分にとってなかった視点だった。

質問をつなぐことで、自分一人では見えていなかった多角的な見方で、対象の解像度を上げていくことができるんだなあと感じた。

「問いづくり」では、作った問いについて、その答えを実際に調べ学習をしたり、様々な方法で探究していく。

PCAGIP法では、その方法が「対話」というのが、おもしろいなあと思った。

まるで哲学対話みたいだ。

この対話の要素を「問いづくり」の中にも入れ込むことができれば、「問い」自体の質を上げたり、その問いの解決策へのヒントが得られたりするのかもしれない。

 

次に②について。

結論から言うと、現在の勤務校での校内研究とは、真逆と言ってもいいスタンスで、でも、そこに魅力を感じ、これを校内研究で導入していけたら面白いのではないか?と思った。

協働的なリフレクションでは、何よりも参加者の「実感」を大事にする。

この「実感」という言葉がどういうことかを言語化するのはとても難しい。

ただ、まあ、その人の「直感」に近い部分というか、「なんとなくいい」とか「ここに惹かれた」「なんでか気になる、ひっかかる」みたいなところだろうか。

自分の情動的変化に敏感になるイメージかなあ。

で、その「実感」を掘り下げていく。

「どうしてその実感に至ったのか」「どこからその実感は得られたのか」「そういう実感を得るに至った自分の背景には何があるのか」

そういったことを、対話を通して。

そうしてリフレクションを進めていく中で、自分の課題や関心の解像度が上がっていく。

その結果、この授業から「自分の」実践に何をどう生かしていくのかが見えてくる。

コルトハーヘンのALACTモデルの話も少し出たが、まさに「行動」や「思考」だけではなくて、その奥にある「感情」や「望み」をもっと大事にする感じ。

校内研究において、研究主題が設定され、その中で授業の方法まで統一されて、講師の先生を呼んで…なんてことがよくある。

実際、自分が研究部長を務めていた時にもそういうことをしていた。

でも、それって本当に、目の前の子どもたちの、先生たちの血肉になるのに、ベストな方法なんだろうか、とそんなことをふと思った。

目の前の子どもたちは一人一人違うから、クラスの雰囲気も、積み重ねてきた歴史も違う。

担任の先生も、得意不得意、好き嫌い含めて様々なはず。

じゃあ、そんな全てがい違うと言ってもいい各クラスにおいて、統一した「やり方」を追求していくことにどれだけの効果があるのか。

効果というか、そういう研究スタイルがそこに関わる人たちに与えていくフィードバックは、本当に次に進むためのものになり得るのだろうか。

「このやり方は間違いない」と思って、他者の「感情」や「望み」をないがしろにして「研究を進めている!」なんて勘違いをしてこなかっただろうか。

 

「どんな子どもたちを育てたいのか」というビジョンの共有は、とても大事だと思う。

でも、そこに向けて、何をどう磨いていくのかは、先生によって違う。

それが、正解か不正解かじゃなくて、その先生がどう在りたいかだ。

その過程で「こっちじゃなかった!」ってこともあるだろうけれど、それは、そう気づいたときに修正していければいいし、そのためには、修正できる余白と環境がすごく大事な気がする。

そうして、それぞれの先生たちが、少しずつ自分をアップデートしていけば、その先で行われる協働的リフレクションは、また以前とは違ったものに変わっているはずだ。

まず、個人を大事にしながら、それぞれのアップデートが学校をより良くしていく。

そんなことができるんじゃないのかなと思うと、ワクワクする。

 

とはいえ、まだ何もやっていない時点での机上の空論状態なので、次年度から少しずつできるところからやってみよう。

まずは、この自分の「実感」を誰かと共有しよう。