35冊目「ほんとうの道徳」 210
今年度35冊目の読了はこちら。
苫野先生の著書を読むのは2冊目。
オンライン講座を受講したり、前回の著書「『学校』をつくり直す」を読んで、すごく感銘を受けていたので、他の本も読んでみたいと思い、購入。
道徳…これまでの教員人生、はっきり言って、目をつぶってきたことだ。
「やる必要があるのか」と「やらなければいけない」のはざまで。
そんなスタンスの私が授業しているのだ。
子どもたちがこの「道徳」を実りあるものとして捉えられるわけがない。
今回、特別の教科化になった「道徳」。
授業といえば、教科書教材を読んで、登場人物の行動や心情を追っていき、道徳的価値について、思ったことを発表して、なんとなく終わり。
自分が受けてきた道徳の授業と全く変わっていない。
「でも、そもそもがやる意味なんてあるの?」
「教材研究しようにも時間がないし…」
そうやって、できない言い訳を重ねてきた。
でも、もうそろそろ本当に、だめだ。
どうせやるなら、まず自分がワクワクしたいし、子どもたちにもワクワクして、夢中で考えてしまうような、そんな授業がしたい。
藁にもすがる思いで読んだ。
「道徳」は胡散臭い。
授業をやっていても、そう思うことが実際ある。
それも一度や二度ではない。
どこかきれいごとを言っているような、うしろめたい感情が付いて回る。
そもそも、その感情が正しいのではないだろうか。
苫野先生が本書の中でも言っているが、「絶対に正しい道徳なんてない」。
正義は相対的なもので、絶対的正義なんてものは存在しない。
人の数だけ、正義がある。
それは、重なることもあるが、大抵は重ならない。
所属している共同体が違えば、全く通用しないこともしばしばである。
それは、誰もがそうした経験を多かれ少なかれしてきているだろうから、思い当たる節があると思う。
ある意味、当たり前のことだ。
でも、これまで受けてきた「道徳教育」や私がこれまで行ってきた「道徳教育」には、その前提がなかった。
人や状況によって変わる可能性がある道徳、それを唯一絶対の道徳があるという前提で授業をしてきたのだ。
「絶対に嘘はついてはいけない」「絶対に人を助けなければいけない」
例外などいくらでもある。
でも、そんなことは考えない。
いくらオープンエンドの体を装ったとて、その根本的なスタンスから、子どもたちは、その胡散臭さを感じ取り、しらける。
教師も薄々感づいているから、心は寒い。
絶対的な道徳があると信じてしまったとしたら、それは、そうじゃない人や状況に出会った時に、それらに対して自分たちの価値観を強制したり、価値観の違う他者に排他的な行動に出たりすることにつながる。
そんなことをさせてしまうかもしれないものが、「道徳」なのか。
もちろん、ちがう。
では、どうちがって、「ほんとうの道徳」とは何なのか。
苫野先生曰く、「ほんとうの道徳」とは「自由の相互承認の感度を育むこと」だという。
前回の著書でもたびたび出てきた言葉だ。
この「自由の相互承認」という考え方は、哲学2500年の歴史の中で紡ぎだされたものであり、その成り立ちについても本書ではていねいに触れられていて、理解が深まった。
学校教育で「自由の相互承認の感度を育む」ことを目的とする上で、道徳としてどんな実践が可能か、現行のシステムの中でも実践できるアイデアとして、3つのアイデアが紹介されていた。
①哲学対話
②学校・ルールをつくり合う
③プロジェクト化
の3つである。
この中で特に興味を持ったのが、①哲学対話と②学校・ルールをつくり合う だ。
③も取り組めるだろうが、かなり教科横断的ですぐには、難しいかなという印象。
しかし、次年度以降、プロジェクトとしての道徳もすごく魅力的だと思ったので、実現可能性を探っていきたい。
①②は、すぐにでも取り組んでいける良さもあるなと思った。
①はクラスですぐに取り組めるし、②もすぐ取り組める上に、成果がわかりやすく可視化できる可能性が高い。
ただ、哲学対話のやり方などはもう少し詳しく知りたいなと思ったので、本書の中で紹介されていた哲学対話に関する書籍を読んで、学ぼうと思った。
苫野先生は、こうしたアイデアの実践を蓄積しつつ、ゆくゆくは現在の「道徳教育」を「市民教育」として、発展的解消していく未来を描かれていた。
本書の中で書かれていた「市民教育」が実現した未来は、まだまだ先のことかもしれない。
でも、ひょっとすると、そう遠くない未来に、そんな教育が実現するかもしれない。
その来るべき時に備え、自分自身の「自由の相互承認」の感度を上げつつ、哲学対話など、手に入れたアイデアを、実践としてクラスの子どもたちに合った形にカスタマイズして、実践を積み重ねていきたい。