小学校教員にょんの日々ログ

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グラデーションの中で。 207

先日、TwitterでTL上に情報が流れきて目に留まったのが、「平成31年度 杉並区 特定の課題に対する調査、意識・実態調査 報告書」。

気になって、アクセスしてみると、まあまあな文量。

隙間時間にサラッと読もうかと思ってたけど、ちょっと骨が折れそう。

ということで、TL上で、ぜひ「はじめに」と「編集後記」だけでも!とレコメンドされていたので、そこだけ読むことにした。

そこには、これからの教育への熱量がほとばしっていた。

圧倒的な熱量に当てられて、読み手である私の中にもその熱量は確実に伝播した。

以下、読んで考えたことを書いていこうと思う。

 

この報告書では、これからのVUCA化がさらに進む未来を生きていく子どもたちのために、「学びの構造転換」をやっていこうという主旨で調査結果がまとめられている。

 

報告書(「はじめに」と「編集後記」だけやけど)を読んで、子どもたちは本来的に学ぶ力を持っていると改めてその事実を思い知った。

様々な科学でもそれを裏付けるような理論や調査結果が知見として蓄積されてきている。

しかし、公立小学校で働く一教員として、この前提に立って、これまで子どもたちの学びを見つめてきただろうか。

いいや。

どこかで「子どもたちは未熟な存在」だという認識があった。

だから大人が、教師が、「教えてあげなければいけない」と。

「できるだけ、わかりやすく、負担のないように」と。

でも、良かれと思ってやってきたことの多くが、実は、子どもたちの学ぼうとする、本来持っているはずの力を発揮する機会を奪ってきたのではないか。

「転ばぬ先の杖」が多すぎてはいまいか。

「主体的・対話的・深い学び」という言葉があちこちでお題目の様に飛び交っているが、その前提に、この「子どもは本来的に学ぶ力を持っている」という事実があるだろうか。

もっともっと、「信じて、認めて、任せる」、そんな在り方に教師の教育観がアップデートされていく必要がある。

そんな在り方から、考えた時、従来のアプローチ方法の持つ意味もまた変わってくるはずだ。

しかし、この前提に立つとき、「自由」と「放任」が誤解される危険性が付いて回ると思う。

そして、実際、全てを子どもたちに任せてしまってもうまくいかない場合がある。

先日、クラスの算数を『学び合い』でやっていて、大失敗をした。

子どもたちは、悪くない。

学ぶ力がなかったわけでもない。

でも、私の準備不足や学習環境・課題設定の甘さが招いたことだ。

誤解を恐れず言うならば、ある意味、きっちりと準備をして、その流れに従って、全員で同じペースで同じことを、同じ方法で学ぶのは、楽かもしれない。

でも、それは思考停止に陥っている可能性が極めて高い。

ただ、必ずしも一斉授業が悪いというわけではない。

こんなことを書くと、「お前はどっちなんだ!」と言われたりもしそうだが、そもそも、そう、「そもそも」である。

先日の苫野先生のオンライン講座での言葉を借りるなら、「探究などの学習と一斉授業は二項対立ではない。」と言える。

二つの間には、子どもたちの実態の数だけ、無限のグラデーションが広がっているんだと思う。

「探究」も「一斉授業」も『学び合い』も、手段である。

だから、目の前の子どもたちから出発する事こそが唯一の大切なことだ。

だから、時には、一斉講義型が有効に機能する場合もあるといえる。

ただ、そこでどちらかに振り切ってしまうのではなく、バランスを常に意識しながら、進めていく必要はある。

そう考えると、以前にお話を伺った高橋一也先生のインストラクショナルデザインの授業とリンクしてくる。

計画はあくまで計画、常に目の前の子どもたちの学びを見取り、その結果から、次の授業のバランスを調整していく。

そんなことが重要になっていくのではないだろうか。

 

んー、でもやっぱ「在り方」やなあ。

最近の自分の中のキーワードです。