小学校教員にょんの日々ログ

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マリアブルに。 263

先日、この本を読んでいて、マリアブル(malleable)という言葉に出合った。

 日本語にすると、「可鍛性」というそうだ。

これは、「鋼を熱して叩いていくと、強度や靭性(粘り強さ)が向上していく」

という意味の専門用語らしい。

 

この言葉が引っかかったのは、なぜだろう。

引っかかったルーツをたどっていくと、いくつか思い浮かんだ。

 

一つ目は、「書けるようになるためには、書くこと。」という言葉。

毎週参加しているオンラインサークルのメンバーでの会話の中で出てきた言葉だ。

二つ目は、同じくそのオンラインサークルの別の日の集まりで、自分が本紹介した中で使った、「筋トレした後の超回復みたいな」という言葉。

三つ目は、ここ最近自分の中で気になっているキーワードである「生命科学」「生物学」という言葉。

 

これらの言葉と、今回出合った「マリアブル」との間に、アナロジーにも似た感覚を得た。

結論から言うと、人間のありとあらゆる活動は、「マリアブル」であり得るのではないか、ということ。

鋼を叩けばどんどん強度や靭性が向上するというのは、筋トレをして一度切れてしまった筋繊維がより太く超回復するイメージと重なる。

ウイルスとワクチンの関係もそんなところがあるんじゃないか。

ワクチンの性能が向上すれば、そのワクチンに耐性のあるウイルスが現れる。

雑草は、踏まれることでより強くなっていく。

「切れる」「耐性」「踏まれる」、これらの言葉は、「負荷」と置き換えられるかもしれない。

世の中の事象や生命の仕組みの中には「マリアブル」が組み込まれているように感じる。

 

それらのことから、先述のような感覚「人間のありとあらゆる活動は、マリアブルであり得る」に行き着く。

グロウスマインドセットで有名なキャロル・ドゥエックも「あらゆくことはマリアブルであることが重要だ」と提唱しているそうだ。

結論としては、ドゥエックの提唱していることとほぼ同じことだけれど、このことを書こうと思ったのは、自身の体験として、この「マリアブル」が腑に落ちたり、これまでの言葉や経験とつながったからだ。

ぼくは、ぼくの感覚としての「腑に落ちる」から、「マリアブル」に引っ掛かりを覚えた。

最近、「書く」ということから少し距離を置いている自分がいた。

このブログもそうだし、学級通信も、日々のリフレクションも、3学期に入ってそのペースは明らかに失速していた。

「モチベーションが…」と片付けるのは一瞬なんだけれど、そうじゃなくて、物理的に「書かない」という状態が「書けない」「書く気がない」になってるんだと思う。

書く「筋肉」が衰えているんだと思う。

ぼくの最近の「書く」は、マリアブルじゃないんだ。

「書く」ことによって、自分の「書く」という鋼を叩くことをしていない。

だから、いざ「書く」に向かうと、その強度や靭性が弱くて折れてしまうんだ。

「書けるようになるためには、書くことだ。」という言葉は、まさにという感じ。

 

それとは逆に、最近の自分の「読む」はマリアブルだなあと思う。

年末までは、ぼくの「読む」のマリアビリティはかなり低かった。

本屋に行けば、気になる本は毎回毎回見つかって、すぐに買うのだけれど、読み切ることができないで、積読が増えていく。

けれど、先述のオンラインサークルの中で、年明けから読んだ本を一週間に一回紹介する機会を得た。

それがきっかけになり、心地よい強制力も手伝って一週間で一冊の本を読むことができた。

久しぶりだった。

充実感や達成感があった。

それに加えて、読了した後、頭の中に新たに「問い」が浮かんだ。

その「問い」に関わりそうな本を翌週に読む。

紹介する。

読む。

…を繰り返し、気付けば、年が明けて10冊の本を読むに至る。

決して多い数ではないけれど、それでも、ぼくにとっては、心地よいペースで読み続けるという事ができている。

そして、ここ最近では、読み始めてから集中状態になるまでの時間がかなり短くなってきた。

そして、一日で読めるページ数も増えてきているのである。

「読めるようになるためには、読むこと」なんだろう。

それを実感している。

 

ここに書いていることは、当たり前も当たり前のことなのかもしれない。

けれど、ぼくにはとても新鮮な気づきだった。

 

そして、この「マリアブルであること」への気づきが、今、ぼくをこうしてブログを書くことへ向かわせている。

 

「書く」と「読む」以外の活動も、きっと「マリアブルであること」が大切な気がしている。

「話す」や「聞く」も。

「演じる」も「受け止める」も「共感する」も。

「マリアブル」という視点で様々な活動を見るとき、ちょっとポジティブな気持ちになれる。

「やってみようかな」という自分がむくっと起き上がってくる感じ。

それが真実かどうかは、どうでもいい。

所詮、ぼくの見方でしかぼくの現実は存在しない。

でも、その現実を他者と共有し、その間に現実を創っていくためにも、可視化は大事だ。

その手段は、「書く」なのかもしれないし、「読む」なのかもしれないし、「話す」なのかもしれないし、「聞く」なのかもしれない。

 

でも、どの手段であろうと、「マリアブルであること」、それはまだ触れていない可能性への道を見つけるために必要なんだろうなと思う。