「解決」にばかり目が向くとこぼれてしまうもの。 251
先週から始まった分散登校。
子どもたちに会えた2日間は、たった2時間だったとはいえ、とても幸せな時間だった。
ただ、一つだけ関わり方で後悔していることがある。
そのことについてきちんと書き残しておいた方がいいと自分の直感が告げているので、その直感に従おうと思う。
それは、分散登校2日目。
「ふり返りジャーナル」の説明をして、書き始めた時だった。
ある男の子が少しおびえたような顔をして、ぼくのところにノートを持ってきた。
「先生、名前の漢字まちがっちゃって…。」
そこには、へんとつくりが左右入れ替わってしまったその子の名字の一文字がネームペンで表紙に書かれてあった。
それを見たぼくはすぐに笑顔で、
「そっかそっか、大丈夫やで。この予備のノートがあるから、取り換えようか?」
と聞いた。
男の子は、ほっとしたような顔でこくんとうなずき、入れ替えたノートを持って自席に戻っていった。
その時は、無意識だったけれど、自分の中でその子の「不安」を解消してあげたいという気持ちが強かったと、今振り返って思う。
その判断や行動について特にどうこうはないのだけれど、それ以前に見落としてることがあるんじゃないか…と今も思っている。
2年生の男の子が自分の名前を漢字で書くという「チャレンジ」。
その子の名字はどちらもまだ習っていない漢字。
他の子が何人も「先生、名前習ってないけど、漢字で書いてもいい!?」とうれしそうに聞いてきていた。
そういう中で、彼もきっと刺激を受けて、「自分も!」と思ってチャレンジしたんだと思う。
そこに対する「承認」が欠けていたのではないか。
そんなことが頭から離れない。
「間違ったんかあ。そうかそうか。でも、自分の名前の漢字書こうと思って、チャレンジしてんなあ。ステキやなあ。ナイスチャレンジやわ。先生うれしいなあ、こうやって『やってみよう』って思って試してみるの。」
その一言があってから、「解決」でも良かったんじゃないかなあ。
子どもたちはこれからも、日々のちょっとした不安や不満を吐き出してくるだろう。
でも、いつもその「解決」にばかり目が向いてしまうことで、零れ落ちてしまうものがあるんじゃないか。
そういうところをていねいに掬い取っていける自分でありたい。