小学校教員にょんの日々ログ

毎日の出来事や考え、思ったことなどとにかくアウトプット!

目的とルール 138

空き時間に職員室で仕事をしていた。

その時、「失礼します」という声と共に、ドアの空く音がし、

そちらを見ると、そこには、クラスの男の子が立っていた。

瞬間、私と目が合う。はっきりと合う。

時間にして一秒にも満たなかったが、

なぜだかもっと長い間、目を合わせていたような錯覚に陥った。

そして、次の言葉を待っていると、彼は衝撃の一言を発した。

 

「にょん先生はいますか?」

 

 

ええええええええええええ!?

おるよおるよ!?ここにいるよ(→Soulja feat.青山テルマ。なつかしい。)

てか、目合ったよね、今!?がっつり合ったよね!?

それとも、あれですか?見えてないですか?

あれ、ぼくって透けてます?

死んだことに気付いてない的なドラマでありがちなヤツですか!?

内心、猛烈にツッコみたい衝動に駆られたが、グッと我慢した。

そして、優しく一言返事した。

 

「いますね。」

 

そりゃ、そうや!

本人のお墨付きや!!

ここに、確かに、ぼくは、いる!!

われ思うゆえにわれあり!!

 

その後、彼のもとへ向かい、用件を聞き、

必要なことを伝えると、

彼はすっと教室へ帰っていった。

 

 

 

…とここまでは、笑い話。

職員室の先生とも、後で笑って話していた。

 

 

でも、この出来事に、内心で危機感を覚えた。

「失礼します。〇〇先生はいますか?」

は、いわば、全校児童が職員室に用があってくるときの、

マナーとして、定められているものだ。

明文化まではしていないが、そう指導している。

このマナーには、当然、「目的」と「相手」がいる。

「目的」は、自分の生活スペースではないところへ入っていくときに、

相手に失礼なく、お互いに気持ちよくコミュニケーションをとるためである。

「相手」は、この場合で言えば、職員室にいる教員になる。

当然ながら、「相手」がいることなので、

自分側の都合だけで、毎回同じ対応をしていればいいものではない。

今回は、まさにそうだ。

「失礼します。〇〇先生はいますか?」

というのが、暗黙の了解であったとしても、だ。

その言葉を発する前に、確実にアイコンタクトを交わして、

お互いに相手の存在を確認している状況では、

「〇〇先生はいますか?」は必要ない。

いるのが、アイコンタクトでわかっているのだから、

「〇〇先生、用事があってきました。少しいいですか?」

などと、その先に勝手に進めばいい。

でも、これができない。

つまり、自分で考えていない。

思考停止状態である。

暗黙の了解に従って、状況云々ではなく、

ただ決められた通りに動けばOK。

そこには、生きた相手が介在していない。

 

でも、そうじゃないだろう。

コミュニケーションは、生きた相手とのやり取りだ。

基本はあっても、それが全てなんてことはない。

いくらだって例外はある。

そこで、これまでの経験や知識を生かして、

どう最適解を導き出して、対応するか。

それこそが重要で、

これからの社会で生きていくために必要な力の一つではないのか。

 

でも、問題の本質は、そこではない。

職員室にやって来た彼は、素直で真面目なだけだ。

全く悪くない。

なぜなら、そう対応するように、

そう対応することしかできないように、

指導してきたのは、他でもない私たち教員自身だからだ。

 

だから、内心危機感を覚えた。

今年度が始まって3か月が過ぎた。

本当の意味で、自分の頭で考え、それを行動に移し、

失敗しても、そこから学び、自分をアップデートしていく、

そんな風に子どもたちが育っていけるように、支えていかなければいけない。

ちょっとした場面だったが、

現在の画一的な教育現場の弊害が浮き彫りになった出来事だと思った。

一気には変えられない。

一人では限界がある。

でも、できることはゼロじゃない。

だから、動かなければ。

課題が見えている。

手立てをたてろ。

動き出せ。

思考停止になるな。

トライ&エラーをくり返せ。

ただ、ひたすらに、ひたすらに。

地道に、地道に。