小学校教員にょんの日々ログ

毎日の出来事や考え、思ったことなどとにかくアウトプット!

21冊目「Appleのデジタル教育」 147

本年度21冊目の読了本はこちら。

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Appleのデジタル教育/ジョン・カウチ ジェイソン・タウン」

前回の読了本「『学校』をつくり直す」との共通点が非常に多く、

基本的に、アメリカの教育の話ではあるのだが、

アメリカの教育が抱える問題も、今の日本の教育が抱える問題も、

根っこの部分では一緒じゃないか、共通しているじゃないか、

と思わされた一冊だった。

そして、そうした日本の教育の問題とも通底するアメリカの教育を、

Appleは本気で変えようとしていた。

今から数十年前から、行動を起してきたということを知った。

そのことに、とても感銘を受けた。

今や知らない者のいないグローバル企業であるAppleが、

教育に対して、これだけ熱い想いを持って、

行動を続けてきたという事を知らなかった。

もちろん、その情熱に感動しただけで、本書は終わらない。

アメリカの過去の教育の歴史を紐解き、

現在のアメリカの教育が抱える問題の背景を明らかにし、

その上で、教育の目的を再認識し、

学習の定義や理想的な学習空間に必要なもの、

モチベーションの重要性など、

一つ一つのチャプターで丁寧に描かれていく。

そうした中で、私が特に感銘を受けたのが、

チャプター7から8で取り上げられていた

CBL」なるものだ。

これは、「Challenge-Based Learning」の頭文字をとったものだ。

日本語に直すと、「チャレンジ設定型学習」となる。

これが一体どういう学習なのかについては、本文の一部を引用したい。

 

CBLは疑問を発端とする学習モデルだ。個人またはグループで疑問の解明や解消に自らチャレンジすることで、その学習が 生徒自身に関係するものとなり、熱心に取り組むようになる。

(中略)

CBL車輪の再発明というよりも、PBLの最大の利点をベースにチャレンジを強調し、全体にテクノロジーを融合させたものだと思えばいい。

 

そう、CBLは、一見PBL(Project-Based Learning)と似ている。

プロジェクト設定型学習といわれるものだ。

生徒が何かをすることで、学習に必然性やモチベーションを持たせている点は、同じと言える。

ただ、CBLの方が、より児童主体で全てが進んでいく。

何に、どうチャレンジするのかは、子どもたちがすっかり決めるのである。

だからこその難しさもあるだろう。

チャレンジに値するほどの本質的な問いを立てることができるのかということだ。

しかし、私には、このCBLがどうしようもなく、魅力的に映った。

そして、このCBLは、前回読了した「『学校』をつくり直す」の中で提言されていた

「探求」と似ている。

偶然この2冊を連続で読んだことが非常に大きかった。

日本だけじゃない。アメリカもそうだ。

世界は今、CBLに代表されるような学習モデルの流れになりつつある。

いや、もうすでになっているのか。

日本だけが遅れているように感じるのは、気のせいではないだろう。

これからの予測困難な時代を生き抜く力を育むためには、

CBLや苫野さんのいうところの「探求」のような学習こそが必要なのではないか。

本書では、「『学校』をつくり直す」以上に、

そのあたりの具体的実践への言及が多く、

今の自分が受け持つ子どもたちに置き換えて、考えやすかった。

「学習の主体は、子どもたち」であるということは、

もうずいぶん前から言われていることだ。

しかし、本当の意味で主体的に学習できているかと言われれば、

全く不十分だと言わざるを得ない。

新学習指導要領でも、「主体的で対話的で深い学び」というキーワードが、

呪文のようにあちこちで聞こえてくる。

でも、真の意味で、その学習を成立させるのに、

現状の公教育のシステムでは、やりきれない部分がどうしても拭えないのではないか。

本書と「『学校』をつくり直す」を読んで、一層強く感じた。

しかし、じゃあ、国のシステムを変えるか?

じゃあ、今受け持っている子どもたちはどうする?

だから、結論としては、今の担任という立場で、

このCBLや探求についてもっと見識を深め、

その理論を実践に落とし込んでいくことだろう。

やってみなければわからない。

もうすぐ、1学期が終わる。

勝負は2学期からだ。

夏休みに、どれだけ準備ができるか。

わからない。

でも、やれるだけやってみよう。

そして、分析して、改善して、

小さな修正をくり返しながら、実践を積み重ねていこう。

そして、また理論に立ち返り、それを実践と照らし合わせよう。

そうやって、一歩ずつ。

それでいい。

踏み出すためのモチベーションも、きっかけも整った。

全ては、これからの未来を生きる子どもたちのために。

 

20冊目「『学校』をつくり直す」 146

今年度20冊目の読了はこちら。

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「『学校』をつくり直す/苫野一徳」

著者の苫野さんのことは、Twitterで知った。

フォローしている教育系アカウントでのリツイートやイイねで

ちょくちょくタイムライン上にお名前が挙がってきていたからだ。

流れてくるツイート内容を拝読していて、

「おや?これはどういうこと?もっと知りたいな。」

と自分のアンテナに引っ掛かることが日に日に増えていた。

それにつれて、「一度本を読んでみなくては…」という気持ちも大きくなっていった。

 

そんな中、購入したのが本書である。

本書を読んでの感想を一言で言うならば、

「自分の教育に対する価値観の転換を突き付けられた」だろうか。

 

本書の帯に書いてあり、本文でも語られている言葉にハッとさせられた。

いや、「ハッとさせられた」では済まない。

頭を思いっきり殴られたような気分だ。

 

 みんな一緒、みんな同じの、150年変わらない

この国のシステムは、本気で変えなくてはいけない―

 

ここで著者の苫野さんが言っている「この国のシステム」とは、

一つの教室に、同じ年代の子どもたちを何十人と詰め込み、

同じ学習内容を、同じペースで、同じように学習するという、

現在でも多くの小学校で行われている公教育の構造そのものを指す。

 

当たり前と言えば当たり前だが、

私が通ってきた小学校もここで苫野さんが言うところの公教育そのものだ。

黒板は教室の前にあり、

担任教員が知識を教えてくれる。

たまにある発問に、正解だと思う答えを発言し、

わからない・自信がない時は、黙る。

机は規則正しく、黒板の方を向いて並んでいる。

毎時間、学習内容がクラスメイトと違うなんてことはない。

みんな同じ問題を、同じ課題を、

同じ時間で解く。

そんな小学校時代。

私が特別なわけではないだろう。

きっと日本にいる多くの大人が、

私が今言ったような教育を受けてきたのではないだろうか。

そして、この経験、多少の誤差はあれど、

私より上の世代や少し下の世代に聞いても、

ほぼ同じである。

世代を超えて、教育の質が変わっていないのである。

そんな教育を受けてきた私が、今教員という仕事に就いている。

教員という仕事に対するイメージや価値観のようなものは、

当然、自分が受けてきた教育の影響を色濃く受けている。

よく言われる。

「教員は自分が受けてきた教育のように、指導する」と。

 

ということは、だ。

その私の教育を受けて、今の子どもたちは数年後、大人になる。

その中には、ひょっとすると、教員を目指す子もいるかもしれない。

しかし、その子の教員としてのベースも、私が受けてきた教育観と、

そう大きくは変わらないだろう。

もちろん、ベースの話であって、当然価値観は変わっていくものだ。

その子が、教員になったからと言って、

自分が受けてきた教育のままに、子どもたちを育てていくとは限らない。

しかし、その可能性は十分にある。

 

時代は、こんなにも短期間でどんどん変化しているのに、だ。

教員向けの研修の冒頭でもずいぶんいろいろなところで言われるようになった。

「今の小学生が大人になる頃には、今ある仕事の何割かは、

 もうこの世に存在していない。」

そうだろう。

Youtuberなんて仕事、私が小学生の頃にはなかった。

世界は確実に変化を続けている。

それも加速度的に。

今、私が受け持っている子どもたちが生きる未来は、

私の知っている世界ではない。

私だけではない。

誰もその未来を知らない。

なのに、そんな未来を生きる子どもたちへの教育は、

私たちの親の世代が受けてきたものとそう大差ないのである。

どっちの教育がいい悪いの話ではない。

完ぺきな教育法なんてない。

だからこそ、もっと柔軟であるべきだ。

子どもたちの実態・子どもたちがこれから生きていく未来、

そこから、つけていくべき力を吟味し、

その力をつけるための最適解を探し続けなければいけない。

 

話は、少し本流からそれるかもしれないが、

本書を読んで思い起こした記憶がある。

初任校で校内研をしたときのことだ。

国語だった。

私が当時考え作った指導案は、

まさに、自分が小学校の時に受けてきた授業を再現したようなものだった。

授業本番、子どもたちの反応は良かった。

それに気を良くした私は、授業終了のチャイムが鳴った時、

授業が成功したと確信していた。

顔には、満足感さえにじみ出ていたかもしれない。

が、それらのポジティブな感情は、討議会で木っ端みじんに吹き飛ばされた。

講師に来てくださっていた先生の第一声は、忘れられない。

 

「これは国語の授業ではありません。

 もし、今後も同じような授業をするというのであれば、

 もう私を呼ばないでください。」

 

頭が真っ白になった。

その後のことは、覚えていない。

 

何がいけなかったのか、

なぜ?

私が受けてきた授業は、今日のとおんなじようなものだったぞ?

これが、国語の授業じゃないのか?

 

頭をガツンと殴られたような気分だった。

一週間ぐらい落ち込んだ。

でも、「このままじゃだめだ」と思い、

板書や発問、考えられるだけ考えて、

翌年、もう一度授業をした。

講師は一年前と同じ先生だ。

リベンジのつもりだった。

「これでどうだ!」という気持ちもあった。

しかし、結果は同じだった。

 

「去年と変わってないですね。これは国語の授業ではありません。」

 

その講師の先生は、のちの(今も)私の師匠(メンター)になるのだが、

このときは、それどころではなかった。

心が折れそうだったが、

ここで折れてしまっては、去年と同じ。成長がない。

そう思いとどまって、討議会後半の先生の話を

一言も聞き逃すまいと聞いた。

でも、わからなかった。

さっぱりだった。

でも、今思い返せば、納得できる。

そもそも前提が違ったのだ。

私には、私の考えていた国語の授業の構造があり、

先生は、その構造自体からして違う話をしていたのだ。

その自分の考えていた、

もっと言えば、自分が受けてきた教育の構造を

捨てるというのは、なかなかに難しいものだった。

その人にとっての当たり前とは、とてもやっかいなものだ。

それが、その人の認識の枠組みであるから、

その枠組みが、あくまで数あるうちの一つで、

外側には、たくさんの枠組みがある、

という事実をなかなか受け止められない。

私もその後、何年もかかって、ようやく受け入れられた。

 

話を元に戻す。

本書を読んで、

「これまで自分の中で、いや、もっと大きな規模で、

 『日本の教育=こういうもの』と思ってきたもの、

 思われてきたものをいったんゼロにして考える必要がある。」

ということを痛感した。

それは、大げさでも、突飛なことでもなく、

まさに、今そうした価値観の転換が必要とされていて、

その事態は一刻を争う。

 

日本の公教育に携わるとして、

パラダイムシフトの必要性を痛感した。

その視点でもって、自身の勤務校の現状を見ても、

当てはまることが次々に出てくる。

時数や指導事項に追われる毎日、

通常学級で支援が必要な子どもたち、

本当の興味関心から遠く離れた受け身感の強い学習。

そのどれもが、子どもたちの未来へ効果的であると言えない。

言いきれないまま、日々の指導当たっている自分。

このままじゃだめだ。

でも、じゃあどうする。

本書の中に、そのヒントがいくつかあった。

「探求」はその一つだ。

教師の役割も昔とは違う。

自分の背景にある教師像も一度捨てて、

作り直さなければならない。

これからの時代に求められる教師とはどんなものなのか。

そういう意味で、本書の中にある「共同探究者・探求支援者」としての

教師の姿というものには、とても共感できた。

このあたりのことについては、

また、別で書こうと思うが、次の読了本とのリンクがかなりあって、

本書ともう一つの読了本を合わせて、もう少し具体的な実践として、

「こうしてみようか」という事が見えた。

 

頭を殴られたような衝撃は、読んでからずっと私の中に残り続けている。

でもそれは、ただの衝撃ではなくて、ワクワクを伴ってもいる。

本書を読んで、これからのことを考えて、すごくワクワクしたのだ。

学校はまだまだ面白くできる。

「学ぶこと」ってもっともっと楽しめる。

そんな思いだ。

 

次回に書くが、次の21冊目の読了本が、

その気持ちをさらに加速させてくれた。

これからの未来を生きる子どもたちに、

まだ私が見たことのない教育を私が。

一筋縄ではいかないが、

だからこそ、これから時間をかけてしっかり取り組んでいきたい。

そう思えるきっかけを本書にもらった。

19冊目「NEUROHACKS なし遂げる力」 145

しばらく読書記録の方が滞っていた。

本年度19冊目の読了はこちら。

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「NEUROHACKS UCLA医学部教授が教える科学的に証明された究極の『なし遂げる力』/ショーン・ヤング

仕事でもプライベートでも、人にはそれぞれ「成し遂げたい何か」がある。

もちろん、私にもある。

しかし、いくら心で「成し遂げたい」という強い思いを持っていても、

行動を起さなければ、何も変化は起きない。

待っていても、成し遂げたいことは向こうからはやってこない。

だから、行動しなければいけない。

しかし、やっかいなのが、

「行動を起さなければいけない」と頭ではわかっていても、

行動を起せないことが人には往々にしてあるということだ。

人は少し気を抜くと、できない理由ばかり探して、自分を納得させてしまう。

できていない自分を受けとめることから、目をそらしてしまう。

目をそらしたことへの罪悪感を薄めるために、できない理由を探す。

私自身、そんなことが数えきれないほどある。

そんな時、本書を手に取った。

特に、帯の「意志力不要!」の文字に惹かれて。

我ながら単純すぎて泣けてくる。

しかし、これも「行動」の一つじゃないか。

と自分をなだめすかし、読んだ。

 

本書の中では、「なし遂げる」ために必要な7つの力について書いている。

その7つの力とは、

①小さく刻む

②コミュニティ

③重要性の認識

④簡単にする

⑤ニューロハックス

⑥夢中になる

⑦ルーティン化する

である。

 

正直に言うと、その一つ一つの力については、

これまでに他の本やどこかで見たり聞いたりしたような気がした。

しかし、これらの力をそれぞれに深掘りし、

具体的な実践の手立てにまで落とし込んであるのは、

読者として、読了後、実際に行動を起しやすいなと思った。

本書自体が、この7つの力の内のいくつかを組み合わせて

構成されているからだろう。(①とか③とか④とか)

 

本書では、これらの7つの力を状況に応じて、組み合わせることで、

その効果が最大になると書いてある。

そして、ここが非常に良かったなと思うのだが、

なし遂げたいこと、つまり、変えたい現状(行動)を、

タイプ別に分類して、それぞれに効果的である7つの力の組み合わせを

わかりやすくまとめてくれているのだ。

本書によると、人間の行動は主に次の3つに分類される。

 

①一般行動

②衝動行動

③自動行動

 

そして、これらの行動を望ましいものへと変え、

目標を成し遂げるために、どの力を組み合わせれば、

その効果が最大化するのかがわかりやすく書かれている。

 

本書の終盤のこの部分だけでも、読んだ価値があったなと思う。

それはなぜか。

これでもって、人間の行動をおおまかに3パターンに分類する視点を

持てたことが一つ。

そして、分類した行動に効く対処法を持てたことがもう一つ。

 

無数ある人間の行動を、一般行動・衝動行動・自動行動へと抽象化し、

それらへの効果的な対応策を7つの力をベースにして、考える。

自分の行動を望むべきものへ変えていくツールとしても効果的だし、

仕事柄、受け持つ児童の行動を望ましいものへと変えるサポートをする際にも、

非常に役立つなと思った。

実際、今年度、本書を読了してから、

7つの力の内、①②④⑥などを組み合わせて、

学級経営に組み込んでみることで、

効果を発揮していることがいくつかある。

また、この視点は、他の先生のクラスや児童、授業などを見るうえでも、

多くの気付きを与えてくれる。

 

仕事でも、プライベートでも、

本書から学んだ視点や方法を生かして、

行動を分析して、行動を変え、

目標を成し遂げる道を一歩ずつ進んでいこうと思う。

未知の果物。 144

先日の給食時間のこと。

当番がせわしなく配膳をしている。

それを手伝う子たちもせっせと動いている。

そんな時、一人の女の子が「先生、先生!」と

慌てた様子で駆け寄ってくる。

その様子から、何か大きなトラブルでも起きたのかと身構えた。

そして、彼女の言葉の続きを待った。

すると、彼女は、驚いた様子でこう言った。

 

 

「先生!今日の給食の "パインアップル"って何!?」

 

 

…これは大きなトラブルだ。

私は、努めて冷静に返事をした。

 

「パイナップルのことやで。」

 

 

「うそやん!?え、なんで!?」

 

彼女は、「信じられない」といった面持ちで自分の席へと戻っていった。

 

 

その数分後。

ある男の子が、「先生、先生!!」と必死の形相で私のもとへ駆け寄ってきた。

これは、今度こそ何かトラブルでも発生したのだろう。

そう思った。

私は、慌てずにに、彼の言葉の続きを待った。

彼は、私の目の前まで来ると、こう言った。

 

 

 

「先生!!給食に"パインアップル"ってあるんやけど、あれ何!?」

 

 

 

…トラブル発生だ。

でも大丈夫。

私は落ち着き払っていた。

この手のトラブルには慣れている。

 

 

「パイナップルやで。」

 

「うそうそ~!!何それ!?え、ほんま!?」

 

 

彼は、何かとんでもない真実を知ってしまったかのような、

呆けた表情で、自分の席へと戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何なん(笑)

教えない。 143

国語で新しい単元に入った。

1学期最後の単元だ。

好きな本を一冊紹介する。

どうやって?

今回は、POPを作ることにした。

けれど、ただ作るだけじゃ面白くない。

子どもたちもモチベーションが上がらないだろう。

学校図書館司書さんと相談して、

作ったPOPを図書室に掲示してもらうように頼んでみた。

快くOKしてもらえた。

期間を決めて、図書室に子どもたちのPOPを掲示する。

そして、設定した期間が終了したら、

せっかくなので、ポプラ社が主催するPOPコンテストに応募する。

 

…とまあ、そんな絵は描いていたものの、

あくまで子どもたちがノッてきたらの話。

あれこれ思考を張り巡らせはするが、

それも子どもたちありき。

子どもたちがそこに学習の意義や目的、

モチベーションを感じるかどうか。

だから、子どもたちがノッてこなければ、

この案はサクッと捨てるつもりでいた。

この「考えてきたことも場合によってはいつでも捨てられる覚悟」

というのが、案外に大事だなあと最近思う。

 

…で、今回はというと、

めちゃくちゃノッテきた(笑)

内心ほっとしたのは事実だ。

こちらから提案する形にはなったが、

子どもたちのモチベーションは十分高いので、

そこに関しては導入として、一定合格点かなと思う。

本当は、子どもたちから「こんなことしたい!」ということが出て、

それをみんなで形にしていけるのがベストだと思うが、

何事も一足飛びに全て理想通りにいくわけでもない。

今のベストを選択し続けるだけだ。

 

学習課題が子どもたちの納得を得て、決定したので、

学習計画を立てる。

単元のゴールから逆算して、どんな学習をすれば、

スムーズにゴールにたどり着けるか、みんなで考える。

いつもは、学習活動を短冊に書き、順番を子どもたちに考えさせていた。

全てはいきなり無理でも、

学習の主導権を自分たちが握っているという感覚、

そして、学習を自分の意思で選択して決めているという感覚、

最低限、そこは大事にしたいと思ってやってきた。

 

…で、今回はというと、

計画の一切を子どもたちにゆだねてみた。

もちろん、私の中では、「こうすればいいかな」という計画は持っている。

でも、それもあくまで子どもありき。

子どもたちがその計画をスムーズに学習できるものと判断するとは限らない。

先述の導入と同じ理屈だ。

 

「今決めた学習課題をゴールとして、

 スムーズにゴールにたどり着くためには、

 何を、どれだけ、どんな順番で学習していけばいいかなあ?」

と投げかけ、その先の計画の全てを子どもたちで決めてみた。

「誰か話し合いの進行をしてくれる人?」と聞くと、

男子が二人手を挙げてくれたので、任せた。

あとは、一切口出しなし。

横で座ってじっと見ていた。

そしたら、授業終了のチャイムが鳴った時、

自分たちの力で、

本当に自分たちの力だけで、学習計画を立てた。

チャイムが鳴った後、休み時間になっても、

たくさんの子どもたちが黒板に参考に掲示していたPOPを

見にきて、何やらメモを取っている子もいた。

この単元が子どもたちの手にある状態でスタートできたという事だろうか。

 

帰宅後、何気なくテレビを眺めていると、

「すごいですね!日本視察団」(?)という番組がやっていた。

その中で、おにぎりが一つのキーアイテムとして出てくるのだが、

有名なおにぎり屋の女将さんの握り方が独特だった。

 

「おにぎりなのに、にぎらない」のがコツなのだ。

それを見て、この記事のタイトルに思い至った。

案外、どの世界でもこれは一つの真理を突いているのではないだろうか。

 

おにぎりなのに、にぎらない。

攻撃は最大の防御。

急がば回れ

教えないで教える。

 

その道を突き詰めようとするとき、

実はその対極に真理があるのではないだろうか。

 

そんなことを考えた一日だった。

最近、自分の勉強のために読んでいる様々な本の内容とも符合する。

んー、教えないことで、子どもたち自身が学ぶことを教える。

うーん、奥が深い。

つながりそうで、まだもやもやしているところもたくさんある。

もっともっと勉強せねば。

いや、頼んでません。 142

先日の昼休み、教室にピザが届いた。

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こんなやつ

当然、本物が届くわけもない。

これは、子どもたちのいたずらだ。

どこからこんな箱を見つけてきてん。

そう思ってよくよく見てみると、

この箱、前に給食で出たわらび餅のデザートの箱やん!!

よく取っておいたな、これ。

でも、ていねいにガムテープが貼られ、

わらび餅の箱であった痕跡は消されていた。

しかし、とはいえ、まだまだ子ども。

詰めが甘い。

私は、箱の左上に痕跡を確認した。

 

「冷凍食品」

 

いや、あかんやん!!

ピザ店として、それあかんやつやん!!

貴店でお焼きなさいよ!!

でないと、存在価値ゼロですやん!!

 

でも、ツッコみません。

あえて心の中でグッと我慢。

だって、まだいろいろありそうだもの。

 

絶対ピザ入ってないやろって確信できる軽さ。

すっかすか。

わかってるけど、中身は確認する。

だって、すぐ横で何人もがきらっきら目を輝かせて、

「開けるよね!?ねえ、開けてくれるよね!?」って目で見てるから。

中から何が飛び出してきてもいいように、

身構えつつ、そーっとふたを開けた。

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あら、おいしそう。

そこには、おいしそうなピザが一枚、どーんと入っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

絵やけどね。

 

 

 

 

 

 

 

まあ、きれいにマジックで書いてあるわ。

サラミかトマトか判別が微妙な具材も、微妙に散りばめてあるわ。

ピーマンは細切りか。

いや輪切りがスタンダード!!

あ、あと、さっきの箱に1人前って書いてたけど、

サイズ40㎝オーバーで1人前て。

わしゃフードファイターか。

 

ここまで来ると、さらに先が予想できる。

「食べてー!先生、今食べてー!!」

ほらな、やっぱり予想通り。

そう来る思っててん。

 

「はいはい、そしたら、いただきますよー。

 うわー、おいしそう!うっすい生地やねー、これ。

 ものすごいクリスピー生地やんか!!

 これやったら、給食食べた後の先生の膨れたお腹でも

 入……

 

こらーっ!!!」

 

はい、しっかりノリツッコミさせていただきました。

これでしょ、これが欲しかったんでしょ。

 

案の定、きゃっきゃ言って喜ぶ子どもたち。

 

そしたら、何か伝票みたいなものを渡してきた。

 

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違和感しかない。

うん、言いたいことがありすぎるね。

さすがに、これはツッコまざるを得ないね。

 

まず、「トマッチーズピザ」よね?

ってことは、「トマト」と「チーズ」は当然、初期装備よね。

…なんで、トッピングに「トマト」追加しとんねん。

どんだけ、トマト好きやねん。

ほんならもう、サラダ食うとけ。

で、「チーズ多め」?

いや、だから「トマッチーズ」ちゃうんかい!

ほんなら、チーズも初期装備でしっかり入ってるんちゃうんかい!?

で、トッピングが一個60円か。

で、三個トッピングしたから、180円か。

1900円+180円で2500円…っと。

 

 

おおおおおおおおいいいいいいい!!!

 

 

計算!!!

これは、ボケか!?

それとも、ガチか!?

リアルガチか!?

やとしたら、相当まずいぞ。

足し算からやり直さなあかん、リアルガチで。

頼むから、ボケであってくれ!!

 

 

 

はああ、ほんま、どんな手の込んだ杜撰なイタズラしてくんねん。

 

 

 

…で、え?30%OFFけん??

 

 

 

誰が行くかーい!!

 

 

どうもー、ありがとうございましたー!!笑

 

 

今日も、元気にいじられました。

作詞。 141

この前の金曜日、前の職場で一緒だった先輩・後輩合わせて4人で飲んだ。

それぞれ忙しくて、前ほど頻繁に集まれるわけではないけれど、

それでも、年に何回かはだれからともなく連絡を取り合い、

飲みに行く。

こういう関係が続いていることがありがたく、

素直にうれしい。

久々に再会しても、すぐに昔に戻れる。

この4人で飲むと、いつも飲みすぎる。

で、奥さんに怒られる。

記憶が飛んだことも何度か。

今はもうそんなこともないけど。

みんな大人になったってことか。(いや、昔からお前だけや。)

 

僕らの中で、一番の先輩である、クマさん(仮名)。

飲み会の終盤、クマさんに言われた。

 

「ところで、にょんさん、歌詞できた?」

 

 

うわあああああああ!!!

今の今まですっかり忘れてましたーーっ!!!!

すいませええええええん!!

 

実は、今年に入ってすぐの頃だろうか、

クマさんと飲みに行く機会があって、

ギターと作曲の先輩であるクマさんから、

「にょんさんも、ぼちぼち作詞とかしてみたら?」

と水を向けられたのである。

お酒が入っていたこともあり、

「わかりました!やってみます!!」

と即返事し、「出会いと別れ」というテーマで、宿題をいただいたのだった。

それから、思いついた言葉を、携帯にメモして貯めていき、

それをつなぎ合わせて、歌詞の断片を作っていったんだった。

けど、前のメモしてたスマホが壊れて、

それから作詞、止まったままだった。

 

もちろん、作詞なんて、私にとって、人生初の取り組み。

作り方もわからないし、

考えれば考えるほど、恥ずかしく、ダサく感じる。

んー、どうすればいいのか。

 

先日、クマさんに催促され、また今、悩んでいるのである。

歌詞にも、そして、設定された期限にも。

「じゃあ、にょんさん、7月中に、できた詞、LINEででも送って。」

 

んー、マジっすか。

こりゃあ、とんでもない背水の陣だ。

四面楚歌だ。

逆境だ。

 

でも、そこでふと考えた。

作詞もこのブログも、「思っていることを言葉にする」ってことは、

共通してるんじゃないか?

じゃあ、なんでブログはスラスラ書けて、歌詞はだめなのか。

その違いはどこにあるのか。

 

字数か?

いや、別に字数が多くたってええやんか。

思い出せ、初めてミスチルの「every body knows」を聞いたときの

字余り感を。

そう、がんばりゃあ、メロディに乗せるってところは何とかなるんじゃないか。

そう、かっこいいかは別として。

そう、かっこよさを求めてどうする。

お前はプロでも目指しているのか。

否。

ただ、単に音楽を楽しみたい。

音楽が好き。

それだけじゃないのか。

その音楽が好きという気持ちが、

「音楽を作る」という領域に踏み込めたら、

今よりもっと音楽が楽しく、好きになるんじゃないか、

そんな思いがあったからじゃないのか。

うん、そうだ。

そうだった。

ならば、悩む必要なんてどこにある。

ブログを書けばいいのだ。

テーマに沿って。

それをそのまま歌詞にしてメロディにのっけてみればいいじゃないか。

うわ、我ながら目からうろこ!

コロンブスの卵!!

何か道が開けた感がすごい!!

そして、なんならここで歌詞を公開すると宣言してしまえば、

逃げ道がなくなって、さらにやらざるを得ない感が出るのではないか!!

よし、そうしよう!!!

いやー、人間、白ワイン飲みながらブログ書くと、

驚くほど大胆になれるもんだ!(後悔先に立たず。)

 

歌詞ができたら、クマさんがすぐに作曲してくれるそうだ。

というわけで、ちょっと作詞せざるを得ない状況に自分を追い込みます。

まったく本職でもないのに、馬鹿かお前は。と思われそうですが、

よくよく考えると、子どもたちにいつも

「トライ&エラー」とかえらそうに言ってるのに、

自分がそこから逃げてちゃ、世話ないって話だ。

やってやろうじゃないか。

笑われたってかまわない。

だれの最初の一歩も、案外そんなもんだろう。

踏み出さないと見えない世界がたくさんある。

踏み出せば見える世界がきっとたくさんある。

 

よし、なんか勇気出てきた。

にょん、頑張ります。

 

 

あ、ちなみに、クマさんから改めて頂いたテーマは、

 

「馬ちゃん(読み方:まーちゃん)との別れ」

 

「ちなみに」のちなみに、馬ちゃんってのは、

私の後輩で、ぼちぼち異動ってタイミングで

いきなり転職をし、私の度肝を抜いたかわいいかわいい後輩。

金曜日の飲み会の席にもいたやつだ。

 

 

というわけで、にょん、作詞本気でやり切ります。