小学校教員にょんの日々ログ

毎日の出来事や考え、思ったことなどとにかくアウトプット!

みん職フォーラム① 240

先日21日・22日の二日間、完全オンラインで開催された「みん職フォーラム」に、22日のみだが、参加した。

 

最初に参加したのは、上條晴夫先生の「協働的なリフレクションで授業をつくる」の講座。

朝一番で、前日の結婚式疲れがあったが、何とか参加できた。

最初に、上條先生から、協働的リフレクションとはどういったものか?ということについて、15分ほどレクチャーを受けた。

そして、その「協働的なリフレクション」に対する疑問を、PICAGIP法という手法で参加者で順番に質問にしていき、それを回すことで理解を深める、という流れで講座は進んでいった。

さらに、付け加えるなら、上條先生とぼくを含む9人がPICAGIP法で質問をつないでいくのを、そのほかの参加者は、さらに外側から観察して、最後に感想を交流するという、二重構造。

オンライン上でのフィッシュボール型。

この講座の構造自体が、若干参加者を当惑させていた感もあったが、やりながら把握して慣れていった。

個人的には、以下の二点について特に学ぶことがあったなと思う。

 

①PCAGIP法と「問いづくり」の類似性

②協働的リフレクションの校内研究での活用

 

まず、①について。

PCAGIP法は、上條先生曰く、「実践提供者を被告席に座らせない」方法らしい。

確かに、質問を参加者でつないでいくというスタイルは、「指摘」ではないので、まな板の上の鯉にはなりにくい。

「実践提供者とその他参加者」ではなく、「その場にいる参加者全員(実践提供者も含む)」というイメージ。

今回で言えば、上條先生が「実践提供者」であり、同時に「ファシリテーター」でもあった。

本来は、この二つは分けられている方が望ましいだろう。

PCAGIPという方法で、参加者全員を同じ協働探究者と位置づけ、その枠がうまく維持されるように、そのパワーバランスをファシリテートするという感じ。

「質問」をすることで、その場に「対話」が生まれる。

対話を通して、今回で言えば、「協働的リフレクションとは何か?」というコンテンツに対する理解を深めていった。

「参加者からの問い」を中心にその場が展開されていくという流れは、今年度社会で取り組んだ「問いづくり」と似ているなあと思った。

質問づくりにおける「問いの焦点」が「上條先生の15分のレクチャー」で、「参加者の質問の数々」は、「開いた問いと閉じた問い」だ。

自分が出した質問は、誰かにとってなかった視点で、誰かが出した質問は、自分にとってなかった視点だった。

質問をつなぐことで、自分一人では見えていなかった多角的な見方で、対象の解像度を上げていくことができるんだなあと感じた。

「問いづくり」では、作った問いについて、その答えを実際に調べ学習をしたり、様々な方法で探究していく。

PCAGIP法では、その方法が「対話」というのが、おもしろいなあと思った。

まるで哲学対話みたいだ。

この対話の要素を「問いづくり」の中にも入れ込むことができれば、「問い」自体の質を上げたり、その問いの解決策へのヒントが得られたりするのかもしれない。

 

次に②について。

結論から言うと、現在の勤務校での校内研究とは、真逆と言ってもいいスタンスで、でも、そこに魅力を感じ、これを校内研究で導入していけたら面白いのではないか?と思った。

協働的なリフレクションでは、何よりも参加者の「実感」を大事にする。

この「実感」という言葉がどういうことかを言語化するのはとても難しい。

ただ、まあ、その人の「直感」に近い部分というか、「なんとなくいい」とか「ここに惹かれた」「なんでか気になる、ひっかかる」みたいなところだろうか。

自分の情動的変化に敏感になるイメージかなあ。

で、その「実感」を掘り下げていく。

「どうしてその実感に至ったのか」「どこからその実感は得られたのか」「そういう実感を得るに至った自分の背景には何があるのか」

そういったことを、対話を通して。

そうしてリフレクションを進めていく中で、自分の課題や関心の解像度が上がっていく。

その結果、この授業から「自分の」実践に何をどう生かしていくのかが見えてくる。

コルトハーヘンのALACTモデルの話も少し出たが、まさに「行動」や「思考」だけではなくて、その奥にある「感情」や「望み」をもっと大事にする感じ。

校内研究において、研究主題が設定され、その中で授業の方法まで統一されて、講師の先生を呼んで…なんてことがよくある。

実際、自分が研究部長を務めていた時にもそういうことをしていた。

でも、それって本当に、目の前の子どもたちの、先生たちの血肉になるのに、ベストな方法なんだろうか、とそんなことをふと思った。

目の前の子どもたちは一人一人違うから、クラスの雰囲気も、積み重ねてきた歴史も違う。

担任の先生も、得意不得意、好き嫌い含めて様々なはず。

じゃあ、そんな全てがい違うと言ってもいい各クラスにおいて、統一した「やり方」を追求していくことにどれだけの効果があるのか。

効果というか、そういう研究スタイルがそこに関わる人たちに与えていくフィードバックは、本当に次に進むためのものになり得るのだろうか。

「このやり方は間違いない」と思って、他者の「感情」や「望み」をないがしろにして「研究を進めている!」なんて勘違いをしてこなかっただろうか。

 

「どんな子どもたちを育てたいのか」というビジョンの共有は、とても大事だと思う。

でも、そこに向けて、何をどう磨いていくのかは、先生によって違う。

それが、正解か不正解かじゃなくて、その先生がどう在りたいかだ。

その過程で「こっちじゃなかった!」ってこともあるだろうけれど、それは、そう気づいたときに修正していければいいし、そのためには、修正できる余白と環境がすごく大事な気がする。

そうして、それぞれの先生たちが、少しずつ自分をアップデートしていけば、その先で行われる協働的リフレクションは、また以前とは違ったものに変わっているはずだ。

まず、個人を大事にしながら、それぞれのアップデートが学校をより良くしていく。

そんなことができるんじゃないのかなと思うと、ワクワクする。

 

とはいえ、まだ何もやっていない時点での机上の空論状態なので、次年度から少しずつできるところからやってみよう。

まずは、この自分の「実感」を誰かと共有しよう。

自分モードで生きる 239

最近、「自分モード」ってことについて考える機会が多い。

まあ、自分の中でひっかかっている「自分モード」というキーワードに無意識に触れるものを取捨選択していってることもあるんだろうけれど。

全体的な傾向として、インプットが多くなっている時期に、他人モードになりがちな自分がいるなあと思う。

インプットした様々な情報や知識に自分が影響されるからなんだろう。

そして、他人モードになっている時の自分って、すごく思考があちこちに飛ぶ。

それがいいときもあるんだろうけれど、今は、ちょっと良くないなあって感じている。

1つのことについてじっくり考えて、アウトプットしたいなあって思っている自分がいる。

その一方で、考え始めたそばから、別のことが気になってしまう自分もいる。

読書をしていても、読みながら、思考があちこちに飛んでしまうので(本の内容とは全く関係ないこと!)、本に意識が戻ってきても、「あれ?どこまでどんな話で進んでたっけ?」となることもしばしば。

 

今、目の前の、ここ、に集中することができていない。

 

そういえば、「今、ここ」で思い出した。

マインドフルネスは、そういう自分を取り戻すための手法ではなかったか。

今の自分に足りていないのは、まさにそこだなあと思う。

意識的に、「自分モード」にチャンネルを合わせられること。

それができれば、自分のパフォーマンスが上がっていく気がする。

あくまで直感だけれど。

 

まずは、呼吸法でも試してみようかな。

アップルウォッチの呼吸のエクササイズアプリ、効果あるのかな。

まあ、「とにかくやってみる」精神でやってみよう。

 

38冊目「泣きたくなるほど嬉しい日々に」 238

今年度38冊目の読了本はこちら。

 

泣きたくなるほど嬉しい日々に

泣きたくなるほど嬉しい日々に

 

 

バンド「クリープハイプ」のボーカル、尾﨑世界観のエッセイ本。

本人曰く、「自己啓発本」ならぬ「事故啓発本」だそうだ。

 

クリープハイプが好きだ。

最初に聞いたときは、「なんじゃ、この声!」と衝撃を受けたのを覚えている。

しかし、それからあれよあれよとクセになり、新譜は必ずチェックするようになって久しい。

 

150ページ程度でさっと読めた。

読んでみて思ったのは、「圧倒的な自分モードだなあ」ってことだった。

先日、37冊目に読了した「直感と論理をつなぐ思考法」の影響があって、今の自分は、だから、きっとそんなことを考えるんだろうなあと思う。

読んでいて、清々しいくらいに「他者の言葉」がない。

「どこかから借りてきた言葉」とでも言おうか。

そういうものがない。

 

「いやいや、アーティストでしょ?そんなこと、当然じゃないの?」と言われそうな気もする。

でも、その圧倒的なまでにひたすら自分の言葉で語られた文章たちは、やけに生々しくて、汚くて、醜くて、支離滅裂で、「なんじゃこりゃ?」と思う部分もある。

でも、そんな文章がどうしようもなく、美しいと感じる瞬間が確かにあって。

なんかわからんけど、どうしようもなく揺さぶられる感情があって。

それは、本当に言葉で説明できないけれど、きっと自分の記憶のどこかにしまってある思い出だったり、感情だったりと共鳴してるからなんだと思う。

 

これだけ情報があふれていて、気を抜くと、すぐに「他人モード」で考えてしまうような世界の中で、「自分モード」で考えることの価値に気づかせてくれる本だなあと思う。

「自分モード」で語られる個人的なエッセイたちは、自分に刺さるところと刺さらないところの振れ幅が大きい。

でも、それがいいんだとも思う。

平均値を狙うんじゃなくて、ほとんど空振り三振でも、逆転満塁ホームランがどこかに潜んでいるような、そんな感じ。

「尾﨑さん、よいしょよいしょで大事な場面があるじゃないですか」と「exあやっち」の二つのエッセイが、個人的にすごく好きだ。

自分の経験とは全く重なる部分がないはずなのに、感情が激しく揺さぶられた。

特に、「exあやっち」の中で、あやちゃん(誰なのか知らない)が言った生前の言葉に。

 

「あんたは絶対に成功する。あたしが保証する。こんなに良い歌を歌ってるんだから大丈夫だよ。」

 

なんて力強い肯定だろう。

「世間?社会?知るかそんなもん。なめんなよ。絶対いいんだよ。間違いないんだ。」

そんな声が聞こえた気がした。

 

自分は、子どもたちの存在を無条件に承認できているだろうか。

そんなことも考えた。

 

読み終わった今、タイトルが刺さる。

 

制限の中で見つめる本質。 237

昨日、卒業式が行われ、6年生全員が参加し、笑顔で卒業していった。

2月末に突然言い渡された休校措置。

そのことで割り切れない思いもあったし、二転三転する指示に困惑したこともあった。

在校生は出席しない、来賓は一人、時間は60分程度、マスク着用・消毒液設置などの感染拡大防止策、座席の間隔をできるだけ開けるなどなど様々な対応の中で行われた式だった。

ここまで急に変更を余儀なくされ、ぎりぎりまでどうなるのか読めない部分が絶えずあった卒業式は、そうそうないだろう。

だから、「今年度限り」の対応もたくさんあるし、そう願いたいことはたくさんある。

来年度からは、また元通りの卒業式に戻るのかもしれない。

でも、だからこそ今年度感じたことがある。

きっと、今回のようなことになったからこそ、浮き彫りになったんだと思う。

 

上にも書いたように、今回卒業式を挙行するにあたって、いろいろな制限が設けられた。

それは、空間的なものから・時間的、心情的なものまで様々だ。

普段、「足し算」癖が多く、一旦増やすと、なかなかやめられない学校文化。

しかし、今回、種々の制限が加わらざるを得ない状況になって、その普段癖が薄まったと思う。

リソースが限られている中で、「卒業式」というものを考えた時、「いかに子どもたちを中心において実施できるか」というビジョンを全職員が共有できていたように思う。

だから、重ねてきた会議の場で、様々な意見が出て、時にぶつかりこそすれ、それら一つ一つの意見は、どれも共有したビジョンに根付いたものであり、職員間の対立を生むものにはならなかった。

ビジョンが共有されていることで、様々な意見をテーブルに出し、そこから、みんなで「最適解」を導こうという方向性が一貫していた。

それは、とても建設的で、一体感のある時間・空間だった。

時間・空間・心情が制限されることで、かえって、豊かな時間・空間・心情が生み出されていくという何とも不思議な逆転現象だった。

この感覚を「今年だけの、例外的なもの」と片付けてしまい、どうして式は成功したのかのふり返りを共有していかないと、また元に戻ってしまっては、あまりにもったいない。

今年のコロナウイルスに端を発する学校現場のドタバタは、ぼくたちがとても大事なことに気づくきっかけになっていると思う。

 

制限によって削られたものはたくさんある。

でも、それなのに、豊かな卒業式になったのはなぜなのか?

子どもたちが、練習期間ほぼゼロの中、立派に士気をやり遂げることができたのはなぜなのか?

もちろん、担任の先生方の努力と熱意、子どもたちの集中力があったことは言うまでもないが、それだけではないんじゃないのか。

 

まず、そのことにぼくたちが自覚的になることが大切だ。

そして、それを糧に、次年度からまた、目の前の子どもたちのことをしっかり見つめていけるといい。

そうやって教育をより良くしようとコツコツやっていけたら、みんながハッピーな学校現場になっていくんじゃないだろうか。

 

そんな可能性を感じた卒業式だった。

VISION DRIVEN発見‼ 236

昨日、ビジョン思考に関する読書記録の記事を書いた。

で、家に帰ってきてから、ボケーっとテレビを見てたら、ビジョンドリブンを発見した。

それは、夕方の情報番組「ミント」の中のたむけんのコーナー。

「学校に行こッッ!」でのこと。

今日は、これまでに放送した中から、チョイスされた学校の生徒たちの総集編。

その中で、僕の目はある男子生徒に留まる。

桜塚高校の梶くん。

番組が彼と出会ったのは、彼が高校一年生の時。

教室に訪れたスタッフの前で、彼はカメラに向かって自分の秘めた思いを打ち明ける。

 

「高校の文化祭でウォーターボーイズをしたい。だれか一緒にやりましょう!」

 

緊張しているのは、画面越しでも十分に伝わった。

それを全国放送のテレビカメラの前で言ったのだ。

とんでもない勇気だと思った。

自分が同じ立場だったら、自分のやりたいことを堂々と言えるだろうか。

いや、そもそもそこまでして自分のやりたいことって何だろう。

教育には違いないのだけれど、それをどんな言葉で、どんな風に伝えるだろう。

 

梶田くんは、その後、全クラスを自分で回り、同志を募る。

そして、そこから2年間、フォーメーションや音楽、振り付けなどを全て自分で考えて、決めたのだ。

ちなみに梶田くんは、水泳部ではない。

バスケ部である。

3年の夏までは、部活を普通にやっていた。

でも、家に帰ってからは、ウォーターボーイズのことばかり考え続け、3年の文化祭でついに、夢を実現させた。

本当に素晴らしいなと感動した。

 

彼を突き動かしていたのは、間違いなく「ビジョン」だった。

「どうしても実現させたい」、その思いが他のどの要素よりも大きな力を持っていた。

専門家に教わったわけでもない。

シンクロの経験があるわけでもない。

 

それでも、彼は実現させた。

彼の「ビジョン」に共感した仲間が大勢集まり、文化祭当日の演技も、言われなければ、それはもともとそういう活動をしていた部活に見えるほどの出来ばえだった。

最初から、計画があったわけでも、見通しがあったわけでもない。

でも、何よりも強い「ビジョン」があった。

それに突き動かされるように、とにかく実現に向けてがむしゃらにやってきたんだろうと思う。

番組では、尺の関係もあって(?)、そういう苦労の部分はあまり取り上げられていなかったけれど、きっと一筋縄ではいかなかったはずだ。

 

ただただ、夢の実現に向けて、ひたむきな彼の姿から、先日の「ビジョン思考」が実感を伴って腑に落ちた。

ものすごく勇気をもらった。

 

自分のやりたいことは何か。

何をおいても実現させたいことは何か。

それを、言語化して説明できるか。

人に伝えることはできるか。

 

まだまだだなあ。

でもこれからだなあ。

昨日のワークをいろいろやっていく中で、見つけて言語化していこう。

焦らない焦らない。

37冊目「直感と論理をつなぐ思考法 VISION DRIVEN」 235

今年度37冊目の読了はこちら。

 

直感と論理をつなぐ思考法 VISION DRIVEN

直感と論理をつなぐ思考法 VISION DRIVEN

  • 作者:佐宗 邦威
  • 発売日: 2019/03/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 最近、「〇〇思考」という言葉をあちこちで聞く。

自分自身、数か月前に「デザイン思考」についての本を読んだ。

他にもいろいろある「〇〇思考」の特徴が序盤でまとめられていて、わかりやすかった。

 

さてさて、本書を読んでみて考えたことをいつものようにつらつら書いていこうと思う。

まず、「はじめに」に書かれてあった言葉に、ドキッとさせられた。

 

「他人モードにハイジャックされた脳」

 

日々過ごしている中で、この言葉には、思い当たることがいくつもある。

情報にあふれる現代社会を生きていると、「他人モード」で過ごしてる時間の方が多い、と著者は言う。

確かに、仮に一日24時間の中でやったことを全て書き出したとして、その中に、「自分モード」で考えて過ごしている時間って一体どれぐらいあるだろう。

ひょっとして、1時間もないんじゃないか…って思う日もあって、ぞっとする。

 

VUCA化の進むこれからの時代、妄想を駆動力にした「ビジョン思考」が大きな力を発揮するというのが、本書の主張。

ビジョン思考とはどんなものか?

ビジョン思考はどのように身に付けるのか?

なぜ今ビジョン思考なのか?

そんな問いに答えるように本書は進んでいく。

 

読んでいて、これまでに読んだ様々な本や経験の断片とつながるところが多々あって、まだまだ整理しきれていないけれど、「全てはつながっている」と感じた。

 

VAKモデル(Visual/Auditory/Kinesthetic)は、優位感覚と似たような概念で、イエナプラン教育の講座で学んだマルチプルインテリジェンスなんかともリンクする部分があるなあと感じた。

人によって優位感覚は違うから、当然、学習における効果的な学び方も人によって違う。

だから子どもたちのより詳細な見取りが必要だし、一斉指導型だと全ての子どもたちが理解しやすいという状況を生み出しにくいことになる。

人は、「自分モード」で考えている時、「妄想→知覚→組替→表現」のサイクルをたどるらしい。「表現」は次の「妄想」へとつながり、ぐるぐると循環し、スパイラルに上昇していく。

このサイクルって、探求学習とか、PBLのプロセスとも似てるのかなあ。

このサイクルを子どもたち自身が授業の中で回していけるようになれば、すごくおもしろそうだなあと思った。

サイクルがうまく回らないときには、それぞれのプロセスにおいて、原因がある。

・妄想→内発的動機が足りない

・知覚→インプットの幅が狭い

・組替→独自性が足りない

・表現→アウトプットが足りない

こうした原因も、けテぶれみたいに子どもたち自身が何が原因かに自覚的になれたら、自分で学習を調整していけるようになりそうだ。

ビジョンドリブンは、このサイクルの中で、次々に新しい「問い」が生まれる構造になっている。だから、サイクルに終わりがなくて、どんどん新しいことに進んでいける。

一方、よく聞くイシュードリブンは、ゴールが「問い」の解決だから、解決すると、サイクルが終わってしまい、モチベーションが続かないことになる可能性がある。

これって、授業でも当てはまることよなあってすごく感じた。

内発的動機付けをいかにするかということがやはりすごく大きなポイントになってきそうだ。

そういう意味では、今年度クラスで取り組んだ教室リフォームの中で、巨大なソファを作たことは、明らかにビジョンドリブンだった。

そして、この教室リフォームでは、「とにかく作ってみる」ということをずっと大切にしてきた。

いきなり、完ぺきなものなんてできない。

作ってみて、そこから考えて、壊したり追加したりして、「妄想→知覚→組替→表現」のサイクルをどんどん回していった。

「とにかく作ってみる」は、プロトタイピングにあたる。

作ってみることで生まれたプロトタイプが場に対話を生む。

「Build to Think(考えるために作る)」って大事だ。

 

あと、ビジョン思考を鍛えるためのいくつかのワークを見ていて、前田裕二の「メモの魔力」の最後に付録でついていた「自分に関する1000の質問」のことを思い出した。

そういえば、「1000問全部やる!」と意気込んで、すっかり50問目ぐらいでほったらかしてた。

あれを、改めてやってみようかなって気になった。

なにより、全ての質問が「自分」に関すること。

「自分モード」で思考するのには、うってつけだ。

他にも、面白そうなワークがいろいろ紹介されていたので、ちょっと時間を作ってやってみようと思う。

 

ビジョン思考においては、具体化(プロトタイピング)とフィードバックの反復が重要だそうだ。

このビジョン思考に関して、かなり「なるほどなあ!」と納得しながら読み進めてきたのだけれど、自分の授業をふり返ってみたら、結構がちがちに計画を立ててやっていることが多い。

まあ、当然っちゃあ当然。

教科書があり、カリキュラムがあり、いついつまでに何を学習するってことがある程度決められている。

でも、その中で、1割でも2割でも、ビジョン思考をベースに、具体化とフィードバックのサイクルの回転数を上げて学べる環境のデザインや実践をやっていけば、少しずつ変わっていくものもあるんじゃないかと感じる。

プロトタイピングの「いかに早く失敗するか」の視点は、授業でも学級経営でもすごく大切だと思う。

プロトタイピングによって、チャレンジのハードルが下がり、「完ぺきなんて目指さず、まずやってみる」中で思考の制限が外され、創造的なアイデアが生まれる可能性が高まる。

「作家の時間」なんかは、これに近いのかなあと感じる。

そういうことを、部分的にでも取り入れていけないかの模索をしていきたい。

 

なんか全然うまく言語化できなくてもやもやするけれど、このもやもや自体、「世界を複雑なまま知覚する」というビジョン思考の方向性と一致しているんじゃないだろうか。(いや、理解力の低さを棚に上げるな。)

 

まあ、とにもかくにも、授業に生かせそうなエッセンスが色々と発見できたので、とても良かった。

「いない寂しさ」・「いるうれしさ」 234

休校措置に入ってから早2週間が経とうとしている。

本来なら、子どもたちがやってきて日々共に過ごしていたはずの時間が、ぽっかりなくなったことで、生み出された時間。

そのおかげで、事務作業はべらぼうに進んだ。

というか終わった。

そこに関するゆとりは本当にありがたい。

だれかがつぶやいていたが、この作業量を、3月末までフルで授業をした上、こなしてたなんて、昨年までの自分が自分で信じられない思いだ。

 

でも、それに反して心は軽くない。

もちろん、コロナウイルスによる外出自粛や健康管理に以前よりナーバスになっていることもあるが、何よりも子どもたちがいない学校で仕事をすることが自分に大きく影響を与えている。

こんな風に、現状をネガティブな方にとらえてしまいがちなのも、一連のコロナ騒動で自分自身が参っているのかもしれない。

 

そんな中、昨日、数人のクラスの子に会うことができた。

休校前に約束していた短編集の清書をやりきって持ってきた子たちだ。

1人ずつぽつぽつと時間はバラバラで来るが、みんな笑顔で久しぶりに会ったが元気そうで何よりだった。

そこで、少し近況を話して家に帰ってもらった。

あまり長時間話すわけにもいかない。

それでも、自分の心が確実に元気に、上向きになるのを感じることができた。

 

昨日はめちゃくちゃ天気が良くて、もうすっかり春。

職員室から外を見ると、学童の子たちが元気に走り回っている。

見てると、うずうずしてきて、次の瞬間には、グランドに出ていた。

クラスの子も3人学童に来ていたので、その子たちが遊んでいるところへ向かった。

お互いを認識すると、どっちもニタァ~って笑い合って、あいさつ。

その顔見合わせた時の感じ、なんだか幸せがあふれてた。

昨日のハイライトは、まちがいなくあの瞬間やったと思えるくらい鮮烈な瞬間だった。

 

あいさつの後、子どもたちとちょっとボール遊びをして、職員室に戻った。

すると、偶然なのか、また短編集の清書を持ってきた子がいて、その子は、清書を提出した後、グランドで遊んでた子たちに交じって遊び始めた。

きっと久しぶりの友だちの姿にいてもたってもいられなかったんだろう。

その気持ち、痛いほどわかる。

ついさっき自分がそうだったから。

 

その後、ぼくは職員室での仕事に戻ったのだが、しばらくしたとき、窓のブラインドの隙間から、子どもたちが職員室の中をのぞいて、ぼくを探していた。

窓を開けて「どうしたん?」と尋ねると、窓にでかいカメムシがついていて、それを知らせたかったらしい。

いやあ、報告内容が最高。

職員室で大人だけで日々過ごしてて、「窓の外に大きいカメムシがいます!」なんてワード絶対出てこんもんね。

その辺にあった棒きれみたいなもので、カメムシをピンッてはじいて外に飛ばしたら、「うわー!」「やめてや!」「キャーッ」と大騒ぎ。

そのにぎやかさがなんともうれしくてうれしくて。

 

休校措置で、「子どもたちがいない寂しさ」がクローズアップされがちだし、自分自身もそうなりがちだったけど、いやいや。

「子どもたちがいてる学校最高やな。」って心の底から思えた。

大切なこと身をもって確認できた。

そういうこと。

ネガティブに考えるより、ポジティブに考えよう。

何より昨日の子どもたちは、コロナ騒動なんて全く関係ないってぐらい素敵な笑顔だった。

できることをやり切って、次に子どもたちに会ったときに、そのパワーに負けないぐらい前向きでワクワクしてる自分でいたいなあと思った。

 

そんなことに気づかせてくれた子どもたちに感謝しまくった一日だった。