小学校教員にょんの日々ログ

毎日の出来事や考え、思ったことなどとにかくアウトプット!

3連休①。 191

動き回った3連休。

体は疲れているけど、心はリフレッシュできた。

そんな3日間の記録。

 

【9月14日】

この日は、ある高校の文化祭。

6年生を担任したある卒業生が招待してくれた。

ダンス部に入ったそうで、毎日毎日練習に明け暮れていたそうだ。

そんなダンス部の発表があるから見に来てほしいとのこと。

何とありがたいお誘い。

事前に学校に持ってきてくれたチケットを持って、卒業生の出番の30分前にいい席を探して、陣取った。

そして、開演。

幕が上がり、卒業生を探す。

いた。

2列目の一番右。

何だか見ているこっちの方が緊張した。

うまくいきますように!

と、私が祈ったところで何の足しにもならないが、祈らずにはおられなかった。

曲が流れ、ダンスが始まる。

驚いた。

鳥肌が立った。

だって、ダンスを始めたのは高校からのはず。

なのに、めっちゃ踊ってる。

それも30分間、曲を変え衣装を変え、何曲も踊っていた。

それまでの努力が透けて見えるそのダンスに感動した。

そして何よりとても楽しそうだった。

見ているこっちまで自然と笑顔になっていた。

そういう意味で、もう立派なダンサーやん!

と、うれしくなった。

30分はあっという間に過ぎた。

ダンス終了後、「一緒に文化祭回ろうや~」とお誘いがあったので、案内してもらいながら、文化祭の店を回った。

これも事前に買っておいてくれた金券で、ちょこちょこ軽食を買っては食事会場に移動して食べ、たくさん話した。

思い出話、高校の話、仕事の話などなど、話は尽きない。

気付けば日が傾きかけていた。

周りを見れば、各々で片づけの雰囲気が漂っている。

「え、自分のクラスの片づけとか行かんでええの?」

そう聞くと、

「うん、あるとは思うけど…まあ、まだいいと思う。」

と言う。

ほんまかいな 笑。

その10分後ぐらいに、クラスの友だち数人が呼びに来た。

「もうみんな教室集まってるで!行こう!」

私を見ると、きちんとあいさつをしてくれて、卒業生にさりげなく、

「え…っと、こちらの方は…お父様?」と言っていたのを聞いたときには、さすがに吹いた。

そっか、そう見えるのか 笑。

ずいぶん歳を重ねたもんだ 笑。

卒業生と呼びに来た友だちが入口付近まで見送ってくれた。

良かった。

中学卒業後の春休み、小学校に遊びに来た時は、「どうしよう。友達出来るかなあ。」と不安を口にしていたが、その心配はなさそうだ。

いい友だちに恵まれたようだ。

…ってこんなこと考えてるのが、そもそも親っぽくないか 笑?

そりゃあ、父親と間違えられるわ。

でも、打ち込めるものにも出会って、充実してる様子が見れて良かったなと思う。

元気をもらえた。

また、それぞれのステージでお互いに頑張ろう。

次に再会したときに、恥ずかしくないように。

今日を忘れない。 190

けテぶれを始めて3週間が過ぎようとしている。

一人一人を見ていると、上がったり下がったり、ノートに子どもたちの葛藤や、やる気、様々な思いが透けて見える。

教師から一律の宿題を出していたころには、気付けなかったことだ。

毎朝の宿題交流会に加え、学級通信でのけテぶれ紹介の地道な効果なのか、一昨日・昨日・今日のここ3日間ほど、子どもたちのけテぶれが全体的に見て、爆発的に成長を遂げた。

本当に示し合わせたかのように、ブーストがかかった印象だ。

トップランナーたちは、互いに自分に合ったけテぶれを開発し始めた。

タ→この時間内にやり切る

い→意味調べ

ま→まとめ

ふ→ふり返り

次→次からは

前→前に比べて

だ→だから

などなど、そのアレンジが多岐にわたってきた。

基本的な「けテぶれ」のサイクルは崩さずに、そこに+αしてきている。

そんなトップランナーたちの姿に刺激を受け、中位層の子どもたちもアレンジをし、自分なりに学びの海の上手な泳ぎ方を探り始めた。

 

しかし、1学期から学習習慣の定着がなかなか進まなかったクラスの男の子、A君は、そんな流れになかなか乗れず、おさぼりが続く日々だった。

担任として、どこでどう声をかけるべきか。

宿題ではない。

どこまでいってもやるのは自分自身。

提唱者の葛原先生も言っていたが、「信じて、任せて、認める」のスタンスだ。

これが、苦しい。

ついつい口を出してしまいそうになる自分がたびたび前に出てくる。

自分が今までいかに信じて任せてこなかったのかを表しているようで、なかなかきつい。

待っているだけなのに。

「それは、信じるという体のいい言葉で自分を正当化しているだけで、本当は何も手を打たずに楽をしているだけなんじゃないのか」

そんな言葉が心の中に現れては消えた。

でも、待った。

いつ、どのタイミングで学びの海を泳ぎ始めるかは、子どもたち一人ひとり違う。

だから、時間がかかる子もいる。

でも、大事なのは、その子が自分自身の意思で泳ぎ始めることだ。

こちらからのアクションで動き始めたとしても、それなら、これまでの宿題となんらかわらない。

「子どもたちの中には、本来的に自分で学習していく力がある。」

念仏のように、それを心の中で言い聞かせて、3週間が経つ。

 

そしたら、一昨日。

ついに、彼が泳ぎ始めた。

それは、2学期に入って、3回目の小テストを返した後だった。

まわりの友だちがテストの分析をしたり、なおしをしている中、A君が、おもむろに漢字ノートとドリルを取り出し、猛烈に漢字を書き始めたのだ。

しかし、この時、あまり授業時間は残されていなかったので、すぐにチャイムが鳴ってしまった。

せっかくのやる気に水を差すようなタイミングのチャイムに内心腹が立った。

でも、A君が自分で動き出したんだ。

それは大きな大きな一歩のはずだ。

それをまずは喜ぼう。

そんなことを考えていたら、A君がすぐ横に来ていた。

彼は、私にこう言った。

 

「先生、ケテぶれって、何ページやってきてもいいん?」

 

耳を疑った。

でも、うれしさが必要以上に顔に出ないように、冷静に穏やかに返事した。つもりだ。

 

「もちろん。自分のタイミングで必要やったら、必要な分だけやっておいで。」

 

すると、彼は何か決意したように、黙って自分の席に帰っていった。

その時から次の日まで、心の中はずっとそわそわしていた。

A君は、あのまま家で漢字をやってくるだろうか。

いや、どっちにしてもスタンスは変えない。

「信じて、任せて、認める」それ一択。

そう言い聞かせ、次の日を迎えた。

 

教室に行くと、ちょうどA君が提出ボックスに漢字ノートを出すところだった!

私は嬉しくて嬉しくて、すぐにそのノートを見た。

ノートには、2ページにわたってけテぶれが書かれていた。

けテぶれの「け」には、

「次のテストで半分以上取る。」「次のテストで50点以上取る」と2回書かれていた。

すぐに、丸つけをして、コメントを書き込み、A君に返した。

 

休み時間、A君が私のところへ来て、半分独り言のように、でも、きっと聞いてほしいんだろうなあって雰囲気で話してくれた。

 

「ああ、俺的には結構頑張ってきたつもりやねんけど、これで、次のテスト半分いかんかったら、どうしよう。」

 

A君がテストの点数を気にするなんて、初めてのことだった。

自分が努力しているから、結果を出したいと願う当然の人間心理だ。

 

「点数は気になるよなあ。でも、それってA君が努力してるから感じることで、そんな風に感じられる取り組み方をしてることがすごいことやん。だって、先生何も言ってないのに、サボりそうになる自分の心に勝って自分でやってきたんやろ?それってなかなかできることじゃないよ。すごいことやで。結構頑張ったどころか、めっちゃ頑張ったと先生は思うよ。きっとこの努力は、この先につながっていくよ。間違えても、もう一回チャレンジすればいい。」

 

すると、A君は、席に戻り、返したノートを開いて、また漢字をやり始めた。

ちょっとハイペースで心配にもなるが、彼が自分で選んでそうしているなら、静かに見守ろう。

きっとこれから先も、このままずっと上り調子で行くわけではないだろう。

A君だけじゃない。

みんなそうだ。

でも、それでいい。

そうやって、良いも悪いも自分の意志で経験するからこそ、ふり返りに大きな価値があるし、友だちの存在もより大切になる。

「信じて、任せて、認める」が、少しはできたのかな。

今は、少しそのうれしさに浸ろう。

それぐらいなら、ばちは当たらないはずだ。

 

授業をアップデート! 189

8月末、2学期スタートの初日、みん職のオンライン講座を受講した。

今回のゲストスピーカーは、立命館小学校の正頭英和先生。

イギリスのバーキー財団が主催する「Gloval Teacher Prize(GTP)」のファイナリストの10人のうちの1人としてアジアから唯一選出されたスゴイ人。

最初に、GTPについていろいろとお話を聞かせていただいた。

立命館小学校は、現在日本で唯一のMicrosoftショーケーススクールとなっている。

世界では、全部で900校もある中で、日本にはたった一校。

この事実だけでも、日本のICT教育がどれほど遅れているかがよくわかる。

正頭先生は、勤務校でMicrosoftと連携していく中で、ICT推進のメリットを実感するようになっていったという。

はじめから、ICTに秀でていたわけではないと聞いて、驚いた。

自分が正頭先生の立場だったら、きっとMicrosoftとの連携に満足して、そこからさらに先を考えて、動いていくことができただろうか。

正頭先生はここで止まらない。

思考をさらに先に進める。

これからの時代、英語一本では通用しない時代がやってくる。

じゃあ、どうするのか。

かけ算だ。

今持っている専門性の英語と、ICTを掛け合わせて、差別化を図るのだ。

英語×ICTだ。

その結果として生まれたのが、正頭先生が、GTPのファイナリスト10人に名を連ねることになった、マインクラフトを使った英語の授業実践だ。

GTPの概要について一通り話していただいた後に、いつものようにグループディスカッション(GD)に移った。

GDでは、正頭先生からお題があった。

 

「あなたが他の先生と違うと思うところは?」

 

んー、悩んだ。

なんだろうか。

専攻として「国語」をずっと研究してきたけれど、「違い」にまでなっているのか?

GDで同じグループになった先生方も、少し言いよどんでいる感じは同じだった。

で、そもそも、の話である。(最近、本当に、そもそもを考えることが多くなった)

なぜ、こんなにも「他の先生と違うところ」を言うのが難しいのか。

日本の教育ではこれまで、「同じ」であることを求めてきた。

それは、「子ども」だけではなく、「教員」に関しても同じだ。

そういえば、何か新しい取り組みをしようとしたときに、合言葉のように言われるのが、「でも、学年で揃えないと。」「でも、学校で揃えないと」。

他の先生と足並みをそろえないと、「あの先生、勝手なことをして」となる。

(そこには、普段からの職員関係の形成も大きく影響しているだろうが。)

もちろん、子どもたちが一部の子どもたちが不利益を被るようなことはあってはならないと思う。

けれども、だ。

横一列になることを、必要以上に意識しすぎてきたのが、日本の教育だ。

私自身、足並みをそろえることに忖度して実践してこなかったことがたくさんある。

それは歳を重ねて、若手の教員と組むことが多くなって、ますます増えたように思う。

若手が悪いのではない。

日本の教育のシステムと、自分の勉強不足が原因だ。

GTPでは、「あなたにしかできない」教育が求められる。

それでいて、「再現可能である」ことも求められる。

一見相反するような二つが両立していることが、選考の一つの規準だそうだ。

正頭先生が、他のGTPファイナリストの先生たちがどんな授業をしているのかを教えてくれた。

例えば、ブラジルの先生。

ストリートチルドレンの多い貧困地域にある学校で、ごみ問題に取り組んだそうだ。

町中のごみを集めて学校に持ってきて、ロボットを作ったという。

その経験が、子どもたちの価値観を変える。

今までは、町中に落ちていても何の価値も持たなかったゴミが、子どもたちにとっては、どれもロボットの部品になったのだ。

子どもたちは、毎朝学校に来る道すがら、ごみを拾い、登校する。

朝のごみ拾いが、子どもたちにとっては、ロボットの部品集めになったのだ。

子どもたちが意欲的に学習に取り組むようになったことはもちろん、地域のごみ問題の解決にも一役買う形になった。

まさに、社会とシームレスな教育。

学習と生活が地続きになっている。

教育が、社会をより良くするきっかけになっている。

子どもたちも、教育を通して社会をより良いものにしていこうという意識を持つ。

まさに、以前リヒテルズ直子さんの講座で、イエナプラン教育が目指すものとして伺ったお話とリンクした。

 

しかし、このブラジルの先生の実践のように、すべてが全て問題の解決までたどり着くかと言えば、そう甘いものではない。

当然と言えば当然だ。

必ずしも解決が全てではない。

考えることが大事だ、と正頭先生は言う。

これに関しても、「問い続ける」というイエナプランにおける教師に必要な資質とリンクをみる。

 

正頭先生が言っていたことで、一番印象に残っているのが、「教師の学び方」についてだ。

「教師の世界ではこれから『これ一本やっていれば大丈夫。これ一本で勝負。』という世界はAIに負け、淘汰されていく。だから、極めるところまで達していないとしても、自分の中に、2本目の柱、3本目の柱を作って、かけ算でやっていく。AとBをやって、Cを作り出す、こういった先生がこれから求められていく」

 

昨年まで勤務校の校長で、お世話になった先生に頂いたアドバイスと重なる。

「にょん先生、国語はかなり専門性を身につけてきたと思うから、それはそのまま続けて、それともう一つ何かあったら、強いし、選択肢広がると思うで。」

 

自分にとっての2本目、3本目の柱は何なのか。

興味があることは、今幸いいくつもある。

それらへのアンテナを張り続けて、学び続けながら、第二、第三の柱になりうる自分の武器を探していこうと思う。

もちろん、自分の第一の柱で積み重ねてきたものは、それはそれでおろそかにせずに。

「引っ越し大名」鑑賞 188

先日、星野源主演の映画「引っ越し大名」を観に行った。


星野源主演 映画『引っ越し大名!』引っ越し唄 8月30日(金)全国公開

 

なんか難しいこと考えずに、純粋にエンターテインメントとして楽しめる作品でした。

めちゃくちゃ引きこもりだった気弱でネガティブな春之介(星野源)が、外の世界と触れ合うことで、少しずつ自分に自信を持っていく様は見ていて、痛快だった。

勇気を出して踏み出した一歩が、新しい出会いを呼び、その出会いが、また新たな一歩を連れて来る。

そんな「人」の物語だ。

個人的には、春之介の幼馴染役の高橋一生がツボだった。

豪快な性格でありながら、周りからバカにされても、春之介のことを信頼しているところや涙もろいところなど、「ああ、こういうやつが友だちとしていてくれたらすごく心強いだろうなあ」と素直にうらやましく思ったり。

 

春之介の誠実で、どこまでも不器用だが真面目でまっすぐなところに、周りの人間も感化され、それが重なって後半、大きな力、うねりとなっていく。

無茶な引っ越しをやり遂げるためには、知恵やお金も必要なのだが、しかし、それらを生きたものとして動かしていくのは、やはり「人」なのだ。

そんなことを考えさせられる物語だった。

「人」は論理だけで動く生き物ではない。

「人」が動くのは、それも大きなパワーで動くのは、「感情」が伴った時だ。

そこには、計算や予測を超えたものが存在する。

だから、考えられないような奇跡が起きるのだろう。

人が自分の意志で、感情を持って動くとき、その意志が強く、大きなものであればあるほど、それは強い輝きを放ち、周囲の人を惹きつける。

そして、少しずつ支援者が増えていく。

自分の夢が、みんなの夢になっていく。

一つ一つは細い、とても細い一本の糸のような夢が、何本、何十本、何百本と集まって、撚り集められて、布となり、みんなを導く旗となる。

中島みゆきの「糸」を思い出した。

 

「人」は損得だけで動くのではない。

結局は、感情を揺さぶられ、「人」で動くのだ。

そんな希望を持てる映画だった。

 

まだ続いてたん? 187

三つ前の記事でこんなことを書いた。

 

yamanyo.hatenablog.jp

 

子どもたちとの給食時間における仁義なき戦い

「英語使ったら、即アウト。」ルールはそれだけ。

この戦いは、私の完全勝利で幕を閉じた…。

 

 

はずだった。(デデスデッデデン) 

 

今日、給食時間でのこと。

私は、今日も、前日からコマを一つ進め、次のグループの子たちと一緒に、のんびり給食を食べていた。

すると、「先生!先生!」と横から激しく呼んでくる子がいる。

一体なんだというのだ。

人の恋路、違う、食い路を邪魔するとは。

 

私「んー?」

ふり返ると、そこにいたのは、前日私と死闘を繰り広げたK君であった。

K君「先生、その時計なんなん?!」

 

意味が分からない。

普段から職業柄、拙い語彙を補って、相手の言わんとすることを正確に把握することには長けている。

やっぱり意味が分からない。

 

「その時計なんなん?」ってなんなん?

大阪人の血が騒いで、もう少しで「ぬんぬん?!」と言うところだった。

危ない危ない。

 

話を元に戻す。

いや、戻さなければいけないほど、飛んでない。

どうもすいません。三平です。

 

しばらく黙って私はK君を見つめていた。

しかし、K君は何も言わない。

言わないけれど、めっちゃ見てくるやん。

ぬんぬん。

言わない代わりに、彼の目は口よりも雄弁だった。

 

K君心の声(いやいや、先生。ほら、わかるやろ?おれが求めてるのはそういうことちゃうねん。この目見て!な!欲しい答え見えてきた?どう?どう?)

 

メッセージ多いわ、その黒目。

情報含みすぎ。

1TBぐらいあるんちゃう。

 

で、私はその情報を必死に読み取って、答えた。

 

私「これはなあ、アップルウォッチやで。」

K君「え!?なんてなんて!?もっかいゆうて!!」

私「え、アップルウォッチ。」

 

K君「はい、先生英語使ったーーーーー!!!負けぇぇぇぇぇぇ!!」

 

私は思う。

彼は、昨日の夕方から今日の午前中にかけて、何を思い過ごしてきたのだろう、と。

今となっては、その思いを知るすべを私は持ち合わせていない。

でも、彼の心の底からの嬉しそうにはしゃぐ姿を見ていると、そんなことどうでもいいと、清々しくさえある。

 

 

明日、昨日罠にはめた「ハワイ」をもう一度K君に言わせてやろう。

それ以外は、どうでもいい。

「けテぶれ」開始、一週間経過。 186

 漢字の宿題を「けテぶれ」学習法に変えてから、一週間が経った。

子どもたちは、おおむねこの学習法を気に入ったようで、連絡帳の「宿題」の行から、漢字がなくなっても、ほとんどの子が自分のペースで学習を続けている。

中には、早くも「自分で計画して勉強するの楽しい!!」と感想まで書いてくる子もいる。

3つのかごを用意し、

めっちゃ見てほしい→赤

いつも通り、普通にやって来たよ→緑

おさぼりしました→青

と、取り組み方によって自分で選んで提出させるように準備した。

子どもたちは、毎朝(一応、毎日出すことにはなっている。やっていなくても)3つのかごの前で、「うーん、今日はどっちかなあ?」と悩んだりしながら、提出している。

小さなことかもしれないが、提出一つとっても、自分で思考して判断する機会になっていると感じる。

そして、最近、複数の子どもたちから、こんなことを聞かれることが増えた。

 

「先生、放課後じゃなくて、休み時間にけテぶれやって、明日出してもいいん?」

 

もちろん、私の答えは「OK」である。

この一言は、かなりうれしかった。

今まで、宿題が指定されていたことで、半ば強制的に決められていたような放課後の時間が、まるっと自分のものになったのだから。(習い事はあるけれど)

自主性に委ねられたからこそ、「放課後の時間を好きに使いたい。でも、漢字もやっておかないと、テストには太刀打ちできない。じゃあ、どの時間を使ってやろうか。」という思考が生まれる。

何もかも決められていたままでは、思いつかない発想である。

自分の一日をどのようにデザインするか、思考の質が変わっていく。

メタ認知が進み、自分を客観的に見られるようになっていく。

 

「宿題は放課後にするもの」「宿題は先生が出すもの」「宿題はみんな同じ内容を同じやり方でやってくるもの」。

これらの認識は全て、現在でも多くの学校や学級で「当たり前」とされていることだと思う。

私の学級でも少し前までそうだった。

でも、「そもそも」である。

「宿題とは何のためにあるのか?」

きっとみんな口をそろえて言うだろう。

学習内容の定着を図るため、家庭での学習習慣をつけるため、と。

しかし、これを目的として、「一人一人は違う人間であり、その学び方や学ぶ量も人それぞれである」という前提に立つならば、これまでの宿題は本来の目的達成のために機能していると言えるのか。

けテぶれに変えてから、子どもたちは少しずつだが、これまで見たことのない反応を見せ始めている。

自分の「学び方」を本当にわずかだが、意識し始めている。

「どうすれば、自分は効率よく、スムーズに学ぶことができるのか?」

試行錯誤を繰り返し始めている。

まずは「やってみる」、そして「考える」。

はじめから考えてばかりいても、何も始まらない。

一歩を踏み出すことなしに、スタートは切れない。

 

もちろん、まだ自分なりの学習法が見えていない子も大勢いる。

そりゃそうだ。

見つけられたら、一生ものだ。

そう簡単に見つかる方が奇跡に近い。

だから、見つかるまで苦しい。

挫折もする。

でも、だからまた思考がそこから先へ進む。

そして、試してみる。

その繰り返し。

まだまだこれから。

長い目で見守りたい。

 

もちろん、課題もある。

なかなかモチベーションが上がらず、取り組めていない子にどうアプローチをするべきか。

毎朝の宿題交流会において、最小限の時間で最大限の効果を発揮する場にどう改善していくか。

でも、「指導者」でなく「伴走者」として、子どもたちと同じ方を見ながら、その成長をサポートしていけたらいいなと思う。

その理想に至るには、自分自身まだまだ力が足りない。

だから、自分も日々、リフレクション。

そうして、試す、試す。

失敗を、怖れるな。

失敗は、成長という言葉を言い換えたにすぎない。

30冊目「読みたいことを、書けばいい。」 185

今年度30冊目の読了本はこちら。

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「読みたいことを、書けばいい。/田中泰延」

シンプルにシンプルに、極限まで無駄を削ったような表紙が何とも気になる。

タイトルにあるように、「言いたいことはそれだけだ。」と宣言しているような潔さが漂っている。

著者の田中泰延さんは、元電通のコピーライター、勤続24年。

が、ある日、電通を退社する。

どうも、電通在職中に、ひょんなことから知り合いに頼まれて書いた映画評論が累計200万PBVをこえるほど多くの人に読まれたことがそもそものきっかけらしい。

ここで、急に「ひょんな」と言う言葉の語源が気になっているのだが、「とにかく一次資料にあたれ」と言う著者の言葉を思い出し、「ひょんな」の語源については飲み込もうと思う。

この本を購入して、早速ページを開くと、1ページ目から度肝を抜かれた。

 

「あなたはゴリラですか」

 

思わず、「いいえ、違います」と心の中で、反射的に答えそうになっていた。

「読みたいことを、書けばいい。」というシンプルなタイトルに惹きつけられて読んでみたら、「あなたはゴリラですか」って、えげつない組み合わせである。

その後も、読み進めるたびに、心のツッコミはブレーキがかかるどころか、アクセル全開である。

いちいち、言葉のチョイスが面白くて、あまのじゃくで、なんだか核心に迫りそうになると、ふわっと読者をけむに巻いて、ふざけた雄。

違う。

ふざけ倒す。

 

本編のほとんどがエッセイであり、ビジネス書では断じてないと著者は言うが、なんだかたまにグサッと刺さる一言がある。

昔、くるり岸田繁がアルバム制作について語ったインタビュー記事を読んだときのことを思い出した。

記事の中で、岸田繁は「アルバムの中で、いわゆる『ええ曲』ってのが、2曲ぐらいあったんで、あとはもう自由にやってええかな、と。アルバムの中で言うたら、あんまりそういう『ええ曲』ばっかりあってもしゃあないし。」的なことを言っていた。

多分。

あ、一次資料に当たってない。

やめとこ。

 

付録やコラムという体で、電通時代に得たノウハウだったり、書くために読むといい本の紹介なんかがされている。

付録やコラムの方が、字が小さくて、なんだか真面目。

本編で、ふざけ倒して、おまけで、真面目。

逆か。

そんな構成も「読みたいことを、書いただけ」なのだと思わせてしまうから、脱帽。

あまりに面白くて、買ってその日に全部読んでしまった。

小説以外で一気読みという経験があまりなかったので、読み終わった時の達成感には、新鮮なものがあった。

そして、なんだか無性に文章が書きたくなっている自分がいた。

「さて、何を書こうか」

クセのように、そう考えている自分がいた。

違う。

「読みたいことを、書けばいい」のだ。

ということで、この本を読んで、思ったこと・考えたことを徒然なるままに書いている。

真面目な部分で言うと、「一次資料に当たる」ということに対する徹底した姿勢には、学ぶこと大きかった。

「調べる」とは、「一次資料にあたる」ことを言う。

これ以上は、何も情報が出てこないという行き止まりまで調べることで、自分の好きに書いても、その調べ切ったという事実が説得力を持たせるのだろうし、何より好きに書いていくことに無駄な罪悪感を感じないで済む。

だから、私は、この文章を多少の罪悪感を持って書いている。

「ひょんな」の語源と「岸田繁のインタビュー記事」について、調べていないからだ。

でも、次こそは。

次っていつですか。

 

何を書けばいいかわからないというのは、そもそも「これについて書けばいい」というある種の答えのようなものを探していると言える。

しかし、そんな答えは存在しない。

そこには。、「読みたい」と「書きたい」があるだけ。

シンプル オブ シンプル。

万人にバズる文章なんてものは存在しない。

答えは、もともとあるのではなく、生み出す、または結果としてそれが答えであると認識されるのだと思う。

だからこそ、自分が読者として読みたいものを書くことが大切なのだ。

まず、そこでの自分の書いたものに対する説得力が大事なのだと思う。

 

というわけで、次回は、「保護者対応に特殊相対性理論を応用できないかどうか」について書こうと思う。