点と線。262
「思い立ったが吉日」
そんな言葉を久々に思い出した今朝。
物事にはタイミングがある。
最近、そう思うことが多い。
きっかけは、何だろう。
あれだ、昨年12月の仕事におけるうまくいかなさ。
あそこから始まってたんだろうな。
今はそう思える。
あの時は、それこそ「終わりだ」くらいに思ったこともあったけど。
U字型の二次関数グラフの底から少しずつ這い上がってきた感じ。
人は這い上がっていって、少しずつ上向いていると実感できると、不思議なもので、触れる人やもの、ことがポジティブな意味を持って自分に飛び込んでくる。
落ちているときって、自分の状態が良くないことを自覚して、「これじゃだめだ。」って、自分の内と外で起こっている望ましくないと思っていることを何とか価値付けようとリフレーミングに躍起になって、何とか自分を説得しようとしがちだ。
いや、一般論でなく、自分がそうだ。
そうだった。
でも、今回は、リフレームしようともせず、ただただ自分に起こった望ましいと思っていないことを受け止めた。
そこから沸き起こる怒りや情けなさ、悔しさ、むなしさ、といった負の感情も抑え込まなかった。
なんなら、自分以外の誰かに吐き出すことがスッとできた。
そのことも自分にうまく作用したのだろう。
2ヶ月ほどたった今、自分を通して見る世界は、以前のそれに比べて鮮やかに感じられる。
気にも留めなかった日常の中にある綺麗だったり面白かったりステキだったりすることをキャッチできるようにもなってきた。
昨日、エデュシークオンラインのイベントに参加した。
テーマは「振り返りの探究」。
その中で、「ぐちゃぐちゃな感情をぐちゃぐちゃなまま置いておくことが時に大切である」と登壇者の一人である武田信子さんが言っていた。
その言葉は、ぼくの胸の中をすーっと駆け抜けていった。
ぼくは、しばらく「言語化しなければならないのに、言語化できない自分」にもどかしさを感じていたのかもしれない、と腑に落ちるような感覚があった。
そして、「言語化しなければならない」というある種の強迫観念に取りつかれていたのかもなあと思った。
「無理やり思考に落とし込まなくてもいい」
その言葉に、とても救われた気がしたのだ。
もちろん、それは忘れていいということではない。
時間を経て発酵させていく。
機は熟すというけれど、まさに発酵だ。
毎週末にあるサークル。
年末は先述のしんどさから学ぶ意欲も高まってこず、随分とぼんやりと過ごしていたなあとふり返って思う。
年が明けて、最初のサークル。
ぼくの中では、何か動き出したい気分が高まってきていた。
きっとこのころ、僕の中でぐちゃぐちゃなまま置いていたものたちは機が熟してきていたんだと思う。
サークルのメンバーもそれぞれに色々と抱えながら、奇しくも似たようなタイミングで、そろそろ動き出したいなあという気持ちを持っていたようだ。
本紹介から新年の活動をスタートさせた。
翌週末のプレゼンに向けて、日々少しずつ読書をする中で、心地良い強制力が自分を少しずつ前へ進めてくれているのを感じた。
本に書かれてあることが自分の日常と紐づいていく感覚。
この感覚に再会するのに、随分と長い時間がかかったなあと思う反面、そうでもないかと思う自分もいたり。
あっちをふわふわ、こっちをふわふわ。
でも悪くない。
「ねばならない」は、日々あちこちに転がっていて、油断すると、すぐに自分の心の隙間にスッと入ってきていつの間にか居座っていたりする。
もっと学ばなければならない。
もっとよく子どもたちを見なければならない。
もっと考えて授業を組み立てなければならない。
もっと
もっと
もっと。
挙句には、「ねばならない」なんて考えないようにし「なければならない」。
「ねばならない」はどこか、自分自身から距離のある言葉だ。
「ねばならない」の奥で、「で、どうしたいの?」「で、今何を感じてるの?」という声がかすかに聞こえる。
サークルメンバーの言葉が頭の中に浮かぶ。
「わからないものをわからないままわかろうとする」
「わかる」と言い切れるほど明確なものってどれだけあるんだろう。
そんな明確な「わかる」があったとして、果たしてそう言い切れた時、本当に自分は「わかって」いると言えるのだろうか。
でも、「わからない」ことに胡坐をかくのも違う。
境界線はどこまでも曖昧で揺蕩っている。
でも、今は、それでいい、と思える自分がいる。
そう思える自分がいるというのが、今のぼくの「実感」だ。
これからも悩んで迷って立ち止まって絶望したりもするだろうけれど、
そういうもんだろう。
物事にはタイミングがある。
今は、ただ少しだけ手にしたこの実感を感じながら進みたい。