リフォーム。 260
昨日、久々に出勤した。
先生たち来てなくて、すっかすかだろうなあと思っていたら、案外出勤されていて、びっくりした。
でも、冷静に考えれば、来週から2学期がスタートする。
お盆にも入るし、ここで出勤するという選択肢は、「まあ、あるか」と思い直す。
午前中から、学年だよりやら、2学期に向けた授業の見通し何かを立てていると、あっという間にお昼に。
職員室で雑談しながら、ご飯を食べて、仕事再開。
学級園のサツマイモの水やりに行った。
午後の日差しは、一ミリの容赦もなく、ぼくの体を襲う。
今日のTシャツは、黒。
自分のチョイスを呪いたくなる。
でも、作業に来てた知らない工事のおっちゃんとおしゃべりしてちょっと元気が出た。
20分ほどで、水やりを終え、職員室に戻った。
職員室のドアを開けて、驚いた。
なんか壁際にあったロッカーとか、机とかが入口入ってすぐのスペースをふさいでいる。
まるでバリケード。
予想外の光景にきょとんとしているぼくを見て、教頭先生と同僚が笑っている。
事情を聞くと、2年後の隣の学校との統合で、職員室が手狭になるから、そのレイアウトを考えていたということだった。
職員数は、おそらく50人以上になる。
今の職員数が2.5倍以上になるわけだ。
職員室を見渡しながら、50人以上の職員が入った職員室を想像してみる。
うーん、これ、どう考えても無理ゲーじゃない…?
職員用の机は、現在30弱。
このおよそ倍は、机が入ると考えると、どう頑張っても無理な気がする。
で、教頭先生と同僚の先生は、机やロッカーの位置をあれこれ話し合っている。
ぼくは、それを横で聞きながら、前から言っていたことを改めて言ってみた。
「この一人ずつの机なくしてとっぱらって、丸テーブルとかソファとか置いて、フリーアドレスにするのどうですか?」
二人とも笑ってた。
現実味のない考えだと思って、話半分に聞いてる感じがビシバシ伝わってきた笑
いやいや、でも、ぼく結構真面目なんですけどね。
そりゃあ、予算のこととか、いろいろあるとは思う。
それは、わかる。
でも、だからって、職員室は「こういうものだ」とか「こうあるべきだ」とかそういうところからスタートするのって、全然わくわくしない。
せっかく職員室がガラッと変わるなんていう、なかなかない機会に恵まれているんだから、という気持ちが強い。
だったら、実現するかどうかとか、言ったから「絶対そうする!」ってんじゃなくて、もっと妄想ベースで考えるところからスタートしたらいいんじゃないのかなあと思うわけで。
自分達が毎日働く職場なわけで、そりゃあ居心地がいい場所の方がいいに決まってる。
でも、それって誰かに与えられるものじゃなくって、自分たちで作っていくもんだ。
当事者意識の有無は、職員室のレイアウトだけじゃなくて、それ以外の学校内のもろもろの事象に対する感覚にも影響すると思う。
「こういうのってどうかな?」
「こんな風にすれば、こんな動きが生まれるんじゃない?」
そんな対話ができれば、それぞれの価値観を理解するきっかけにもなるし、すごくいいと思う。
「なければならない」に大人も子どもも違和感を抱かなくなってしまったら、怖い。
まだまだ対話の余地はあるはずだから、諦めずにワクワクから出発して、自分たちの手で作った!って当事者感覚をみんなが持った職員室を作っていきたい。
対話を通して学ぶ。 259
昨日は「学習する学級」講座第2期の1回目だった。
「学習」=「インプット」ではない。
これを第1期の時に学んだ。
学ぶことに終わりはない。
1期で学んだことも、それ自体をそこで「閉じてしまう」と学びは止まってしまう。
だから、実践し続けることを止めないために継続参加を決めた。
1人で学ぶことは大切だが、それだけでは厳しい。
人は低い方に簡単に流されてしまうから。
だから、コミュニティの力を生かす。
コミュニティの心地よい強制力で自分の学びをブーストさせる。
さて、昨日の第一回講座に戻る。
講師の福ちゃんからのインプットの部分は、第1期の時に聞いたことと大きくは変わらない。
でも、大きな気づきがあった。
それは、「対話の中で新しい気づきが生まれた」という実感だった。
昨日の講座で言うと、まず、インプットの部分で自分の心が動いたところがあった。
「変化はあらゆる場所で起こる、つまり、あらゆる場所にリーダーがいる」というもの。
この言葉に強い希望を感じたのは、「2学期に向けて、クラスや学校をより良くしていくためにはどうしていけばいいのか」、そこを考えている自分の内面と共振したからだろう。
自分の中で勇気が湧いてくるのを感じた。
と同時に、一つ疑問も浮かんできた。
「じゃあ、あらゆる場所にリーダーがいる状態には、どうやってなるのだろう?」
という問いだ。
そもそも、最初からあらゆる場所に「リーダー(一歩踏み出す人)」がいるのであれば、どんな組織もより良くなり続けているはずである。
でも、そうではない現実が目の前に横たわっている。
本講座終了後の放課後のシェアタイムに、グループになったメンバーの方たちに聞いてみた。
・子どもたちに「リーダーとは?」を共有する
・一人じゃリーダーになれない、コミュニティが必要
・一歩踏み出す=境界線を越える、境界線は人それぞれ、それぞれが越え続ける
・自分自身がリーダーであり続ける(泥臭い1対1をくり返していく)
メンバーの方たちの話を聞いていて、「なるほどな」と腑に落ちる感覚になった。
そして、自分の中にあった問いの前提自体も揺らいだ。
「リーダーとはこんなものだ」という理解が自分の中にあったと思っていたが、そのイメージが少し更新された。
ぼくは、どこかでリーダーは「なる」「もの」だと思っていた。
けれど、その理解でいる限り「なる」と「なれない」の分断が起こる。
なぜなら、「なる」という言葉自体に、すごくハードルの高さを感じてしまうからだ。(自分だけかもしれないけれど)
でも、リーダーが「状態」だとしたら?
「なる」じゃなくて「ある」だったら?
そう考えると、確かに、あらゆるところにリーダーが存在しているんじゃないか。
何かしらの境界線を越えて踏み出した人は、そのとき、リーダーで「ある」わけだから。
そして、リーダーで「ある」状態を実践し続ける人が、真の意味で「リーダー」になる。
そういうリーダーがあらゆるところで、自分にできることをやり続けた結果として、組織は変化をしていく。
リーダーで「ある」ことを続けていくことで、本当の意味でリーダーに「なる」。
なら、まず「ある」状態を一つでも多く作るということ。
そして、その「ある」に自覚的になること。
「ある」に対するフィードバックをしっかりとしていくこと。
そのためには、「学習」が必要になる。
だから、自分自身がまず学び続けなければいけない。
学級でも、子どもたちがそれぞれの境界線を越えて、一歩踏み出したことを最大限承認する文化をまず、自分が作っていこうと思った。
そして、今回の講座での対話を通して、これまで断片的に理解していた知識がつながっていくのも感じた。
特に、本講座とは別で受講している「組織開発ゼミ」での学びがここにきてすごくつながってくるのを感じている。
「学習する学校」と「学習する組織」、どちらの課題図書もピーター=センゲのもの。
当然といえば当然なのかもしれないが、自分の実感として、知識がつながって理解が深まる体験をできているのは、すごく大きい。
対話を通して、そうした気づきが得られているところなんかは、「これって、まさに社会構成主義の考え方で学習が進んでるんじゃないの?」って思ったり。
でも、同時に「頭でっかちにはなるな」と警告を発しているもう一人の自分もいる。
頭で理解した気になっても、何も変わらない。
実践をし続けることでしか、変わってはいけない。
だから、「実践を続ける(=一歩踏み出し続ける)」→「内省的な会話(リフレクション)」→「実践を続ける」のサイクルを回し続けることが大切だ。
その中で、システム思考を生かして、自分が所属する集団や、その集団が所属するもっと大きなシステムとの相互依存性を見極め、リフレクション自体のリフレクションも行っていく。
「〇〇をすればいい」なんて、すぐに飛びついて即効性のあることなんてない。
あってもきっと高が知れている。
でも、「できない」を「できる」にするために踏み出す一歩は、常に「学習」であって、そこには自覚的でありたいなと思う。
色々書いてきて、まだまだうまく言語化できないことだらけだ。
でも、「それでいい」と少しプラスに受け止められている自分もいる。
だって、「やってみて、失敗をして、またやってみる」が「学習」に必要なことだと理解しているから。
自分のペースで、少しずつやっていこう。
この夏の学びを2学期への糧に変えて。
自分の言葉。258
昨日は、オンラインで開催された「みんなde『学び合い』フォーラム」に参加した。
別件で、午前中の基調講演は参加することができず、午後の分科会から参加した。
ぼくが参加したのは、分科会Aの古田先生×葛原先生のお話。
葛原先生のお話は、何度か伺ったことがあったが、古田先生のお話は今回が初めて。
どんなお話が聞けるのか、とても楽しみにしていた。
結果から言うと、内容はとても良かった。
でも、それ以上に、お二人が、どこまでも自分の言葉で語られていたのが何よりも印象的だった。
同時に、刺さった。
「お前は、自分の言葉で語れているのか?」
そんなことを強烈に投げかけられているように思えてならなかった。
相手は、自分を映す鏡。
つまり、相手からそういうことを受け取ったようで、実は、それは自分の内面が相手の姿を通して顕在化しただけなのではないか。
「自分の言葉で語れていない」という感覚が自分の中にはっきりあるからこそのインパクトだろう。
言葉は、思考するために欠かせない。
「りんご」という言葉がなければ、「りんご」について思考するのは途端に難しくなる。
古田先生や葛原先生のお話を聞いていて、その語られる言葉によって、自分の頭の中に「なるほど!」という感覚が生まれた。
それは、その言葉たちによって、自分の中で形を成していなかった思考の断片のようなものが、急にはっきりと輪郭を持ったもののように感じるからだ。
徹底的に言語化することで、今までぼんやりともやがかかっていたようなものに輪郭が与えられる。
輪郭が与えられるからこそ、見えてくるものがある。
それは、その輪郭が「正解」というわけではない。
でも、輪郭が見えたからこそ、「ここをもう少し削ってへこませた方がいいな」とか「ここ欠けてるから、何かで補わないとまずいな」とか、その先へと思考が進むきっかけになる。
言葉によって与えられた輪郭がきっかけとなり、思考が進み、さらに新たな言語化へつながっていく。
その作業には、きっと終わりがなくて、常に問い続け、見えた輪郭は、その問いにさらされ続けるんだろう。
そうした作業を徹底的に積み重ねてきて、磨かれた輪郭の一端が、昨日のお二人が語られたことなんだろう。
お二人の「子どもたちの姿」という自分の外側と「内省」という自分の内側との往復の途方もなさを、きっと感じ取って、その姿に、自分自身を重ね合わせ、最初に書いた「刺さる」という感覚に至ったんだろう。
それは、どこまでも誠実で謙虚な営みだ。
自分はそこまで誠実に謙虚に、日々の実践を積み重ねられているだろうか。
そんなことを思った一日だった。
借りてきた誰かの言葉で語ってしまう誰かの実践でなく、自分の言葉で語れる自分の実践を積み重ねていきたい。
チェックイン。257
ここ一年ほど、オンラインセミナーや学習会に参加することが日常的になっている。
様々な場があるし、学ぶことはたくさんある。
その中で、オンラインの場に参加するようになって、初めて意識的に経験するようになったことがある。
「チェックイン」である。
その場に参加するにあたって、見通しを持ったり、緊張をほぐしたり、参加者同士の理解を促したり、心の準備をする時間だ。
オンラインだと、その場で「はじめまして」の関係が当たり前だったりするから、より重要になってくるのかもしれない。
そういう場に参加するたびに、「チェックイン」の重要性を感じるようになった。
そして、それは、もちろんオンラインだけじゃないよなと最近ふと思うことが多くなった。
学校でもそれって同じだよなあと。
授業での単元やその時間の導入なんかも「チェックイン」と言えるかもしれない。
でも、案外職員同士の場では、「チェックイン」って見かけない。
なぜだろう。
1つには、「とにかく時間が惜しい」という意識が働いているんだと思う。
そんなことしてる暇があったら、少しでも早く本題に入ってさっさと終わらせよう。
そんな風に思っている人が多い、自分も含めて。
そう思ってしまうのも仕方ないぐらい忙しいというのは否めない。
でも、逆説的にそうしていきなり本題に入ってしまうことが、その場に及ぼす影響って実は小さくないんじゃないかなあというのが、今のぼくの考えだ。
何より日々バタバタと動き回って6時間授業を終えた先生たちに心の余裕はない。
その状態で、そのまま十分な休憩もとらないまま、会議に突入するのである。
それって、固定的マインドセットな状態の先生が多いんじゃないのか?
と思う。
そのまま、意見の食い違いなどが起ころうものなら、内面のネガティブな部分が大きくなることだろうことは想像に難くない。
思考は言葉に影響を与える。
言葉は行動に影響を与える。
その言葉や行動は、周りにも大なり小なり、意識的であれ、無意識的であれ、影響を与える。
その結果として、会議がうまく進まなかったりする。
コーチングを学んでいて、毎回、「GOOD&NEW」というプチワークから講座が始まる。
24時間以内にあったプチハッピーを順番にグループで発表していって、拍手をする。
ただ、それだけ。
でも、本当に場の雰囲気がやわらかくなる。
そして、そのプチハッピーの中には、明確に言語化されていなくても、その人の大事にしている価値観が隠れていたりする。
それを共有することがとても組織にとって大事なんじゃないかなあと思う。
そうやって感じられた他者の価値観は、自分の価値観を写す鏡にもなる。
だから、自分の価値観を見つめるいい機会にもなる。
1学期に様々な会議で、うまく折衷案が決まらないことが何度もあった。
その原因を自分なりに分析してみて気づいたのは、それぞれが自分の大事にする価値観をもとに、違うレイヤーで意見を投げるだけになっているのではないかということ。
投げられた意見はその場で受け止められないまま、また別のレイヤーから意見が投げられる。
その繰り返し。
そして、そのことに気づかずに、その渦中で「どうすればいいのか、うーん…」と身動きが取れなくなっている。
「あゆみ」「宿題」「休校中の課題」「運動会」などなど、個々のトピックについての話し合いで、度々同じようなかみ合わなさが起こるのだが、根っこは同じなんじゃないかという感覚がある。
互いの大事にしている価値観を理解し、受け止めた上で、議論に臨むという事ができていないからじゃないか。
でも、ここで話は序盤に戻る。
「でも、そんな時間どこにあるんだ。」と。
そんなわけで、互いのことを理解できないまま、会議だけはどんどん組まれる。
そこで起こるかみ合わなさが新たな推論のはしごをかけあがる現象を引き起こし、それが繰り返され、強化され、メンタルモデルになる。
そのメンタルモデルの歪みに気づかないまま、また次の会議に臨む。
さらに、推論のはしごを駆け上がる可能性が生じ、メンタルモデルはさらに強化される。
そんなことが起こっているのではないか。
互いの価値観の理解と時間のなさの両方を解決するアイデアとして、「チェックイン」が効果的なのではないかという仮説を持っている。
一度ですぐに相互理解ができるわけではない。
でも、くり返すことで積み重なっていく理解は確かにあるのではないか。
単純接触効果のように、まず、コミュニケーションの「量」を無理なく増やしていく手段としてもいいのではと感じている。
「みんなで職員会議10分短くして、その10分で、ちょっとプチワークみたいなのしませんか?」
それぐらいなら、受け入れられやすいのではないだろうか。
2学期からそういうことを試してみたいというワクワクが自分の中に芽生えてきている。
とりあえず、賛同してくれそうな先生に話をして、巻き込んでいけたらいいなあと思う。
小さく始めて、波紋が広がっていくイメージで。
10分が無理なら、5分で。
そういう文化を少しずつ、みんながつくり手として、つくっていけたらいいなと思う。
遅刻のお詫び。256
昨日は、空きの遠足の下見に1年のA先生と行ってきた。
コロナのことや人数が少ないことなど、いろいろと考慮しなければいけないことがあり、行き先も二転三転しそうになったのだけれど、結局、最初に考えていた行き先に落ち着いた。
朝8時半。行き先の最寄り駅の前にあるコンビニに集合。
集合時刻より5分早く到着。
外の暑さは、8時半にして、すでにじっとしていられないくらい。
ヤンジャンでも読んで少し涼もうかとコンビニに入る。
雑誌コーナーに行くと、ヤンジャンがない。
あれ、発売日間違えたかな…?
と思ってコンビニを回ると、発見。
しかし、それはレジ前の平積み。
ああ、たまにある立ち読みできへんパターンのコンビニやったか。
あきらめて、朝ご飯にメロンパンと炭酸水を買って、外に出て食べる。
暑い…。
何でこんな日に、肩から胸にかけての部分が黒いTシャツをチョイスしてもうてん。
太陽の熱吸収してめちゃくちゃ暑い。
あほか、自分。
LINEを確認すると、「バイクのエンジンがかからなくなって、車に乗り換えたので10分ぐらい遅れます。すいません!」というメッセージが入っていた。
10分ぐらい全然いいのに。
「全然いいですよー。気を付けて来てくださいねー!」と返信。
それから少し待つと、A先生がやってきた。
ぼくの横まで来て、「すいませんでした!」と冗談半分、申し訳なさ半分といった感じで謝られた。
「いやいや、ほんま全然いいですよ~。お疲れ様です^^」
本心からそう言った。
A先生は、「ちょっとお茶だけ買ってきていいですか?!」と言って、コンビニに入っていった。
ぼくは、そんなA先生を「そんな慌てんでええのに~。」と笑いながら見ていた。
少ししたら、お茶を買ったA先生がコンビニから出てきた。
そして、ぼくのところへやってきて、
「にょん先生、遅くなってしまってすいません。これ、ちょっとなんですけど、どうぞ。」
そう言って、差し出されたのは、お菓子。
「えー、先生、そんなんわざわざ気ぃつかわんくてもええのに。ありがとう。」
「いやいや、集合時刻融通利かせてもらったのに、遅刻してしまって申し訳ないです。」
そんなやりとりを2ラリー半ぐらいした。
目的地までの順路を確認して、A先生は車に乗り込んだ。
ぼくは、バイク。次に会うのは目的地で。
A先生と別れて、もらったお菓子をじっくり見た。
それは、フリーズドライのイチゴのまわりを抹茶チョコでコーティングしたものだった。
うん。
おいしそう。
イチゴの酸味とチョコの甘味と。
うん。
ただ、この暑さね!!
今から屋外での下見ね!!
食べながら下見とかできへんから、自然とどっかに入れとくことになるよね。
持ってきた小さいカバンには入らないから、そうなると、これ、保管しとける場所はたった一つ。
そう!
メットイン!!!
ぼくは、このお菓子をおいしく頂くことをあきらめて、目的地の駐輪場で、お菓子をそっとメットインにしまった。
約2時間の下見を終えて、帰り際、メットインを開けて、恐る恐るお菓子を開封して中をのぞくと、きれいに溶けた緑色。
うん。
ですよね。
スタバ。255
長期休みに入ってから、毎日のように近所のスタバに出かけている。
そこで、読書をしたり、課題をしたり、している。
家だとなかなか集中できない。
集中を妨げる誘惑が多いのか。
どうなんだろうか。
この辺、WELL-SPACEと関係してきそうだ。
そこを学んだら、家をもっと集中とリラックスの両立する環境にできるのかもしれない。
とりあえず、そんなわけで、今はスタバを使っている。
「スタバにいく」ということが、自分の中の「やるぞ!」って気持ちにスイッチを入れているところがある。
入り口を入ると、まず店内を見渡す。
それから、空いている席をいくつか見つけると、その日、やろうとしていたことを頭の中でイメージして、それにぴったりだと思う席を選んで荷物を置く。
それから、注文カウンターに行き、ドリンクや食べ物の注文をする。
今日の午前中も、そこのルーティンはいつもと変わらない。
でも、なぜか今日はやけに食べ物に目がいった。
思い返してみると、朝ご飯を食べていなかったことを思い出す。
ぼくの本能が、食べ物を見させたのかもしれない。
しばらくいろいろなラインナップのパンを品定めする。
ラップサンドおいしそう。
アツアツじゃないから、すっと食べれるもんな。
ああ、でもアツアツのツナチェダーチーズサンドもおいしそう。
溶けたチーズこぼさんと食べる自信はあんまりないけど。
いろいろ悩んだ末、時計を見ると、11時であることに気づいた。
「いや、あと1時間したら昼ごはん時やん。」
少し冷静さを取り戻し、食べ物から目を離した。
離れた目線が次の何かを視界にとらえる前のほんのわずかな瞬間。
「いらっしゃいませ。」と店員の若い男の子の声が飛んできた。
ぼくの視線はその店員さんに吸い込まれるように向かった。
「ご注文をお伺いします。」
淀みない言葉で、そう聞いてくる店員さん。
完全に不意打ち。
やられた。
食べなかった朝ご飯。
空腹。
本能で見とれた食べ物。
そして、意識の隙間を縫って飛んできた店員さんの声。
ぼくの意識は、メインであるはずの飲み物から完全に隔離されたところにあった。
どうしよ、全く飲み物決めてなかった。
「いや、別に今から決めたらええやん、焦らんでも」と言われそうだが、ちがうちがう、そうじゃない。
なんかありますやん、無言のプレッシャーが。
店員さんからのもそうやし、ぼくの後ろに並んでる人のもそう。
それを思うと、「ああ、早くせな!」って勝手に焦ってしまうのです。
そんな焦りは、僕の思考を「甘くなかったらもう何でもええや!」に変えてしまっていた。
そして、メニューに目をやると、「コールドブリューコーヒーフローズンレモネード」という必殺技みたいな飲み物が目に入った。
これにしよ。
「じゃあ、このコールドブリューコーヒーフローズンレモネードで。」
と言って思い出す。
あ、これ、前に飲んで、あんま好きじゃなかったっけ。
さらに焦る。
「えっと、コーヒーじゃなくて、ティーに変えてください。」
「かしこまりました。」と店員さん。
危なかったー。
気づかず頼んでしまって飲んでから、「うわ、これ好きちゃうやつやん。うえー。」とか思いながら、課題図書の「学習する組織」のサマリーつくるとか…。
自分が一番「学習してない」とか笑えん。
ひとまずコーヒーをすんでのところでティーに変えることができてほっと一安心。
と思ったら、まだあったとは。
「お客さま、ティーの方ですが、ブラックとパッションティーから選べるのですが、どちらになさいますか?」
まだ、分岐あったんですか!?
刹那、その二択に迷う。
いや、シンプルにブラックティーでいいでしょ。というにょんA。
いや、ここは普段あんまり飲まへん感じのパッションティーでいくべきちゃう。とにょんB。
誰にも知られず、脳内で繰り広げられるにょんAとにょんBの小競り合い。
時間にして数秒。
決着はついた。
「あ、ブラックで。」
「かしこまりました。」
ミッション完了。
ああ、よかった。
無事にプレッシャーを乗り越えて注文ができた。
だってさ、フローズンレモネードにパッションティーって、めちゃくちゃトロピカルやん!
今スタバ内にあるトロピカルな要素全部詰め込んだ感じやん。
もし注文してたら、「コールドブリューパッションティーフローズンレモネード」になってたんだろうか。
もはや、どれが主役なのかパッと見ではわからない。
どの単語がどの単語に係ってるねん。(エイゴワカラナイ)
でも、次から同じような焦りは感じたくないので、今日みたいに図らずも追い込まれてしまった時には、
「アイスコーヒー、トールで。」って定型文を言う練習しとこ。
ストライダーに思う。 254
先日、友人の自宅に遊びに行った時に、下の子がストライダーに乗っていた。
チャリンコのペダルがないやつ。
最近の子は、このストライダーに乗っているおかげか、自転車に乗れるようになるのが本当に早いそうだ。
自分が子どもの頃には考えられないことだ。
まず、こまつき自転車に乗り、自転車のペダルをひたすらこぐことを覚える。
それから、いよいよこまを外し、長い長い練習がスタートする。
何度もこけて、ひざやひじをすりむいて、痛くて涙する。
だんだん怖くなってきたりするときもあって、練習が嫌になる。
でも、自転車に乗れるようにはなりたい。
その感情の狭間で葛藤を繰り返し、ようやく乗れるようになる。
ストライダーに乗っている今の子たちは、そんなぼくらの子どもの頃のような苦労は知らないのだろうか。
「早い子は3歳や4歳で自転車に乗ってるで」と友人が言うから驚いた。
でも、よくよく考えてみれば、そりゃあそうか、とも思う。
ストライダーを使って子どもたちが学んでいるのは、ペダルをこぐことではなく、二つの車輪で、バランスを取りながらまっすぐ進むことである。
バランスを崩しそうになれば、すぐに両足をつけばいい。
最初から、まるごと自分にコントロールが委ねられている。
自分でやってみて、バランスを感じて、感じた結果から、調整をして、の繰り返しが自然と起こる。
こまつき自転車だとこのバランス感覚は養えない。
崩れそうになるバランスは、本人がそうと感知することなく、後輪の両サイドについた補助輪が支えてくれるからだ。
安心感はあるだろう。
こまつき自転車に乗っている間、バランスを崩さないことは保障されているようなものだから。
本来、自分で取るべきバランスを、完全に自分以外のものに委ねているのだ。
つまり、バランスに関しては、完全に思考停止の状態。
それが、ある日、いきなりこまを外されて、バランスをとりつつ、ペダルも漕ぐという世界に放り出されるのだ。
思考停止していたものをいきなり考えるというのは、なかなかにハードルが高い。
これって、今の学校現場にも言えるんじゃないだろうか。
こまつき自転車でペダルをこいで走れるようになった子を見て、「成長したなあ」と満足していないだろうか。
補助輪をつけることを無条件で推奨して、それで走っている子を見て、補助輪の効果に微笑んではいないだろうか。
最終的な目的である「自転車に乗れるようになる」を考えた時に、ストライダーのような手立てを、枠組みを考えられているだろうか。
子どもたちが自分で感じて修正できて、失敗しても安心安全があって、コントローラーは自分の手の中にあるという感覚を持てるような。
そんなことを思った、ある日の夏の昼下がり。