弱さを見せるということ。 264
先日、勤務校の修了式があった。
異動1年目。
激動の一年を何とか終えられたという安堵感が一番大きかった。
子どもたちを帰した後の職員室にも、そんな緊張から解き放たれたゆるやかな空気が流れていた。
打ち合わせを終えると、学校長からのあいさつがあった。
ひとしきり職員への感謝を述べた後、「私事ではありますが…」と切り出した学校長。
今年で定年を迎えるので、そのあいさつだった。
そのあいさつが忘れられない。
ここでも、しきりに周りの方への感謝を述べられていた。
そして、その後に語られたのは、ご自身のこれまでの管理職としての苦悩だった。
教諭としての経験がなく、管理職になったからこその葛藤や悩み。
「そんな自分にいったい何ができるのか」と繰り返される自問自答。
それでもここまで続けてこられたことへの感謝。
普段から明るく、軽口をたたいて場を和ませてくれる。
しょっちゅう差し入れをしてくれる。
そんな学校長の、見たことのない姿だった。
このあいさつが、自分にとって忘れられないことの根っこにあることに思い至ったのは、そのあいさつが終わった少し後だった。
それが「弱さ」だった。
その「弱さ」には、学校長も同じ人間だったということに気づかせてくれる「強さ」があった。
「いやいや、同じ人間て…当たり前やん。」と思うが、違った。
普段、何気なく働いていて、その当たり前である「同じ人間である」という前提を意識できていなかったなと思わされた。
それは、毎日毎秒、吸ったり吐いたりする空気を意識して呼吸していないことと似ている。
でも、意識できていないからこそ、零れ落ちてしまうものが確かにあったんだと思う。
誰もが感情を持った人間であり、瞬間瞬間に何かしらを感じながら、それを時に表出させ、時に押し殺し、生きている。
でも、たとえば職場で、「担任」として、「学校長」として、「教務主任」として、そうやって、属性に埋もれて働き、コミュニケーションを取っていると、その属性そのものが、その人であるかのような錯覚を起こしてしまう。
そして、それは簡単にそれぞれの「当たり前の現実」であるかのように、意識の中に居座ってしまう。
その無意識が、それぞれの関係性の中に、じわじわとしこりのようなものを生んでいく。
学校組織の人間関係のうまくいかなさには、この無意識が大きく関係している。
自分の横っ面をひっぱたいてくれたような、学校長のあいさつだった。
「わかっている」にもレベルがある。
頭でわかっているのか、実感として体でも心でもわかっているのか。
頭でわかっているだけでは、やっぱり表面的で、それは体になじんでいない。
だから水と油のように、分離していってしまう。
頭での「わかっている」と体や心での「わかっている」を界面活性剤のようにつないでくれたのが、学校長の見せた「弱さ」だった。
このあいさつから数日たつが、あっという間に新年度が始まろうとしている。
転勤に伴って、勤務校の人間関係もまた少しずつ新しくなっていく。
でも、ともに働いている人たち一人一人が同じ人間であること、
人間である以上感情があり、その感情の影響を受けながら日々を過ごしていること、
その感情を受け止めないと零れ落ちてしまうものがあること、
それらのことを忘れずに、ていねいに働いていきたい。