小学校教員にょんの日々ログ

毎日の出来事や考え、思ったことなどとにかくアウトプット!

制限の中で見つめる本質。 237

昨日、卒業式が行われ、6年生全員が参加し、笑顔で卒業していった。

2月末に突然言い渡された休校措置。

そのことで割り切れない思いもあったし、二転三転する指示に困惑したこともあった。

在校生は出席しない、来賓は一人、時間は60分程度、マスク着用・消毒液設置などの感染拡大防止策、座席の間隔をできるだけ開けるなどなど様々な対応の中で行われた式だった。

ここまで急に変更を余儀なくされ、ぎりぎりまでどうなるのか読めない部分が絶えずあった卒業式は、そうそうないだろう。

だから、「今年度限り」の対応もたくさんあるし、そう願いたいことはたくさんある。

来年度からは、また元通りの卒業式に戻るのかもしれない。

でも、だからこそ今年度感じたことがある。

きっと、今回のようなことになったからこそ、浮き彫りになったんだと思う。

 

上にも書いたように、今回卒業式を挙行するにあたって、いろいろな制限が設けられた。

それは、空間的なものから・時間的、心情的なものまで様々だ。

普段、「足し算」癖が多く、一旦増やすと、なかなかやめられない学校文化。

しかし、今回、種々の制限が加わらざるを得ない状況になって、その普段癖が薄まったと思う。

リソースが限られている中で、「卒業式」というものを考えた時、「いかに子どもたちを中心において実施できるか」というビジョンを全職員が共有できていたように思う。

だから、重ねてきた会議の場で、様々な意見が出て、時にぶつかりこそすれ、それら一つ一つの意見は、どれも共有したビジョンに根付いたものであり、職員間の対立を生むものにはならなかった。

ビジョンが共有されていることで、様々な意見をテーブルに出し、そこから、みんなで「最適解」を導こうという方向性が一貫していた。

それは、とても建設的で、一体感のある時間・空間だった。

時間・空間・心情が制限されることで、かえって、豊かな時間・空間・心情が生み出されていくという何とも不思議な逆転現象だった。

この感覚を「今年だけの、例外的なもの」と片付けてしまい、どうして式は成功したのかのふり返りを共有していかないと、また元に戻ってしまっては、あまりにもったいない。

今年のコロナウイルスに端を発する学校現場のドタバタは、ぼくたちがとても大事なことに気づくきっかけになっていると思う。

 

制限によって削られたものはたくさんある。

でも、それなのに、豊かな卒業式になったのはなぜなのか?

子どもたちが、練習期間ほぼゼロの中、立派に士気をやり遂げることができたのはなぜなのか?

もちろん、担任の先生方の努力と熱意、子どもたちの集中力があったことは言うまでもないが、それだけではないんじゃないのか。

 

まず、そのことにぼくたちが自覚的になることが大切だ。

そして、それを糧に、次年度からまた、目の前の子どもたちのことをしっかり見つめていけるといい。

そうやって教育をより良くしようとコツコツやっていけたら、みんながハッピーな学校現場になっていくんじゃないだろうか。

 

そんな可能性を感じた卒業式だった。

VISION DRIVEN発見‼ 236

昨日、ビジョン思考に関する読書記録の記事を書いた。

で、家に帰ってきてから、ボケーっとテレビを見てたら、ビジョンドリブンを発見した。

それは、夕方の情報番組「ミント」の中のたむけんのコーナー。

「学校に行こッッ!」でのこと。

今日は、これまでに放送した中から、チョイスされた学校の生徒たちの総集編。

その中で、僕の目はある男子生徒に留まる。

桜塚高校の梶くん。

番組が彼と出会ったのは、彼が高校一年生の時。

教室に訪れたスタッフの前で、彼はカメラに向かって自分の秘めた思いを打ち明ける。

 

「高校の文化祭でウォーターボーイズをしたい。だれか一緒にやりましょう!」

 

緊張しているのは、画面越しでも十分に伝わった。

それを全国放送のテレビカメラの前で言ったのだ。

とんでもない勇気だと思った。

自分が同じ立場だったら、自分のやりたいことを堂々と言えるだろうか。

いや、そもそもそこまでして自分のやりたいことって何だろう。

教育には違いないのだけれど、それをどんな言葉で、どんな風に伝えるだろう。

 

梶田くんは、その後、全クラスを自分で回り、同志を募る。

そして、そこから2年間、フォーメーションや音楽、振り付けなどを全て自分で考えて、決めたのだ。

ちなみに梶田くんは、水泳部ではない。

バスケ部である。

3年の夏までは、部活を普通にやっていた。

でも、家に帰ってからは、ウォーターボーイズのことばかり考え続け、3年の文化祭でついに、夢を実現させた。

本当に素晴らしいなと感動した。

 

彼を突き動かしていたのは、間違いなく「ビジョン」だった。

「どうしても実現させたい」、その思いが他のどの要素よりも大きな力を持っていた。

専門家に教わったわけでもない。

シンクロの経験があるわけでもない。

 

それでも、彼は実現させた。

彼の「ビジョン」に共感した仲間が大勢集まり、文化祭当日の演技も、言われなければ、それはもともとそういう活動をしていた部活に見えるほどの出来ばえだった。

最初から、計画があったわけでも、見通しがあったわけでもない。

でも、何よりも強い「ビジョン」があった。

それに突き動かされるように、とにかく実現に向けてがむしゃらにやってきたんだろうと思う。

番組では、尺の関係もあって(?)、そういう苦労の部分はあまり取り上げられていなかったけれど、きっと一筋縄ではいかなかったはずだ。

 

ただただ、夢の実現に向けて、ひたむきな彼の姿から、先日の「ビジョン思考」が実感を伴って腑に落ちた。

ものすごく勇気をもらった。

 

自分のやりたいことは何か。

何をおいても実現させたいことは何か。

それを、言語化して説明できるか。

人に伝えることはできるか。

 

まだまだだなあ。

でもこれからだなあ。

昨日のワークをいろいろやっていく中で、見つけて言語化していこう。

焦らない焦らない。

37冊目「直感と論理をつなぐ思考法 VISION DRIVEN」 235

今年度37冊目の読了はこちら。

 

直感と論理をつなぐ思考法 VISION DRIVEN

直感と論理をつなぐ思考法 VISION DRIVEN

  • 作者:佐宗 邦威
  • 発売日: 2019/03/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 最近、「〇〇思考」という言葉をあちこちで聞く。

自分自身、数か月前に「デザイン思考」についての本を読んだ。

他にもいろいろある「〇〇思考」の特徴が序盤でまとめられていて、わかりやすかった。

 

さてさて、本書を読んでみて考えたことをいつものようにつらつら書いていこうと思う。

まず、「はじめに」に書かれてあった言葉に、ドキッとさせられた。

 

「他人モードにハイジャックされた脳」

 

日々過ごしている中で、この言葉には、思い当たることがいくつもある。

情報にあふれる現代社会を生きていると、「他人モード」で過ごしてる時間の方が多い、と著者は言う。

確かに、仮に一日24時間の中でやったことを全て書き出したとして、その中に、「自分モード」で考えて過ごしている時間って一体どれぐらいあるだろう。

ひょっとして、1時間もないんじゃないか…って思う日もあって、ぞっとする。

 

VUCA化の進むこれからの時代、妄想を駆動力にした「ビジョン思考」が大きな力を発揮するというのが、本書の主張。

ビジョン思考とはどんなものか?

ビジョン思考はどのように身に付けるのか?

なぜ今ビジョン思考なのか?

そんな問いに答えるように本書は進んでいく。

 

読んでいて、これまでに読んだ様々な本や経験の断片とつながるところが多々あって、まだまだ整理しきれていないけれど、「全てはつながっている」と感じた。

 

VAKモデル(Visual/Auditory/Kinesthetic)は、優位感覚と似たような概念で、イエナプラン教育の講座で学んだマルチプルインテリジェンスなんかともリンクする部分があるなあと感じた。

人によって優位感覚は違うから、当然、学習における効果的な学び方も人によって違う。

だから子どもたちのより詳細な見取りが必要だし、一斉指導型だと全ての子どもたちが理解しやすいという状況を生み出しにくいことになる。

人は、「自分モード」で考えている時、「妄想→知覚→組替→表現」のサイクルをたどるらしい。「表現」は次の「妄想」へとつながり、ぐるぐると循環し、スパイラルに上昇していく。

このサイクルって、探求学習とか、PBLのプロセスとも似てるのかなあ。

このサイクルを子どもたち自身が授業の中で回していけるようになれば、すごくおもしろそうだなあと思った。

サイクルがうまく回らないときには、それぞれのプロセスにおいて、原因がある。

・妄想→内発的動機が足りない

・知覚→インプットの幅が狭い

・組替→独自性が足りない

・表現→アウトプットが足りない

こうした原因も、けテぶれみたいに子どもたち自身が何が原因かに自覚的になれたら、自分で学習を調整していけるようになりそうだ。

ビジョンドリブンは、このサイクルの中で、次々に新しい「問い」が生まれる構造になっている。だから、サイクルに終わりがなくて、どんどん新しいことに進んでいける。

一方、よく聞くイシュードリブンは、ゴールが「問い」の解決だから、解決すると、サイクルが終わってしまい、モチベーションが続かないことになる可能性がある。

これって、授業でも当てはまることよなあってすごく感じた。

内発的動機付けをいかにするかということがやはりすごく大きなポイントになってきそうだ。

そういう意味では、今年度クラスで取り組んだ教室リフォームの中で、巨大なソファを作たことは、明らかにビジョンドリブンだった。

そして、この教室リフォームでは、「とにかく作ってみる」ということをずっと大切にしてきた。

いきなり、完ぺきなものなんてできない。

作ってみて、そこから考えて、壊したり追加したりして、「妄想→知覚→組替→表現」のサイクルをどんどん回していった。

「とにかく作ってみる」は、プロトタイピングにあたる。

作ってみることで生まれたプロトタイプが場に対話を生む。

「Build to Think(考えるために作る)」って大事だ。

 

あと、ビジョン思考を鍛えるためのいくつかのワークを見ていて、前田裕二の「メモの魔力」の最後に付録でついていた「自分に関する1000の質問」のことを思い出した。

そういえば、「1000問全部やる!」と意気込んで、すっかり50問目ぐらいでほったらかしてた。

あれを、改めてやってみようかなって気になった。

なにより、全ての質問が「自分」に関すること。

「自分モード」で思考するのには、うってつけだ。

他にも、面白そうなワークがいろいろ紹介されていたので、ちょっと時間を作ってやってみようと思う。

 

ビジョン思考においては、具体化(プロトタイピング)とフィードバックの反復が重要だそうだ。

このビジョン思考に関して、かなり「なるほどなあ!」と納得しながら読み進めてきたのだけれど、自分の授業をふり返ってみたら、結構がちがちに計画を立ててやっていることが多い。

まあ、当然っちゃあ当然。

教科書があり、カリキュラムがあり、いついつまでに何を学習するってことがある程度決められている。

でも、その中で、1割でも2割でも、ビジョン思考をベースに、具体化とフィードバックのサイクルの回転数を上げて学べる環境のデザインや実践をやっていけば、少しずつ変わっていくものもあるんじゃないかと感じる。

プロトタイピングの「いかに早く失敗するか」の視点は、授業でも学級経営でもすごく大切だと思う。

プロトタイピングによって、チャレンジのハードルが下がり、「完ぺきなんて目指さず、まずやってみる」中で思考の制限が外され、創造的なアイデアが生まれる可能性が高まる。

「作家の時間」なんかは、これに近いのかなあと感じる。

そういうことを、部分的にでも取り入れていけないかの模索をしていきたい。

 

なんか全然うまく言語化できなくてもやもやするけれど、このもやもや自体、「世界を複雑なまま知覚する」というビジョン思考の方向性と一致しているんじゃないだろうか。(いや、理解力の低さを棚に上げるな。)

 

まあ、とにもかくにも、授業に生かせそうなエッセンスが色々と発見できたので、とても良かった。

「いない寂しさ」・「いるうれしさ」 234

休校措置に入ってから早2週間が経とうとしている。

本来なら、子どもたちがやってきて日々共に過ごしていたはずの時間が、ぽっかりなくなったことで、生み出された時間。

そのおかげで、事務作業はべらぼうに進んだ。

というか終わった。

そこに関するゆとりは本当にありがたい。

だれかがつぶやいていたが、この作業量を、3月末までフルで授業をした上、こなしてたなんて、昨年までの自分が自分で信じられない思いだ。

 

でも、それに反して心は軽くない。

もちろん、コロナウイルスによる外出自粛や健康管理に以前よりナーバスになっていることもあるが、何よりも子どもたちがいない学校で仕事をすることが自分に大きく影響を与えている。

こんな風に、現状をネガティブな方にとらえてしまいがちなのも、一連のコロナ騒動で自分自身が参っているのかもしれない。

 

そんな中、昨日、数人のクラスの子に会うことができた。

休校前に約束していた短編集の清書をやりきって持ってきた子たちだ。

1人ずつぽつぽつと時間はバラバラで来るが、みんな笑顔で久しぶりに会ったが元気そうで何よりだった。

そこで、少し近況を話して家に帰ってもらった。

あまり長時間話すわけにもいかない。

それでも、自分の心が確実に元気に、上向きになるのを感じることができた。

 

昨日はめちゃくちゃ天気が良くて、もうすっかり春。

職員室から外を見ると、学童の子たちが元気に走り回っている。

見てると、うずうずしてきて、次の瞬間には、グランドに出ていた。

クラスの子も3人学童に来ていたので、その子たちが遊んでいるところへ向かった。

お互いを認識すると、どっちもニタァ~って笑い合って、あいさつ。

その顔見合わせた時の感じ、なんだか幸せがあふれてた。

昨日のハイライトは、まちがいなくあの瞬間やったと思えるくらい鮮烈な瞬間だった。

 

あいさつの後、子どもたちとちょっとボール遊びをして、職員室に戻った。

すると、偶然なのか、また短編集の清書を持ってきた子がいて、その子は、清書を提出した後、グランドで遊んでた子たちに交じって遊び始めた。

きっと久しぶりの友だちの姿にいてもたってもいられなかったんだろう。

その気持ち、痛いほどわかる。

ついさっき自分がそうだったから。

 

その後、ぼくは職員室での仕事に戻ったのだが、しばらくしたとき、窓のブラインドの隙間から、子どもたちが職員室の中をのぞいて、ぼくを探していた。

窓を開けて「どうしたん?」と尋ねると、窓にでかいカメムシがついていて、それを知らせたかったらしい。

いやあ、報告内容が最高。

職員室で大人だけで日々過ごしてて、「窓の外に大きいカメムシがいます!」なんてワード絶対出てこんもんね。

その辺にあった棒きれみたいなもので、カメムシをピンッてはじいて外に飛ばしたら、「うわー!」「やめてや!」「キャーッ」と大騒ぎ。

そのにぎやかさがなんともうれしくてうれしくて。

 

休校措置で、「子どもたちがいない寂しさ」がクローズアップされがちだし、自分自身もそうなりがちだったけど、いやいや。

「子どもたちがいてる学校最高やな。」って心の底から思えた。

大切なこと身をもって確認できた。

そういうこと。

ネガティブに考えるより、ポジティブに考えよう。

何より昨日の子どもたちは、コロナ騒動なんて全く関係ないってぐらい素敵な笑顔だった。

できることをやり切って、次に子どもたちに会ったときに、そのパワーに負けないぐらい前向きでワクワクしてる自分でいたいなあと思った。

 

そんなことに気づかせてくれた子どもたちに感謝しまくった一日だった。

きく。 233

今回の休校措置で予定していなかった時間が生み出された。

通知表や要録などの事務作業も、毎日やるところを計画的に決めて、コツコツ進めた結果、ほぼ終わった。

他にもやることはまだまだあるが、それでも時間に余裕がある。

ウイルス感染の対応や対策に追われている各所を思うと心苦しくもあるが、この生み出された時間を有効活用して学んでいくことで、それを子どもたちに還していけるようにしたい。

そんなことを思いながら、気付けば頭の中で今年度のふり返りをしている自分がいる。

この3学期の初めから書いてきたふり返りを見返したりもしている。

そんな中で、意識の上に引っ掛かって浮上してきたキーワードがある。

それが、タイトルの通り。

 

「きく」ということ。

 

日々の実践をふり返ってみると、本当に子どもたちの声に耳を傾けられていない自分の姿があぶり出される。

それは、ふり返りを書いている時ですら気づけないでいたことだったりするから、何とも痛みを伴うが、こればかりは仕方ない。

自分は自分以上に自分であることができない。

こうやって地道にふり返って繰り返し気付く体験を積み重ねていくことしかできない。

耳を傾けられていないなあと感じた場面は、様々だ。

休み時間、対話型鑑賞、作家の時間、その他の教科の授業などなど。

もちろん、対子どもだけにとどまらない。

最近、同僚の先生たちと話をする時間がぐんと増えたけれど、その中でも「きく」ことがまだまだ下手くそな自分がいる。

 

誰かの話を聞くと、その反応として、自分の考えを言うことが多い。

それ自体が完全に悪いことではないとは思うのだけれど、問題はそのバランス。

「1聞かれただけなのに、10返そうとする」だったり、「聞かれてもないのに、自分の考えをべらべらと話そうとする」だったり…。

「相手の興味関心への興味」<「自分の話」なんだろうな。

 

こういう態度の根底には、「自分の力で他者を変えたい」とか「自分の考えは正しい」みたいな、傲慢さがあるんだと思う。

そういう自分に気づくたびに、嫌になる。

もちろん、そんなあからさまには思わないにしても、「誰かに聞かれたから、自分が何か答えらしきものを与えてあげなきゃ」といった感覚があるのは事実。

頭ではわかっていても、なかなかこの呪縛から抜け出せない自分がいる。

何かしらのヒントや答えは、聞いてきた相手の外側、つまり自分の側にあると認識しているから、そういう態度として現れるのだろう。

だから、本当の意味で相手の内側をていねいに見ようとしていない。

心の底からそう思って行動していないことは、きっとどこかで表情や仕草なんかに出ているだろう。

 

そんなわけで、最近少しコーチングについて学んでいる。

まだまだ何かわかったり、できるようになったわけではない。

けれども、ちょっとずつ、「聴く」ことに向き合っていきたいなあと思う。

 

まずは、身近なところから。

最近、会話量が間違いなく増えている同僚の先生たちの話を「聴く」ことに徹底的にチャレンジしてみようと思います。

その中での気付きをまたどこかでまとめられたらいいなあと思っています。

情報ギャップ 232

昨日の昼食での会話。

A先生

「漢字の『番』って、訓読みでなんて読むんでしたっけ?」

ぼく

「『つがい』じゃなかたですっけ?『ちょうつがい』とかの。」

A先生

「あ、そっか!『つがい』って夫婦って意味ですよね?」

ぼく

「うん…多分。」

 

ぼくは、この時点で、「番」の持つ「つがい」という読みの意味に好奇心を抱いた。

A先生との会話の中で、「つがい」の意味をはっきりと説明しきれない自分に出会い、それが引き金となったのだ。

次の瞬間には、スマホの辞書で「つがい」の意味を調べていた。

なんとなく心の中に生じた好奇心もモヤモヤが少しずつ大きくなり、いてもたってもいられなくなったからだ。

 

会話は、「番」の字から続いていく。

 

B先生

「『番茶』の『ばん』って、その『ばん』でしたっけ?」

A先生

「そうそう。そういえば、番茶ってどういう意味?」

B先生

「え、そう言われてみれば。緑茶ってことじゃないんですか?」

A先生

「そうなん?知らんかった。」

B先生

「いや、私もはっきりとわかってるわけではないんですけど。」

 

ぼくは、この時点で「番茶」の意味に好奇心を抱いた。

次の瞬間には、スマホの辞書を立ち上げて、「番茶」について調べていた。

A先生とB先生の会話を聞く中で、自分自身の「番茶」についての理解も曖昧であることを認識したことが引き金となっていた。

「知らない」が「知りたい」を誘発し、「調べる」という行動に結びついたのだ。

 

この後、会話はなぜその流れになったかは別として、ヤマザキなんかが発売している蒸しパン「マーラーカオ」の話になった。(みなさん、知ってますか?)

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他の先生たちが「マーラーカオ」を知らなくて、ぼく一人だけ、その事態が信じられなくて、ものすごくびっくりした。

それはさておき、ぼくに関して言えば、「マーラーカオ」は、小さい頃から我が家ではおなじみのパンであり、当然よく知っている。

なので、「マーラーカオ」に関して、特にこの時点で好奇心はなかった。

でも、自分は知っているのに、周りの先生は知らないという状況が、その場に対話を生むきっかけになっていた。

他の先生たちから質問が飛ぶ。

マーラーカオって何ですか?蒸しパン?他の蒸しパンとどこが違うんですか?」

「普通の蒸しパンと材料違うんですか?」

「なんでマーラーカオっていう名前なんですか?」

で、そんな先生たちよりはるかにマーラーカオとの付き合いが長いはずのぼく。

が、その質問に答えられない。

今までそんなこと考えたこともなかったから。

対話の中で、マーラーカオについて自分が実はあまり知っていなかったという認識を得た。

「知らない」→「知りたい」→「調べる」

で、調べたことをもとに、対話を重ねる。

そんなことが昼ご飯のときに、およそ1時間ほど繰り広げられた。(ヒマか。)

 

で、何が言いたいかと言うと、好奇心って情報ギャップからスタートすることが多いなあってこと。

なんでこんなことに気づいたかというと、今読んでる本の中に、「情報ギャップが好奇心を生む」って部分があって、なんかそこが引っかかったから。

 

で、そこから、自分の授業を考えてみた。

「子どもたちが主体的に学ぶ」ってことは、もう耳にタコができるほど聞いた言葉。

先生たちとの対話の中でも、「どうすれば子どもたちが主体的に学ぶ授業ができるんだろう?」ということはよく話題に上がる。

でも、だ。

そもそも思考で考えてみた時。

ぼくを含めて、「子どもの主体性」を出発点に考えようとしすぎていないか?と思った。

その主体性のもとになる好奇心はどうすれば生まれるのか。

本来的に持っている部分はもちろんあるんだろうけれど、それを刺激したり、膨らませたりする「情報ギャップ」への意識が自分自身薄かったなあと思う。

「興味関心」という言葉でくくってしまって、思考停止になっていた部分があった。

そうじゃなくて、「興味関心がなぜ生まれるのか」というプロセス部分にもっと目を向けて、そこを紐解いていくことで、もっと授業に生かせる部分があるんじゃないか。

ここから考えると、子どもたちの興味関心を出発点に…の前に、そもそもその「興味関心」を生み出すために、いかに、子どもたちの情報ギャップを生み出すか、それも難しすぎず、簡単すぎず。

子どもたちにとってちょうどいい「知らない」をいかにデザインし、「知りたい」につなげるか。

自分には、欠けていた視点だなあと昨日の対話と、読書の一部からそんなことを思った。

だから、日々、目の前の子どもたちを見取ることがここでも生きていくのだ。

だからふり返ることは何重にも意味を成してくるのだ。

 

こうやって、ふり返りから離れてみることで、気付けることも案外あるのかもしれない。

新しいことを始めるには、まず「終わらせる」ことが大事。

それも今読んでいる本の中に書いてあった。

また、読み終えたら、読書記録をつけよう。

 

 

36冊目「流動型『学び合い』の授業づくり」 231

今年度36冊目の読了はこちら。

 

 発売前から、読もうと思っていた一冊。

先日、一部だけだがオンライン学習会で読書会をした。

そのまま、続きを一人で読み進め、今しがた読了。

 

易しい言葉で、わかりやすく、すいすい読めた。

『学び合い』の授業が、一時間から複数時間、単元、教科横断型…と、

なぜそんな風に進化していったのかが、クラスのエピソードと合わせて書かれていた。

もちろん、それらの実践をどう進めていくのか、

いわゆる「HOW TO」の部分もとても勉強になったのだけれど、

ぼくが刺さったのは、そこではなくて、やっぱり「在り方」に関わるところ。

今年度が始まって、夏ごろから特に、ずっと自分の中にあるキーワード。

そこに触れる部分がやはりひっかかる。

今の自分は、きっとそういう部分をなんとかしたい、しなければ、

というモードなんだと思う。

 

①「一人も見捨てない」

『学び合い』を知ってから、この言葉は何度も目に、耳にしてきた。

でも、言葉に共感することと、それをわかって、日々実践することとの間には、

ものすごく大きな壁があると思っている。

言葉を知って、分かった気になるのは本当に簡単だ。

そして、その言葉の定義や輪郭があいまいなことにも気づかないで、

「自分もそう思ってやっているし、様々な工夫や努力をしてる。」

そう自分に言い聞かせて、思考停止してしまっていないか。

僕自身、著者の「一人も見捨てない」という覚悟に触れた時、ドキッとした。

その、「ドキッ」は、きっと自分の浅はかな部分に自分自身、罪悪感を感じている部分があるからだと思う。

日々の実践の中で、「努力」という言葉で簡単に片づけて、

見ようとしてこなかった子どもたちの姿があるんじゃないのか。

何となくどこかでわかってはいるけど、

無意識に見えないものとして片付けてしまっているもの。

もちろん、人間だから、そういう弱さは誰だってある。

だからこそ、そういう部分もふり返って、向き合っていかなければいけない。

 

②「見ようとするようにしか見えない」

人は、だれでも自分が「見たいように見る」生き物だ。

その時の自分という人間のフィルターを通してしか、世界を見ることはできない。

何のフィルターも通さずに、世界を見ることができる人など、

きっとこの世に存在しない。

だからこそ、自分がどんなフィルターを通して、世界を見ているのかに、

できるだけ自覚的でなければいけないと思う。

ここを忘れてしまうと、目の前の子どもたちの姿を、

自分の実践に都合がいいようにとらえてしまう可能性がある。

誰しも、自分の実践に効果があると思いたい側面がある。

その側面によるフィルターに自覚的でないと、

子どもたちの本当の姿は見えない。

 

③結果としての流動型『学び合い』

高橋先生は、1時間での『学び合い』を実践しているときから、

この本でいう現在の最終形「流動型『学び合い』」の姿を

思い描いていたわけではない。

ひたすらに、目の前の子どもたちと向き合い、

実践研究を積み重ね、自分をアップデートし続けた結果、

この「流動型『学び合い』」にたどり着いた。

 

これ、今書きながら、全然ジャンルの違う日食なつこの

一昨年の「sing wellツアー」のことを思い出している。

あのツアーでの彼女は、変化させたくない大切なことを

ブレずに自分の軸にしていくために、

変わることを恐れない、ように僕には見えた。

そんな彼女の姿と、高橋先生の歩んできた道のりが自分の中で重なった。

「変えないために、変わる」

これって、すごく大切なことなんじゃないだろうか。

「変わるからこそ、変わらないでいられる」とも言える。

 

目の前の子どもたちの姿をひたすらに見つめ続けてきて、

流動型『学び合い』にたどり着いた。

だから、この行程を同じようになぞったとしても、

高橋先生のようにはきっといかないと思う。

ぼくは、高橋先生ではないし、

クラスの子どもたちも高橋先生のクラスの子とは違う。

やっぱりきれいな道筋なんてなくて、

行き止まりだったり、回り道だったり、

そんなものを数えきれないくらい経験して、

悩んで、迷って、焦って、絶望して、振出しに戻って、

そんなことを経て、それぞれに、

それぞれの実践を作っていくしかないんだろうなあと思う。

それは、絶望でもあり、希望でもある。

 

本の構成上、一時間→複数時間→単元→教科横断→流動型と、

一方向に進んでいっているように読んでしまうけれど、

きっと行ったり来たり、飛んだり戻ったり、

そういうことが無数にあったんだろうなあと思う。

本書の最後に、「問い作り」の授業が出てきたのも、面白かった。

終わりはない。

目の前の子どもたちは日々変わるし、

日々変わるものに、「絶対解」なんてない。

それが面白さだし、難しさだ。

 

40歳まで、あと4年。

自分が40歳になった時に、振り返ったらどんな道ができているのか。

子どもたちの姿から、考え続け、実践を重ねていける自分でありたい。