きく。 233
今回の休校措置で予定していなかった時間が生み出された。
通知表や要録などの事務作業も、毎日やるところを計画的に決めて、コツコツ進めた結果、ほぼ終わった。
他にもやることはまだまだあるが、それでも時間に余裕がある。
ウイルス感染の対応や対策に追われている各所を思うと心苦しくもあるが、この生み出された時間を有効活用して学んでいくことで、それを子どもたちに還していけるようにしたい。
そんなことを思いながら、気付けば頭の中で今年度のふり返りをしている自分がいる。
この3学期の初めから書いてきたふり返りを見返したりもしている。
そんな中で、意識の上に引っ掛かって浮上してきたキーワードがある。
それが、タイトルの通り。
「きく」ということ。
日々の実践をふり返ってみると、本当に子どもたちの声に耳を傾けられていない自分の姿があぶり出される。
それは、ふり返りを書いている時ですら気づけないでいたことだったりするから、何とも痛みを伴うが、こればかりは仕方ない。
自分は自分以上に自分であることができない。
こうやって地道にふり返って繰り返し気付く体験を積み重ねていくことしかできない。
耳を傾けられていないなあと感じた場面は、様々だ。
休み時間、対話型鑑賞、作家の時間、その他の教科の授業などなど。
もちろん、対子どもだけにとどまらない。
最近、同僚の先生たちと話をする時間がぐんと増えたけれど、その中でも「きく」ことがまだまだ下手くそな自分がいる。
誰かの話を聞くと、その反応として、自分の考えを言うことが多い。
それ自体が完全に悪いことではないとは思うのだけれど、問題はそのバランス。
「1聞かれただけなのに、10返そうとする」だったり、「聞かれてもないのに、自分の考えをべらべらと話そうとする」だったり…。
「相手の興味関心への興味」<「自分の話」なんだろうな。
こういう態度の根底には、「自分の力で他者を変えたい」とか「自分の考えは正しい」みたいな、傲慢さがあるんだと思う。
そういう自分に気づくたびに、嫌になる。
もちろん、そんなあからさまには思わないにしても、「誰かに聞かれたから、自分が何か答えらしきものを与えてあげなきゃ」といった感覚があるのは事実。
頭ではわかっていても、なかなかこの呪縛から抜け出せない自分がいる。
何かしらのヒントや答えは、聞いてきた相手の外側、つまり自分の側にあると認識しているから、そういう態度として現れるのだろう。
だから、本当の意味で相手の内側をていねいに見ようとしていない。
心の底からそう思って行動していないことは、きっとどこかで表情や仕草なんかに出ているだろう。
そんなわけで、最近少しコーチングについて学んでいる。
まだまだ何かわかったり、できるようになったわけではない。
けれども、ちょっとずつ、「聴く」ことに向き合っていきたいなあと思う。
まずは、身近なところから。
最近、会話量が間違いなく増えている同僚の先生たちの話を「聴く」ことに徹底的にチャレンジしてみようと思います。
その中での気付きをまたどこかでまとめられたらいいなあと思っています。