小学校教員にょんの日々ログ

毎日の出来事や考え、思ったことなどとにかくアウトプット!

何もない。 230

今、今日一日でやることの全て終えて、あとは寝るだけの状況でパソコンを開いている。

何について書こうか、全く思い浮かんでいない。

いつからだろう。

前は、あんなに書くことがあふれていたのに。

最近は、いつの間にか、優先順位がどんどん下がっていって、

今じゃあ、最下位だ。

でも、このブログを書くことで、気付けたことや残せた気持ち、救われた気持ち、忘れたくないことが確かにあって、

それらが頭の中の記憶の泉の底に沈んでしまう前に、

書き残せたことは自分にとって価値のあることだった。

だった?

過去形?

でも、こうして、何も書くことがないのに、思い浮かんだことを、

まさに徒然なるままに書いている。

先日久々の更新をしたばかりだが、

その一つ前はと言うと、1月13日。

その頃、自分に起きた変化と言えば、日々のふり返りを始めたことか。

毎日毎日、1時間目から6時間目までのことを、

放課後、パソコンで打ってふり返った。

ふり返ることで、気づけることがいろいろあった。

今まで立ち止まらずに流れていってしまっていたことの中に、

大切なことを見つけていくような作業だった。

日々の膨大な出来事の記憶の中から、ていねいに自分の言動や気持ち、

子どもたちの言動やその裏にあったであろう気持ちや願いなんかを

掬い取ろうと夢中になった。

その頃か。

このブログの更新が滞り始めたのは。

ふり返りというアウトプットに力を注いだ結果、

ブログでさらにアウトプットするという余力が残っていなかったのか。

じゃあ、今書くことが思い浮かばないのに、

なぜまたブログの記事を書く画面を開いて、そこに向き合っているのだろう。

なんとなく、書きながらわかってきているのかもしれない。

そんな感覚がある。

なぜ、またブログに向き合っているのか。

2月28日を一旦の区切りとして、勤務校も休校措置に入った。

先週から子どもたちは学校にいない。

けれど、ふり返りは毎日変わらずに書き続けている。

子どもたちがいないから、自分の日々の仕事内容や、

その時どんなことを考えていたのかなどを書いている。

けれど、正直、子どもたちが来ない日々のふり返りには、

気持ちが入らない。

ふり返りを始めた目的が「子どもたちとの日々をふり返ることで、子どもたちと向き合う自分を改善していき、子どもたちの姿をより良く見つめようとする中で、それを指導に生かす」ことだった。

だから、子どもがいない今の日々のふり返りが、

宙ぶらりんになっているのかもしれない。

宙ぶらりんになっているふり返りでは、アウトプットをしたという実感が得られにくい。

その結果、アウトプットをしようという自分の中の衝動が、

うまく消化できずに、どこかで「何とかうまくアウトプットしたい」という欲求が大きくなっていく。

その衝動の帰結として、今パソコンに向かい合って、

書くことも決めずにひたすらに瞬発的に思いついたことを書いているんじゃないのだろうか。

書いていて、そんな気がしてきた。

そんな気がしてきたなら、どうする?

やってみればいい。

子どもたちが来ない日々のふり返りをただただ作業的にこなすだけなら、

いっそ思い切って、子どもたちが来ないしばらくの日々は、

思いっきり自分に振り切って、ブログ更新に力を注ごう。

うん、それがいい!

そして、子どもたちとの日々が戻ってきたら、

またその日々を書き綴っていこう。

それまで、しばらくは充電期間だ。

なんならこの期間に、自分をアップデートさせていこう。

積極的に、失敗を恐れずに!

「書く」と決めてしまえば、書くネタを意識して日々を生活していくことは、

自分の癖として、自分が一番よくわかっている。

学級通信なんて、その最たるものだ。

 

というわけで、たった今決めた。

今日から、ブログしばらく毎日更新しよう!

どんなことでも構わない。

この子どもたちがいない日々を自分がどんなことに心を動かされて、

何を感じて生きていくのかを記録しておこう。

自分の手で。

想像力の筋トレ。 229

ぼちぼち、また書き始めます。

教育現場では、「他者への想像力」ということがしばしば言われたりします。

ぼく自身、この言葉を使って子どもたちに話をしたこともあります。

「他者への想像力」がないばかりに、

思慮に欠けた言動で誰かを傷つけてしまうことがあるからです。

もちろん、子どもたちに限った話ではありません。

ぼくだって、他者への想像力の欠如で、

どこかの知らない誰かや知っている誰かを傷つけている可能性があります。

 

…そんなことを考えながら、いつものようにバイク通勤で職場へ向かっていました。

前方の信号が赤から青へ変わりました。

バイクのアクセルをひねり、スピードを上げていきます…

と思ったら、一台前を走るおばちゃんのバイクが異常に低速。

ぼくは、想定を超える遅さに、ひねったアクセルをゆるめ、

同時にブレーキをにぎって、スピードを落としました。

 

おばちゃんのバイクは一向にスピードが上がりません。

 

「おいおい…何やってんねん、おばちゃん…。なんでそんなとろとろ…」

 

 

はい、ストップ!!

 

 

ストップです。

一旦、落ち着きましょう。

 

危ない危ない。

ゆうてるそばから、他者への想像力が欠如するところでした。

ここでイライラしては、そのイライラから視野狭窄に陥り、

いつ何時事故を起こすか分かりません。

冷静に。

他者への想像力を。

 

こういうときは、「そもそも思考」です。

「おばちゃんが異常に低速でバイクを運転している」という事象を、

「そもそも思考」から見直してみましょう。

 

「そもそもおばちゃんが異常に低速でバイクを運転しているのはなぜ?」

 

はい、「問い」ができました。

「問い」があると、考えたくなるのが人の性。

考えることで、様々な推測が生まれ、

そのことによって、冷静さを取り戻すことができます。

 

まずは、観察です。

ぼくはバイクを運転しながら、おばちゃんを観察しました。(前を見ろ)

すると、あることに気づきました。

なんと、おばちゃんは手袋をしていなかったのです。

その気づきによって、ぼくの頭の中に一つの仮説が生まれました。

 

「おばちゃんは、手袋をしてなくて、スピードを上げると、寒すぎて手がかじかむから、スピードが上げられないのではないか。」

 

そうか、Don'tじゃなくて、Can'tなのか!

 

そう思うと、不思議なもので、私の心の中に、おばちゃんをいたわる気持ちが芽生えてきました。

 

でも、次の瞬間、我に返ります。

 

「ほな、手袋してきぃや。」

 

なるほど、おっしゃる通りです。

そう思うと、またイライラがふつふつと湧き上がってきました。

 

「天気予報見たら、今朝の気温ぐらいわかるやろ。ってか、玄関出た時点で、気温感じて、手袋つけ…」

 

 

はい、ストップです!!

 

またひっかかりかけましたね、他者への想像力欠如の罠に。

落ち着いてよく考えましょう。

「そもそも思考」です。

 

「そもそもおばちゃんは、この寒い中、なぜ手袋をせずにバイクを運転しているのだろうか?」

 

少しして、またもや私の中に一つの仮説が浮かび上がります。

 

「ひょっとして、家出た時は手袋してたんじゃないだろうか。けれど、ここまで運転してくる途中に、寒さに凍えて独りで泣きじゃくっている子どもを見つけて、その子に自分の手袋をあげたんじゃないだろうか。」

 

不思議です。

そう思った途端、先ほどぼくの中に湧き上がってきたおばちゃんへの温かい気持ちが戻ってきました。

 

そっか、そっか、そういうことやったんや。

おばちゃん、最高やな。

想像の中で、ぼくとおばちゃんはハイタッチを交わして、肩を組んでいました。

 

…と我に返った時、ぼくとおばちゃんのバイクは、信号のない交差点に差し掛かっていました。

 

次の瞬間、私はびっくりして、思わずブレーキをかけそうになりました。

 

おばちゃんがウインカーを出さずに、急に右折をしたからです。

 

「何やってんねん。危ないなあ!あんなもん、ウインカー出さんと曲が…」

 

はい、ストップで…いや、ストップちゃうわ!!

 

それは、おばちゃんが悪い。

Educators Seeking vol.4③ 228

エデュシークまとめ、第三弾。

今回は、最後の登壇者、若松さんのお話について。

やっぱり今回も思ったことをそのまま、加工せずに書いていこうと思います。

 

若松さんの話を直接お聞きするのは、これが初めて。

著書は2冊とも読みました。

 

「深い学び」を支える学級はコーチングでつくる

「深い学び」を支える学級はコーチングでつくる

 

 

 

対話を生み出す 授業ファシリテート入門 〜話し合いで深い学びを実現〜

対話を生み出す 授業ファシリテート入門 〜話し合いで深い学びを実現〜

  • 作者:片山 紀子,若松 俊介
  • 出版社/メーカー: ジダイ社
  • 発売日: 2019/09/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

若松さんが、「子どもの姿から考える授業づくりとは?」のテーマで話す中で、キーワードとして出てきたのが、「問い」でした。

序盤、「子どもたちから様々な問いが出てきたとき、みなさんならどこまで扱いますか?」と問いを投げかけられた。

詰まった。

 

できるだけ子どもたちの「問い」を取り上げて、授業に生かしていきたい。

でも、全て取り上げていくと、いくら時間があっても足りないのではないか。

そもそも、「その問いはさすがに作品と関係ないのではないか」という問いが出たら、どうするのか。

その問いに関しては、扱わないのか。

それは、子どもから出た「問い」を大切にすることに反するのではないのか。

いや、そもそも、「子どもたちの問いを大切に」って考えてるけれど、「大切にする」っていったいどういうこと?

 

そんなことが頭の中に浮かんだ。

そして、その後の若松さんの言葉でさらに考えた。

 

子どもたちの「問い」をまず受け止めること、そして、子どもたちと共に学習を進めていくことが大切なのではないかなと思っています。

 

「大切にする」と「受け止める」の違いは?同じ?

そもそも、「どう扱うか」って自分一人で考えてる時点で、自分がコントロールしようとしてしまっているのではないか。

「教える」「教えられる」ではない、同じ方向を向いて共に学ぶ大人(共同探求者といえるのかもしれない)であれるかが大事なんだろうけれど、そのスタンスを本当に心の底から信じ、身体化するまでが難しいなあ。

などなど…。

 

若松さんのお話自体が、たくさんの「問い」を孕んでいて、気付くと、話を聞きながら自己内対話を猛烈にしている自分がいた。

そう、きっとこれって、若松学級の子どもたちが日々体験している学びなのではないだろうか。

そんなことを思った。

一方的に、若松さんが話すだけではなく、適宜グループでの交流で、さらに自分の思考が刺激される。

そのグループ交流の取り方も、全体を見ていて、その雰囲気などから瞬時に判断したりしてるんだろうなあ。

自己内対話をして思考している時に黙ってしまうよなあって自分に気づいたり。

それって、じゃあ、クラスの中で子どもたちが問いに対して黙ってしまっている場合、自分はきちんとその時の子どもたちの内面まで見取ろうとしてきたのだろうか。

黙ってる=困ってる→次の手を何か打たなければ!みたいに安易に考えていたんじゃないか。

そうすることで、実は、じっくり思考していた子どもたちの時間をぶつ切りにして、先に進めようとする自分の都合ばかり優先させてしまっていたのではないか。

その時点で、授業の目的は「子どもたちの学びの場」ではなく、「自分がその授業を時間内に計画していたところまで終わらせること」になっているだけじゃないか。

わかっているつもりでも、そうやって陥ってしまうのは、日々のふり返りができていなかったり、子どもたちのふり返りや問いを、個々で浅く見るにとどまって、それぞれの関係性を考えて次につなげるような工夫まで至っていないからじゃないか。

 

いきなり大それたことなんてできるわけがないし、そんなものは目指すものではないと思う。

結果としてふり返った時に「ずいぶん遠くまできたなあ」って思える積み重ねた上での結果でしかない。

ビジョンは大事だけれど、そのビジョンを立てたことにかまけたり、ビジョンまでの現在地を見誤って、子どもたちの姿を見ていないと、いつまでたっても、若松さんの言う「子どもたちの問いを受け止める」や「子どもたちと共に学習を進めていく」には、たどり着けないだろうなあと思う。

1.01でも、それを続けて、365乗すれば、一年後には大きな成長になっているだろうし、目の前の子どもたちの姿を何となく見えた気になって日々を過ごしてたら、0.99の365乗でゆるやかに下降していくんだろう、みたいな。

 

数えきれないぐらいの「管理」と「任せすぎ」の狭間で、うまくいかない痛みと向き合い続けたからこそのこの日の話なんだろう。

 

子どもたちの持つ「問い」の背景には、その子のものの見方や考え方が働いている。

その考え方に正解・不正解はない。

だからこそ、子どもたち同士の問いをつないでいくことで、一人一人が世界の見方や、自分の考えを深めていくことができる。

「問い」のつなぎ方にも正解なんてきっとない。

練りに練ってもうまくいかないことなんてきっと山ほどある。

でも、その事実から目を背けず、向き合って次のチャレンジへ一歩踏み出していくことをどれだけ、愚直に繰り返し、積み重ねていけるか。

 

 

圧倒的な量が質を生む。

Educators Seeking vol.4② 227

エデュシークまとめ、前回の続きです。

今回は、二人目の登壇者 葛原さんのお話について。

また、うまくまとめようとか全然無視して、考えたことダダ漏れで書いていこうと思います。

 

葛原さんといえば、「けテぶれ」でよく知られています。

「けテぶれ」が何なのかについては、本を読んでください。

 

 

「けテぶれ」宿題革命!

「けテぶれ」宿題革命!

 

 

今回は、このけテぶれの話ではなく、そのほかにも色々と編み出されている「NKS思考法」や「心マトリクス」などの考え方が、けテぶれなどとどう作用しあっているのかという全体の構造のお話中心でした。

 

葛原さん自身が、「今まで言語化を避けてきた部分をあえて掘り下げた」と話していた通り、その話は何とも壮大で、そりゃあ40分の持ち時間じゃあ足りないはずだ、と完全同意でした。

 

でも、その後半になるにつれ、(いや、割と最初からだったかもしれません)どんどん熱を帯びていく葛原さんの話に、私も一緒に熱く…とはならず、どっちかというと、逆に冷静に冷静になっていく自分を感じていました。

それは、決して「冷めた」という意味ではなく、頭が「冴えていく」というニュアンスです。

話の内容はもちろん素晴らしかったのですが、それは、他にも色んな人が書いておられて絶対そっちの方が分かりやすいので、端折ります。

それよりも、私的には、熱を帯びていく葛原さん自身を俯瞰して見ているような自分について意識的にふり返ってみようと思います。

話が進むほど、客観的に葛原さんを見つめる自分がいたなと改めて数日たった今、思います。

プロゴルファーのタイガーウッズが、極限の集中状態に入ったら、まわりの観客や雑音が消えて、自分とカップしか見えない・聞こえない「ゾーン状態」に入るという話を聞いたことがあります。

それと同じでは到底ありえませんが、あの時の感覚を説明するのにもっとも近いのが、それなのかなと思っています。

じゃあ、何が自分をそうさせるのか。

それは、間違いなく「子どもたち」に向き合う葛原さんの教師としての姿を目の前で見たからという他にないのかなと思います。

「子どもたちの姿」という具体を見つめ続け、そこからフレームワーク(けテぶれ・NKS・心マトリクスなど)へと抽象化し、極限までブラッシュアップして、それを子どもたちに還元し、そこに大量の具体を落とし込んでいく。

具体と抽象のサイクルを無限に回していく、その思考に至るまでの「探究力」と、目指すべき子どもたちの姿への「妥協のなさ」。

そうした姿勢に、感覚が研ぎ澄まされていったような時間でした。

 

「わからないものをわからないままわかろうとする」とっくんに対して、

世界の見方を子どもたちが使えるレベルまでシンプルかつ汎用性の高いものにし、それをもって「わからないものをわかりやすくわかることができるようにする」葛原さん。

 

一見、二人は相反するような考えに最初は聞こえたのですが、自分の中で反芻していくうちに、二人が大事にしていることが同じであることに思い至りました。

 

「世界」は「言葉」で「わける」ことで「わかる」ようになる。

だから子どもたちが自分で言語化して、現在地を確かめられるように、心マトリクスが作られた。 

X軸とY軸で表される4象限のどこに自分が位置して、どこを目指すべきなのか。

これも「子どもたちの姿」を「見る」ことにつながります。

というか、「見る」ことの精度が、間違いなく教師も子どもたち自身も上がるだろうと思います。

でも、4象限のどこにも振り切らない無数の点も確かに存在します。

その点の一つ一つがきっと目の前の子どもたちなんだろうと思います。

ミリ単位の誤差もなく、自分の現在地をそこからはじき出すことができる人間は、大人でもそういないと思います。

だから、「わからないことをわからないままわかろうとする」ことも必要になってくる、私はそう感じました。

とっくんと葛原さんは、真逆ではなく、それぞれが互いを補完し合うような考え方なのではないか。

 

一つ言えるのは、二人とも目の前の子どもの姿を徹底的に「見る」ことから目を背けていないという事。

「見ようとして見えない」事実からも目を背けていないという事。

その姿に同じ教師として、言葉以上のものを受け取った、そんな時間でした。

 

あくまで私の解釈だし、全然違うかもしれないけれど、それはそれ。

私にとっては受け取ったものが本物。

それが全て。

 

また一つ、自身の在り方をアップデートするきっかけをもらい、胸が熱くなりました。

 

 

と、このあたりで今日はお開きにします。

前回以上に、ぐちゃぐちゃで意味不明ですね、すいません。

でも、受け取ったものの手ごたえが、ここに確かにあるうちに、自分が感じたままを言語化できて良かったです。

 

さて、明日から、授業が本格的にスタートします。

「見る」「徹底」「振り返る」「面白がる」をキーワードにペース調整しながら頑張っていきます。

 

三人目の若松さんのお話のまとめは、また次回。

Educators Seeking Vol.4① 226

1月5日に参加した「Educators Seeking Vol.4」のことを忘れないうちに(忘れられるわけがないけれど)、記録しておこうと思います。

 

この日は、3人が登壇。

一人目がとっくん。

二人目が葛原さん。

三人目が若松さん。

 

テーマは「子どもの姿から考える授業づくりとは?」でした。

 

三人の話を聞く前から、いや、何なら会場にたどり着くまでの電車の中でも、自分の頭の中でこの問いがぐるぐると渦を巻いていました。

 

で、「これだ!」って答えは出ないまま、会場に到着。

今までオンラインでしか顔を合わせたことがない先生たちとたくさん「はじめまして」ができて、とてもうれしかったです。

やっぱりFace to Faceっていいなあって感じました。

会のテーマの一つに「越境」ってあったんですけど、オンラインとオフラインも、こうやって「越境」していけたらいいなあと思いました。

 

さてさて、本編。

トップバッターは、とっくん。

キーワードは「わからないものをわからないままにわかろうとする」でした。

これ、話してくれたとっくん本人も、「ようわかんないっすよね?」って言ってましたが、少なくともぼくには、すごく感じるものが、伝わるものがあって、このキーワードだけで、グッと話に引き込まれていました。

きっと、ここまで教員としての経験を積んできて、昨夏からの学びで、自身の教育観が揺さぶられ続けてきた今だからこそ、その言葉に反応したんだろうなあと思います。

とっくんの圧倒的な内省力に震えました。

最後に、「泥臭くやっていくしかない」って言葉がありましたが、本当にその通りだなと。

答えは、自分の世界の外側になんてなくて、自分と目の前の子どもたちから見つけていくしかないんだよなということを改めて強く感じました。

それこそ、絶対解ではない、自分の中での最適解を問い続けていくだけ。

それを、積み重ねて、積み重ねて、わずかずつでも進もうとする、そんなとっくんの姿に、自分のこれまでをふり返らざるを得ませんでした。

また、ふり返りを確実に「書く」ことで、圧倒的な量の「視える化」を実践していました。

これがあるからこそ、子どもの姿を見る「質」が上がっていくんだろうなあと思いました。

そして、そうした少しでもクリアに子どもの姿を見ようとすることこそが、この日のテーマである「子どもの姿から考える授業づくりとは?」の問いの一つの答えなんではないだろうか、そんなことを考えたのでした。

 

「子どもの姿を見る」

言葉にすると、たったこれだけだけれど、それを本気で徹底してやっているのか、「見る」とはどういうことなのか、そんな本質に迫るような話でした。

 

「そこにはそこの現実があるだけ」

とっくんの話の最後にあった言葉です。

 

「ぼくは、こうしてきました。で、あなたは、どうしますか?」

そう問われている気がしました。

 

ぼくはぼくなりに、もう一度、まっさらなところから始めるつもりで、日々のふり返りを積み重ね、まずは、子どもたちの姿を本当の意味で「見る」ことから始めようと思いました。

 

 

とりあえず、思いつくままに書きなぐりました。

葛原さんと若松さんのお話で感じたことや、お三方の話から感じたつながりなんかについてもぼちぼち書いていこうと思います。

 

まずは、ここでいったんお開きにして、明日の始業式に向けて、エネルギーを貯めようと思います。

 

あっち向いてホイ② 225

前回の記事の続き。

 

義兄の娘ちゃんたちとのあっち向いてホイは続きます。

「もう一回!!」をもう何回言えば飽きてくれるのか。

そんな祈りが届くはずもなく、無限にあっち向いてホイは続きます。

さすがに疲れてきて、「じゃあ、今から先に5回勝った方の優勝な!」と提案しました。

快くOKしてくれたので、初めて見えた希望の光に少しほっとして、順調に勝っていきました。

そして、5連勝。

「やったー!!お兄ちゃんの勝ちー!!おしまーい。」

 

「強いねー、お兄ちゃん!」と無邪気にほめてくれる娘ちゃんたち。

そんな姿を見ていると、わずかながら罪悪感が芽生えます。

「もうちょっと相手してあげてもよかったかもなあ。悪いことしたかなあ。」

変わらず無邪気に笑っている娘ちゃんたちを見ていて、そんなことを思いました。

まあ、でも、どっかで区切らんと、キリないし。

さてさて、家から持ってきた本でも読もうかな。

そう思って、カバンの中の本に手を伸ばしかけた時…。

 

「あっち向いてホイしよー!!」

 

ん…?

おかしいな、さっき確か私が5連勝したことで、勝負は幕を閉じたんじゃなかったっけ?

でも、娘ちゃんたちは何の曇りもない無邪気な笑顔で待っています。

 

笑顔に負けて、再びあっち向いてホイタイムに突入。

しかし、じゃんけんで絶対にチョキしか出さないお姉ちゃんと、パーしか出さない妹ちゃん。

そして、当然二人ともそんな自分の癖に気づいていません。

んー、これは苦しい。

勝ち続けるのも苦しいし、負け続ける演技をするのも先の見えない真っ暗闇です。

しばらく適当に対戦した後、提案しました。

 

「じゃあ、今からさっきと一緒で、5回先に勝った方が優勝な!」

 

「うん!わかった!」と無邪気に承諾する娘ちゃんたち。

そして、無慈悲に5連勝して、決着がつきました。

 

「やったー!またお兄ちゃんの勝ちー!!おしまーい!!」

 

すると、また…。

 

「お兄ちゃん強いねー!!何でそんなに強いの!?すごーい。」

と無邪気にほめてくれる娘ちゃんたち。

 

さて、今度こそ本でも読んでちょっと休憩しようかなー。

…と思ったら、

 

「あっち向いてホイしよー!!」

 

 

 

 

え、私って人生ループしてます?

 

 

 

 

子どもたちの同じ遊びくり返すパワーに圧倒されてしまいました。

いやー、世のお父さん・お母さんたちを心の底から尊敬しました。

あっち向いてホイ① 224

年明け2日まで、妻の実家がある広島に

帰省していた。

晦日には、義兄の家族も合流して、賑やかな年末年始になった。

 

元日の夕方。

義兄の奥さんから話しかけられた。

「ねえねえ、にょんくん。うちの娘たちとあっち向いてホイしてあげて。指差した方についつい向いちゃって、それが爆笑なんよ。」

そんなに言われちゃあ、やるしかない。

横で何となく「あっち向いてホイ」というキーワードを耳にしたのだろう。

こちらから誘うまでもなく、小学2年生のお姉ちゃんと幼稚園年長の妹が勝負を挑んできた。

「私とやって!」と譲らない2人を宥めすかし、まずは妹とすることにした。

 

さてさて、義兄の奥さんの言う、あっち向いてホイの弱さとはいかなるものなのか…。

 

2人「最初はグー!じゃんけん、ほい!」

妹「あっち向いてホイ!」

私(セーフ!)

2人「最初はグー!じゃんけん、ほい!」

妹「あっち向いてホイ!」

私(セーフ!)

2人「最初はグー!じゃんけん、ほい!」

妹「あっち向いてホイ!」

私(セーフ!)

 

…いや、俺そもそもじゃんけんどんだけ弱いねん!!

 

義兄の娘さんたちのあっち向いてホイの弱さを検証しようにも、そこまでたどり着かんやないか!!

義兄の奥さん、横で見てて、想定とは違うとこで爆笑。

「ちょっくら相手してやりますか。」くらいに思ってた俺、ダサ。

その後も、マジで5回ぐらい連続でじゃんけんに負けてしまった。

でも、その後のあっち向いてホイがワンパターン過ぎて、全く引っ掛からへんから、ひたすらじゃんけんに負けて、あっち向いてホイだけかわすっていう地獄みたいなゲームになってしまった。

千鳥のノブがあの場におったら、きっと

 

「それの何が楽しいんじゃ!!時間に限りがあるて知っとるんか!!」

 

とかゆうてたやろなあ。

 

この後、相手を変えて姉ちゃんもと対戦したけど、やっぱり俺、じゃんけんだけ異様に弱かった。

 

しかし、ここから後半戦。

いよいよ巻き返しが始まる。(遅いわ。)