Educators Seeking vol.4③ 228
エデュシークまとめ、第三弾。
今回は、最後の登壇者、若松さんのお話について。
やっぱり今回も思ったことをそのまま、加工せずに書いていこうと思います。
若松さんの話を直接お聞きするのは、これが初めて。
著書は2冊とも読みました。
若松さんが、「子どもの姿から考える授業づくりとは?」のテーマで話す中で、キーワードとして出てきたのが、「問い」でした。
序盤、「子どもたちから様々な問いが出てきたとき、みなさんならどこまで扱いますか?」と問いを投げかけられた。
詰まった。
できるだけ子どもたちの「問い」を取り上げて、授業に生かしていきたい。
でも、全て取り上げていくと、いくら時間があっても足りないのではないか。
そもそも、「その問いはさすがに作品と関係ないのではないか」という問いが出たら、どうするのか。
その問いに関しては、扱わないのか。
それは、子どもから出た「問い」を大切にすることに反するのではないのか。
いや、そもそも、「子どもたちの問いを大切に」って考えてるけれど、「大切にする」っていったいどういうこと?
そんなことが頭の中に浮かんだ。
そして、その後の若松さんの言葉でさらに考えた。
子どもたちの「問い」をまず受け止めること、そして、子どもたちと共に学習を進めていくことが大切なのではないかなと思っています。
「大切にする」と「受け止める」の違いは?同じ?
そもそも、「どう扱うか」って自分一人で考えてる時点で、自分がコントロールしようとしてしまっているのではないか。
「教える」「教えられる」ではない、同じ方向を向いて共に学ぶ大人(共同探求者といえるのかもしれない)であれるかが大事なんだろうけれど、そのスタンスを本当に心の底から信じ、身体化するまでが難しいなあ。
などなど…。
若松さんのお話自体が、たくさんの「問い」を孕んでいて、気付くと、話を聞きながら自己内対話を猛烈にしている自分がいた。
そう、きっとこれって、若松学級の子どもたちが日々体験している学びなのではないだろうか。
そんなことを思った。
一方的に、若松さんが話すだけではなく、適宜グループでの交流で、さらに自分の思考が刺激される。
そのグループ交流の取り方も、全体を見ていて、その雰囲気などから瞬時に判断したりしてるんだろうなあ。
自己内対話をして思考している時に黙ってしまうよなあって自分に気づいたり。
それって、じゃあ、クラスの中で子どもたちが問いに対して黙ってしまっている場合、自分はきちんとその時の子どもたちの内面まで見取ろうとしてきたのだろうか。
黙ってる=困ってる→次の手を何か打たなければ!みたいに安易に考えていたんじゃないか。
そうすることで、実は、じっくり思考していた子どもたちの時間をぶつ切りにして、先に進めようとする自分の都合ばかり優先させてしまっていたのではないか。
その時点で、授業の目的は「子どもたちの学びの場」ではなく、「自分がその授業を時間内に計画していたところまで終わらせること」になっているだけじゃないか。
わかっているつもりでも、そうやって陥ってしまうのは、日々のふり返りができていなかったり、子どもたちのふり返りや問いを、個々で浅く見るにとどまって、それぞれの関係性を考えて次につなげるような工夫まで至っていないからじゃないか。
いきなり大それたことなんてできるわけがないし、そんなものは目指すものではないと思う。
結果としてふり返った時に「ずいぶん遠くまできたなあ」って思える積み重ねた上での結果でしかない。
ビジョンは大事だけれど、そのビジョンを立てたことにかまけたり、ビジョンまでの現在地を見誤って、子どもたちの姿を見ていないと、いつまでたっても、若松さんの言う「子どもたちの問いを受け止める」や「子どもたちと共に学習を進めていく」には、たどり着けないだろうなあと思う。
1.01でも、それを続けて、365乗すれば、一年後には大きな成長になっているだろうし、目の前の子どもたちの姿を何となく見えた気になって日々を過ごしてたら、0.99の365乗でゆるやかに下降していくんだろう、みたいな。
数えきれないぐらいの「管理」と「任せすぎ」の狭間で、うまくいかない痛みと向き合い続けたからこそのこの日の話なんだろう。
子どもたちの持つ「問い」の背景には、その子のものの見方や考え方が働いている。
その考え方に正解・不正解はない。
だからこそ、子どもたち同士の問いをつないでいくことで、一人一人が世界の見方や、自分の考えを深めていくことができる。
「問い」のつなぎ方にも正解なんてきっとない。
練りに練ってもうまくいかないことなんてきっと山ほどある。
でも、その事実から目を背けず、向き合って次のチャレンジへ一歩踏み出していくことをどれだけ、愚直に繰り返し、積み重ねていけるか。
圧倒的な量が質を生む。

