32冊目「クラスが元気になる!『学び合い』スタートブック」 199
今年度32冊目の読了本はこちら。
『学び合い』については、その言葉自体は聞いたことがあった。
それに、読者登録しているブログの中にも、いくつか『学び合い』について書かれたものがあるので、空いた時間に目は通していた。
でも、『学び合い』が一体どういう授業で、なぜそのアプローチ方法がこんなにも支持されているのかについては知らなかった。
いや、知ろうとしていなかったのかもしれない。
でも、ある日、ある方とオンラインで話をしているときに、薦めてもらった。
「にょんさん、『学び合い』って聞いたことありますか?にょんさんの考え方とやったら、きっと合うと思うんですけどね。良かったら、僕持ってる『学び合い』の本、大量に送りますよ。」
とまで言ってくれた。
「いや、一回自分で本屋行って見繕って読んでみます。ありがとうございます。」
そうお礼を言って、やり取りを終了した。
そして、その週末、難波の旭屋書店へ行って、『学び合い』に関する書籍を探した。
何冊かあったのだが、その中で、「一番入門書的で最初に読むにはいいかもしれないよ。」とおススメしてもらっていたのが、今回の読了本だ。
迷わず、レジに持って行き、購入した。
帰ってすぐ読んでみて、まず最初に思ったのは、「似たようなことは何度もやったことがあるなあ。」ということだった。
でも、あくまで、それは「似たようなこと」であって、よく読めば、それがこの本でいう『学び合い』とは似て非なるものだということがわかった。
確かにクラスで、何らかの課題を出して子どもたち同士で考えさせたりしたことはあった。
けど、この本で言われているように「一人も見捨てない」という覚悟をベースにして、取り組んでいたかと言われれば、全く違う。
そこに、確固たる信念はなかった。
でも、この本を読むと、その確固たる信念というものが、とても重要であるということが分かった。
もちろんそれは、「誰一人見捨てない」ということだ。
最近、自分の授業の在り方、いや、今の公立小学校での授業の在り方に疑問を抱いていた。
その疑問は、どんどん膨らむばかりで、その中で、どういう授業をしていけば、子どもたちの力を伸ばすことができるのか、と悩んでいた。
その疑問とは、「同じ内容を、同じペースで、同じ方法で、みんな黒板の方を向いて行う」という古くから多くの日本の学校で当たり前とされてきた授業スタイルについてだ。
当然だが、一人一人学ぶスピードも、学ぶ方法も違う。
ある子は、一人で黙々と練習問題を解くのがいいかもしれないし、また、ある子は、グループで対話を重ねながら、問題の意味を理解し、少ない問題数を着実に解いていくのがいいかもしれない。
でも、今の学校のシステムは、そういった個別最適化に向いていない。
一般的に、講義形式の授業スタイルでは、学力が中位層の子どもたちにちょうどいいスピードになっているように感じる。
だから、すぐに理解できる子にしてみれば、簡単すぎてつまらないし、なかなか理解できない子からすれば、難しすぎて速すぎてついていけない、ということが起こる。
つまり、単純に考えて、このやり方だと、クラスの3分の2は、自分に合った内容を自分に合った方法で学習できていないということだ。
それってそのままでいいのだろうか。
それを教師側の工夫で、何とかできないのだろうか。
「あの子たちは仕方ないですよね。」なんて話して諦めてしまっていないだろうか。
また、個別最適化の問題以外にも、受け身な学び手を育てていることにも疑問だ。
口を開けていれば、身につけなければいけない力を誰かが運んできてくれる。
そんな風に、やたら受動的に学んでいる子どもたちは、いないだろうか。
いや、いる。
だから、「問い」を作れない。
自分で問いを作れないから、「問題」が運ばれてくるのを待っている。
確かに、その待っていてやってきた問題を解いていけば、ある程度の力はつくのかもしれない。
でも、その問題とやらは、誰かがあなただけのために作ったものではない。
「あなた自身」の問題ではない。
「あなた自身」の問題は、あなた自身が見つけるしかない。
『学び合い』の中では、一時間の課題が先生から出題される。
その中で、各自が自分のわからないところに向き合い、時に一人で、時に友だちの力を借りて、課題をクリアしていく。
でも、ここで大切なのが、課題は「全員が」クリアできて初めて、「クリア」になるということだ。
つまり、自分一人が課題を達成しても、それは本質的に課題を達成したことにはならない。
なぜなら、全員が課題を達成できていないからだ。
では、できた子はどうするか。
まだできていない子に教えるのだ。
そこに至るまでには、認知の段階的なプロセスがある。
まず「わかる」、そして「説明できる」、最後に「教えられる」となる。
最後の「教えられる」は、自分以外の他者に向けてする行為なので、難易度が最も高いと言える。
しかし、この行為を通して、すでに自分個人としては課題を終えていた子も、さらにその学習内容について理解を深めることができるのだ。
しかし、その価値は、初めは子どもたちになかなかわかってもらえない。
「なぜ、わざわざ教えに行かなければいけないの?」なんて子もいておかしくない。
だからこそ、本書で『学び合い』のキーポイントとして書かれている「教師の語り」が大事になってくるのだろう。
教師がそのプロセスの重要性を語りに寄って価値づけすることで、それも、一度ではなく、何度も折に触れて積み重ねることで、少しずつその価値がクラスに浸透していくのだろう。
これって、まるっきりクラスづくりじゃないか。
そう思った。
授業をしながら、クラスづくりをしているような、
クラスづくりをしながら、授業をしているような、表裏一体のアプローチに感じた。
そして、『学び合い』の授業では、立ち歩きが推奨されている。
自分が学びたい方法で、学べばいいからである。
究極、誰とどこで学んでもいいわけである。
だって、一人一人、学習スタイルは違って当然だから。
学習環境をデザインすることが、これからの教育においてますます重要になってくることを考えれば、必然と言えるかもしれない。
そんなこんなで、なるほど~とうなずきながら、読み進めていたら、すぐに読み終わってしまった。
だって、うすいんだもん!!ww
まあ、入門書的書籍だから、これぐらいでいいか。
というわけで、早速この『学び合い』、クラスで算数の授業に取り入れて実践を始めてみた。
やってみての現時点での感想だが、ものすごく教師の出方が難しい。
なんなら、自分で講義型授業やってる方が、よっぽど楽と言えるかもしれない。
『学び合い』では、子どもたち同士で、わからないところを教え合って、互いに学びを進めていく。
これって、その根っこには、「子どもたちは、本来的に自分たちで学ぶ力を持っている」という前提に立っていないと成り立たない。
だから、「信じて、認めて、任せる」、究極そこの一点突破だなあと思う。
そういう意味でけテぶれとも似ているところがあるなあと感じる。
そして、そうなってくると、どう教師として重要なのは、「いかに教えるか」ではなくて、「いかに在るか」という、自身の在り方だと気付いた。
だから、信念が必要なのだ。
信念は、在り方に直接的に影響を与える。
信念を持たずにやった語りは子どもたちに響かない。
その「在り方」をずっと考えている。
自分は教師として「どう在るべき」なのか。
この問いには、まだ答えられそうにない。
8月にみん職で受講したイエナプラン教育のリヒテルズさんの講座で感じたことと重なる。
授業ももちろんだが、その根っこにある「在り方」こそ、今後大きく問われる時代になっていくのではないか。
その在り方が明確であって初めて、さまざまなアプローチ方法が効果を発揮するのではないのか。
そんなことを考えさせられた一冊だった。
今後も、『学び合い』の学習を続け、自分の在り方を磨きながら、進めていこう思う。