小学校教員にょんの日々ログ

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制限の中で見つめる本質。 237

昨日、卒業式が行われ、6年生全員が参加し、笑顔で卒業していった。

2月末に突然言い渡された休校措置。

そのことで割り切れない思いもあったし、二転三転する指示に困惑したこともあった。

在校生は出席しない、来賓は一人、時間は60分程度、マスク着用・消毒液設置などの感染拡大防止策、座席の間隔をできるだけ開けるなどなど様々な対応の中で行われた式だった。

ここまで急に変更を余儀なくされ、ぎりぎりまでどうなるのか読めない部分が絶えずあった卒業式は、そうそうないだろう。

だから、「今年度限り」の対応もたくさんあるし、そう願いたいことはたくさんある。

来年度からは、また元通りの卒業式に戻るのかもしれない。

でも、だからこそ今年度感じたことがある。

きっと、今回のようなことになったからこそ、浮き彫りになったんだと思う。

 

上にも書いたように、今回卒業式を挙行するにあたって、いろいろな制限が設けられた。

それは、空間的なものから・時間的、心情的なものまで様々だ。

普段、「足し算」癖が多く、一旦増やすと、なかなかやめられない学校文化。

しかし、今回、種々の制限が加わらざるを得ない状況になって、その普段癖が薄まったと思う。

リソースが限られている中で、「卒業式」というものを考えた時、「いかに子どもたちを中心において実施できるか」というビジョンを全職員が共有できていたように思う。

だから、重ねてきた会議の場で、様々な意見が出て、時にぶつかりこそすれ、それら一つ一つの意見は、どれも共有したビジョンに根付いたものであり、職員間の対立を生むものにはならなかった。

ビジョンが共有されていることで、様々な意見をテーブルに出し、そこから、みんなで「最適解」を導こうという方向性が一貫していた。

それは、とても建設的で、一体感のある時間・空間だった。

時間・空間・心情が制限されることで、かえって、豊かな時間・空間・心情が生み出されていくという何とも不思議な逆転現象だった。

この感覚を「今年だけの、例外的なもの」と片付けてしまい、どうして式は成功したのかのふり返りを共有していかないと、また元に戻ってしまっては、あまりにもったいない。

今年のコロナウイルスに端を発する学校現場のドタバタは、ぼくたちがとても大事なことに気づくきっかけになっていると思う。

 

制限によって削られたものはたくさんある。

でも、それなのに、豊かな卒業式になったのはなぜなのか?

子どもたちが、練習期間ほぼゼロの中、立派に士気をやり遂げることができたのはなぜなのか?

もちろん、担任の先生方の努力と熱意、子どもたちの集中力があったことは言うまでもないが、それだけではないんじゃないのか。

 

まず、そのことにぼくたちが自覚的になることが大切だ。

そして、それを糧に、次年度からまた、目の前の子どもたちのことをしっかり見つめていけるといい。

そうやって教育をより良くしようとコツコツやっていけたら、みんながハッピーな学校現場になっていくんじゃないだろうか。

 

そんな可能性を感じた卒業式だった。