小学校教員にょんの日々ログ

毎日の出来事や考え、思ったことなどとにかくアウトプット!

コーチング講座その2。 196

9月8日に、みん職のオンライン講座「『自分たちで学ぶ力』を育てる!実践コーチング講座」を受講したので、そのふり返りをしようと思う。

今回のテーマとして挙げられていたのが、「職員室でのコーチング」。

んー、すごく大事だ。

しかし、難しい。

それは、なぜか。

先生たちそれぞれに、それぞれの主義・主張があるからだ。

時に、それがぶつかったり、折り合いがつけられなかったりする。

だから、難しい。

でも、だからこそ、目的の確認が重要である。

互いの考えを対話し、問いかけながら、目的を共有していく。

目的を共有するためには、相手と自分のニーズを明確に強し、合わせていく作業が必須だ。

そのために、相手に寄り添う質問力が必要になる。

問うことで、相手がどんな言葉を持っているのかを把握し、そこを足掛かりに互いのニーズのすり合わせをしていく。

「そもそもどんなことがしたいのか」

「どんな学校にしたいのか」

「どんな子どもに育てたいのか」

目的を共有することで、はじめて、「じゃあどんなことを追求していこうか」という話ができる。

けれど、現場でここのすり合わせがきちんとできていないことが本当に多い。

目的の共有が本当にきちんとできていないままで、様々なことが進んでいく。

何となく耳障りのいい言葉でまとめて、共有した気になる。

でも、そこで共有されている言葉一つ一つのイメージは本当に明確に共有されているのか。

大事なのは、一人一人が一つ一つの言葉に持っているイメージが同じかと言うことだ。

時間はかかるが、問い続けることが大切だと聞いて、本当にその通りだなと思った。

今からでも遅くないから、自分の職場でもていねいな対話を積み重ねていこうと思った。

そして、この対話をしていくときに、使える質問力として、「チャンクダウン」と「スライドアウト」の二つを教えてもらった。

チャンクダウンとは、具体化することであり、質問としては「具体的には?」と問うことで、行動を促進することができる。

スライドアウトは、視野を広げることであり、質問としては「他には?」と問うことで、新たな見方を増やすことができる。

イメージ的には、チャンクダウンが、深く掘り下げていく縦のイメージで、スライドアウトが広く多角的に物事を見ていこうとする横のイメージ。

この二つを組み合わせることで、深めたり、広げたりといったことが容易にできる。

様々なレイヤーのアイデアが出てくるのである。

とても便利である。

しかし、同時に、これを使いこなすには、今、対話がどの層のどのあたりについて進んでいるのか、現在地を把握する力が必要ではないか、と感じた。

現在地がきちんとわかっていないのに、むやみに「チャンクダウン」や「スライドアウト」を使ったところで、迷子になるだけだ。

だから、共有と、この「チャンクダウン」「スライドアウト」は、常に互いを行き来して、スパイラルに進んでいくものなのではないかと思った。

みんなで現在地をその都度共有しながら、チャンクダウン・スライドアウトを活用しながら、着地点を探して進んでいくのである。

そういう風に、対話を進めていければ、本質の共有ができていくのだろう。

 

最近、今まで以上に、本を買い漁って読んだり、このみん職のオンライン講座で学んだり、いろいろなところに出かけて学んだりすることに時間をかけている。

それ自体、すごく刺激があって、学びになっている実感があるし、見方や考え方が広がったり、深まったりしていることもたくさんある。

でも、忘れないようにしなければいけない。

どこまでいっても、それは目の前の子どもたちのためにあることを。

目の前の子どもたちの実態を出発点にしないといけないことを。

そして、その目の前の子どもたちの実態から始めるために、職場の同僚を大切にし、そこでの対話を大事にしなければいけないことを。

いくら学んでも、それが子どもたちへの最適なアウトプットとしての実践につながらなければ意味がないことを。

傲慢になるな。

謙虚でいろ。

誠実に進もう。

焦るな。

コーチングもとても便利で、汎用性が高く、有効な手法の一つであることは間違いない。

でも、あくまで手段。

どこまでいってもそれは手段に過ぎない。

だから、大事なのは「在り方」。

教師として、「どう在るか」。

その「在り方」に手段が乗った時、教育は成立するんだと思う。

コーチングの手法を通して、教師としての自分の在り方を考えた1時間だった。

31冊目「クジラアタマの王様」 195

今年度31冊目の読了本はこちら。

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「クジラアタマの王様/伊坂幸太郎

前作「シーソーモンスター」を読了する前から購入して積読していた本。

実は、9月頭には読み終わっていたのだけれど、ブログに書くのを忘れていた。

 

まず目につくのは、小説の中に、漫画が入っているということ。

なかなか新鮮。

小説→漫画→小説→漫画…って流れ。

そして、この漫画、一切セリフがないのだけれども、まあ、内容が全然わからない。

序盤の消化不良感が半端なかったです。

でも、それでも、我慢して読み進めることができたのは、これまで伊坂作品を読んで来てのある種の信頼感があったから。

きっとこの消化不良感は、物語後半で回収されるに違いない、という期待。

それもわかってて、ああいう思い切った仕掛けができてるのかなあ、と。

ほんと、伊坂さんって一体どこまで計算して書いてるんだろうって畏れすら抱きます。

 

…で、これがまた、見事に伏線回収されます、今作でも。

小説と漫画のリンクが見え始めると、不思議なもので、また読み返したくなってる自分がいるんですよね。

小説と漫画が互いに影響を与え合っている構造は、それそのまま物語の中の「夢」と「現実」の構造で、うまくできてるなあと思いました。

そして、いっつも伊坂さんの伏線回収で思うのが、「忘れた頃に絶妙にやってくる感」!!

なんか読者が、その登場人物なり、出来事なりを、読み進めていく中で、その存在が頭の隅から消えるか消えないかぐらいの絶妙のタイミングで伏線回収がされるのが、本当に見事だなあ、と。

それが今回は、文章とイラストの両方で感じられたので、新鮮、かつ、二度おいしいみたいな感覚になりました。

次回作が、もう今から待ち遠しい。

まさに、伊坂マジック。

「アド・アストラ」を観た。 194

昨日公開されたブラピ主演の映画「アド・アストラ」を観に行った。

思い立って今日観に行くと決めてチケットを取り、1時間後には映画館にいた。

「アド・アストラ」については、こちらを。


映画『アド・アストラ』予告編60秒 9月20日(金)公開

 

ロイ(ブラピ)は、常に冷静沈着な宇宙飛行士。

そして、彼の父クリフォード(トミーリージョーンズ)も宇宙飛行士。

しかし、父は、地球外生命体の探索へ出て、海王星で消息を絶つ。

そんな父が生きているという情報を得たロイは、父を探す旅に出る―。

 

ブラピ演じるロイは、物語の最初から感情がないように見える。

しかし、それは、宇宙飛行士としてその仕事に人生の全てを費やし、家庭を顧みなかった父への怒りを無理やり抑え込み続けた末に、ロイが生み出した生き方だったのだ。

そんな過去も影響して、ロイは対人関係が構築できない。

その事実を、自分が常に冷静沈着であることで、自分の人生は他人を必要としない、もともと必要ではないのだと思い込もうとしているようなところを感じた。

その防衛本能が生み出した生きるための鎧がロイの人生を無音にする。

何に対しても心を動かさない。いつもフラット。

そんなロイの生きざまをそのまま表現したかのような静けさが映画全体に漂っていた。

全てに執着がないが故の冷静さ。

それは、生きていく上で、諸刃の剣になる。

生への執着もないからだ。

綱渡りのような判断にも、迷いがない。

その迷いのなさは、しかし、とてもとても寂しいものだ。

 

ロイのそんな生き方を決定づけた父と言う存在。

その父の生存など微塵も考えてなかったロイにしてみれば、父生存の可能性はまさに寝耳に水であり、それでも、表情一つ変えず、父を探索する任務を受けることを即決するロイに、その鎧の分厚さを見た。

 

様々なアクシデントに見舞われながらも、一人父が消息を絶った海王星を目指すロイ。

道中、気の遠くなるような独りの時間を宇宙という閉鎖された空間で過ごす。

そんな時間の中で彼の頭に浮かぶのは、消息を絶った父や、別れた妻だった。

今まで、ふたをしてきた自分の原初の記憶、人生を決定づけた父と対峙することを余儀なくされる。

 

映画を見終わってから、ふとタイトルの意味が気になって調べた。

 

「アド・アストラ」…ラテン語の「per aspera ad astra」というローマの格言から取られたもの。意味は、「困難を克服して栄光を掴む」。

 

ロイの父にとっての栄光は、人類史上誰も成しえず、科学者がこぞって「存在しない」と言った地球外生命体を発見することだった。

ロイは、そんな父への怒りと憧れという相反する二つの気持ちから、父と同じ宇宙飛行士の道を選んだ。

そんな彼の「栄光」とは。

映画をふり返りながら、家に帰る道すがら考えていた。

 

ロイは、自分の人生を自分で生きていなかった。

だから生への執着がない。

そんな自分の生き方が正しいんだと常に自分に言い聞かせて、生きてきた。

だから、父との対峙は、ロイにとってできれば避けたいことだ。

父のようになりたくなくて、今の生き方を選んだからだ。

長い旅の果てに、ロイは父と再会を果たす。

しかし、再会した父が見ていたのは、目の前の息子ではなく、まだ見ぬ栄光だった。

目の前の身近なものを見ようとせず、あるかもわからない遠くを見つめる父。

そんな父と対峙して、ロイは自分が大切にすべきものに気づく。

 だから、父の人生も背負って、地球へと帰還しようとする。

この後悲劇が起きるのだが…(あんま言うとネタバレになる。もう結構ネタバレしてるけど…)

 

ロイにとって、「困難」は「父という存在」であり、ロイは、その困難を、対峙して克服し、「周りの人を大切にして自分の人生を生きる」という「栄光」をつかみ取ったのだ。

 

これは、一人の男の「再生」の物語だ。

3連休③。 193

あっという間の3連休最終日。

【9月16日】

この日は、以前勤めていた職場の元同僚の後輩からお誘いがあって、京都文化博物館で開催中の「ニッポン×ビジュツ展」という特別企画を鑑賞しに行った。

メンバーは、元同僚のYちゃんとKちゃんと、Nさん、そして私と奥さんの合計5人。

3時に京都文化博物館で待ち合わせをして、約二時間鑑賞を楽しんだ。

気兼ねなく、なんでもいえる仲なので、ああでもないこうでもないと時折互いの感じたことを話しながら、作品鑑賞に没頭した。

特に、若冲北斎、広重に応挙と、日本の有名な作品が多く見られたのが、すごくいい経験だった。

今、週に1回程度、朝鑑賞に取り組んでいることもあって、「この作品、いいかも。」とか「この絵やったら、子どもたちどんな反応するかなあ。」とか、終始、そんな感じで対話型鑑賞の題材探しの視点で見て回っている自分がいた。

隅々まで鑑賞して、博物館を出てみると、時刻は5時。

というわけで、体調のすぐれなかった奥さんは一足早く家に帰り、残った男4人で、京都の町に繰り出して、飲むことにした。というか、もともとそういう予定だった。

三条方面へ歩きつつ、店を探した。

4人もおって、割と優柔不断で、結構歩く羽目になった。笑

でも、30分ぐらい歩いて、ようやく一軒目のお店に入った。

スペインバルだった。

ギネスで乾杯をして、互いの近況を報告し合った。

2杯目を飲み干した後、店を出て、出たと思ったら、2軒先にあるジンギスカン屋で続きをスタート。

何気に人生初めてのジンギスカン

おいしかった。

一人を除いて、みんな教員。(一人は管理職)

話題は自然と、仕事の話に。

みんなそれぞれの職場で、それぞれの立場で、日々試行錯誤を繰り返し、仕事に打ち込んでいることを再認識した。

自分も頑張らなければという思いを強くした。

瓶ビールを6本ほど空けた頃、店を出た。

まだ、時刻は浅い。

というわけで、3軒目。

高瀬川沿いのビルの2階にある海鮮料理屋へ。

みんなだいぶ出来上がっていたので、お刺身をつまみに、ハイボールで乾杯。

話は、互いの教育観へと展開していった。

 

このメンバーでいることが、私はすごく好きだ。

会えば最高にくだらないことで笑い合えて、バカができて、それでいて、互いの信念のような根っこの部分の話もできる。

このメンバーで、互いの教育観について語ると、他のメンバーの教育観に刺激を受けて、自身の教育観が揺さぶられたり、明確になる部分があったり、色々な気付きが得られる。

すごくすごく大切な人たちだ。

一時期、みんなが同じ職場で、学校を良くしていこうと、ともに仕事に取り組んだ仲でもある。

今回のように、誰からともなく声がかかって、たまにみんなで集まって、くだらない話から真面目な話までできるのが、本当にありがたい。

いつもいつも、会うたびに思う。

とても感謝しています。

いつもありがとうね、Yちゃん・Kちゃん・Nさん。

こういう話ができる相手がなかなか現実世界にいない。

本当は、もっと日常的に職場の人たちとこういう話ができたらいいなとも思うんだけれど。

まあ、数いればいいってもんでもないということもあるのだけれど。

 

本質について対話できる機会や場は、これからもっともっと大事になってくるだろうなという直感はある。

だから、今あるそういう場を、つながりを大切に大切に、守り、育てていきたいなと思った。

同時に、自分の周りにも、そういう場を、機会を、広げていきたいなあと思う。

3連休②。 192

3連休二日目。

【9月15日】

この日は、いとこの結婚式だった。

私の母方のおばの息子。

今年28歳で、私の8つ下だ。

いとこと会うのは、年に1回か2回なので、改めて年齢を聞くと、8歳も離れていたのかと今更ながらに驚いた。

いとこが小さかった頃は、かわいくてかわいくて、会うとよく一緒に遊んだ。

ちょっと大きめのたまに会う弟のような存在だった。

それから互いに、互いの時間の中で成長し、心も体も大きくなっていく。

いとこは、小学校高学年から中学生、高校生となるにつれ、ゲームにのめりこんでいった。

ように見えた。

少なくとも、私には、そう見えた。

年に1・2回、ばあちゃんちで親戚みんなで集まっても、口数少なく、というか、ほとんど話をせず、関わりを絶つかのように、ご飯を食べたら、すぐに奥の部屋に行って、ゲームを黙々としていた。

昔、遊んでいた時のような関係は、そんなものは初めからなかったと言わんばかりに変化してしまったように感じた。

とはいえ、他人の生き方に口出しをするつもりもなかった。

けれど、どこかで腹立たしさや寂しさを心配を感じてもいた。

そんないとこが結婚である。

お付き合いしている人がいて、同棲を始めたことは、母伝いで何となく聞いてはいた。

でも、正直、近年のいとこの姿を思い出してみて、実感がわかない。

 

実家の両親を車で迎えに行き、奥さんと4人で、式場へ向かった。

早めに着いて、親族控室で時間をつぶした。

式前、新郎であるいとこが控室にやって来た。

淡いブラウンのタキシードを着たいとこは、晴れやかな表情だった。

私たちと顔を合わせると、少し恥ずかしいからかはにかむ笑顔には、昔のよく遊んでいた時の面影が少し見えた、ような気がした。

決して、人と話すのが上手な方ではない。

それでも、この日のホストとして、精いっぱい何とか接しようとする姿勢が見えた。

これが、ばあちゃんちの奥の部屋で、一人黙々とゲームをしていた彼なのだろうか。

談笑の時間はあっという間に過ぎ、親族全員でのスナップ写真撮影を済ませた私たちは、チャペルへと向かった。

両家の親族・友人がチャペルへスタンバイし、式の開始を待った。

少しして、神父の進行のもと、式が始まった。

チャペル後方のドアが開き、新婦が入場してきた。

新婦を見るのは、これが初めて。

とてもきれいでやさしそうな、でも芯の強そうな人だった。

式は滞りなく進み、会場を移して、披露宴がスタートした。

披露宴は、両家の親族や小数の友人を招いての小規模なものだった。

司会の方の紹介によると、二人は、共通の友人を通して知り合い、音楽や好きなキャラクターなど、共通の趣味で中を深めていったという。

ささやかで、でも、二人の醸し出す朴訥とした優しく、穏やかな雰囲気が包み込む披露宴だった。

披露宴に参加して一番驚いたのが、食事の時間の長さだった。

大体(と言い切ってしまうのも憚られるが)、披露宴では、余興や両親への手紙やら写真撮影やらと、イベントに忙しく、その合間を縫って食事をとっているようなことが多かった。

でも、今回のいとこの披露宴では、そういったことが本人たちの考える必要最低限のみで、あとは談笑しながら食事を楽しむ時間に当てられていた。

そして、その中で、新郎新婦の座る席が各テーブルに設けられていて、料理が運ばれるたびに、テーブルを移動しながら、新郎新婦も一緒に談笑に加わるのである。

このスタイルは初めてだったので、かなり新鮮だった。

新婦が、「ここのおいしい料理は絶対に食べたいと思ったんです。」と笑顔で茶目っ気たっぷりに応えてくれたのがほほえましかった。

きっと正直で素直な人なんだろう。

披露宴の細かい部分に関しては、おそらく新婦が中心となって計画を進めて言ったの違いない。

けれど、私には、あのお世辞にもコミュニケーションが上手とは言えないいとこが、このスタイルに賛成したことが何よりのサプライズだった。

料理ごとにテーブルを移動して、それぞれのテーブルで話をしなければいけないのである。

これまでに私が見てきたいとこであるならば、これはなかなかハードルの高いことのように思えた。

でも、私たちと一緒に食事をしながら、談笑をし、同じ時間を過ごすいとこは、確かに幸せそうで、新婦の方を見て、にこにこ(にやにや?笑)したり、とても微笑ましかった。

きっと、新婦との出会いが、いとこを変えたんじゃないだろうか。

ひょっとしたら、いとことの出会いが、新婦を変えたという側面もあるのかもしれない。

それについては、この日一日では、私にはわからないことだけれども。

 

でも、確かに変わったように見えた。

この日、私の目に映っていたいとこは、昔、無邪気に遊んでいた、人と関わることを楽しんでいたあの頃の姿に近かった。

控室で式前に感じたことは、気のせいなんかじゃないんだと思う。

人との出会いが人生を変える。

よく聞く言葉だけれど、それを目の当たりにしたような気分だった。

あっという間の3時間ほどだった。

あっという間に感じるってことは、それだけ充実した時間だったんだと思う。

「来てくれた人とその時間を大切にしたい」という二人の気持ちがそのまま形になったようないい式だった。

いとこの変化に嬉しく、どこかホッとしたような気持にもなった。

 

出会いのすばらしさ、出会いの大切さを改めて感じた一日になった。

3連休①。 191

動き回った3連休。

体は疲れているけど、心はリフレッシュできた。

そんな3日間の記録。

 

【9月14日】

この日は、ある高校の文化祭。

6年生を担任したある卒業生が招待してくれた。

ダンス部に入ったそうで、毎日毎日練習に明け暮れていたそうだ。

そんなダンス部の発表があるから見に来てほしいとのこと。

何とありがたいお誘い。

事前に学校に持ってきてくれたチケットを持って、卒業生の出番の30分前にいい席を探して、陣取った。

そして、開演。

幕が上がり、卒業生を探す。

いた。

2列目の一番右。

何だか見ているこっちの方が緊張した。

うまくいきますように!

と、私が祈ったところで何の足しにもならないが、祈らずにはおられなかった。

曲が流れ、ダンスが始まる。

驚いた。

鳥肌が立った。

だって、ダンスを始めたのは高校からのはず。

なのに、めっちゃ踊ってる。

それも30分間、曲を変え衣装を変え、何曲も踊っていた。

それまでの努力が透けて見えるそのダンスに感動した。

そして何よりとても楽しそうだった。

見ているこっちまで自然と笑顔になっていた。

そういう意味で、もう立派なダンサーやん!

と、うれしくなった。

30分はあっという間に過ぎた。

ダンス終了後、「一緒に文化祭回ろうや~」とお誘いがあったので、案内してもらいながら、文化祭の店を回った。

これも事前に買っておいてくれた金券で、ちょこちょこ軽食を買っては食事会場に移動して食べ、たくさん話した。

思い出話、高校の話、仕事の話などなど、話は尽きない。

気付けば日が傾きかけていた。

周りを見れば、各々で片づけの雰囲気が漂っている。

「え、自分のクラスの片づけとか行かんでええの?」

そう聞くと、

「うん、あるとは思うけど…まあ、まだいいと思う。」

と言う。

ほんまかいな 笑。

その10分後ぐらいに、クラスの友だち数人が呼びに来た。

「もうみんな教室集まってるで!行こう!」

私を見ると、きちんとあいさつをしてくれて、卒業生にさりげなく、

「え…っと、こちらの方は…お父様?」と言っていたのを聞いたときには、さすがに吹いた。

そっか、そう見えるのか 笑。

ずいぶん歳を重ねたもんだ 笑。

卒業生と呼びに来た友だちが入口付近まで見送ってくれた。

良かった。

中学卒業後の春休み、小学校に遊びに来た時は、「どうしよう。友達出来るかなあ。」と不安を口にしていたが、その心配はなさそうだ。

いい友だちに恵まれたようだ。

…ってこんなこと考えてるのが、そもそも親っぽくないか 笑?

そりゃあ、父親と間違えられるわ。

でも、打ち込めるものにも出会って、充実してる様子が見れて良かったなと思う。

元気をもらえた。

また、それぞれのステージでお互いに頑張ろう。

次に再会したときに、恥ずかしくないように。

今日を忘れない。 190

けテぶれを始めて3週間が過ぎようとしている。

一人一人を見ていると、上がったり下がったり、ノートに子どもたちの葛藤や、やる気、様々な思いが透けて見える。

教師から一律の宿題を出していたころには、気付けなかったことだ。

毎朝の宿題交流会に加え、学級通信でのけテぶれ紹介の地道な効果なのか、一昨日・昨日・今日のここ3日間ほど、子どもたちのけテぶれが全体的に見て、爆発的に成長を遂げた。

本当に示し合わせたかのように、ブーストがかかった印象だ。

トップランナーたちは、互いに自分に合ったけテぶれを開発し始めた。

タ→この時間内にやり切る

い→意味調べ

ま→まとめ

ふ→ふり返り

次→次からは

前→前に比べて

だ→だから

などなど、そのアレンジが多岐にわたってきた。

基本的な「けテぶれ」のサイクルは崩さずに、そこに+αしてきている。

そんなトップランナーたちの姿に刺激を受け、中位層の子どもたちもアレンジをし、自分なりに学びの海の上手な泳ぎ方を探り始めた。

 

しかし、1学期から学習習慣の定着がなかなか進まなかったクラスの男の子、A君は、そんな流れになかなか乗れず、おさぼりが続く日々だった。

担任として、どこでどう声をかけるべきか。

宿題ではない。

どこまでいってもやるのは自分自身。

提唱者の葛原先生も言っていたが、「信じて、任せて、認める」のスタンスだ。

これが、苦しい。

ついつい口を出してしまいそうになる自分がたびたび前に出てくる。

自分が今までいかに信じて任せてこなかったのかを表しているようで、なかなかきつい。

待っているだけなのに。

「それは、信じるという体のいい言葉で自分を正当化しているだけで、本当は何も手を打たずに楽をしているだけなんじゃないのか」

そんな言葉が心の中に現れては消えた。

でも、待った。

いつ、どのタイミングで学びの海を泳ぎ始めるかは、子どもたち一人ひとり違う。

だから、時間がかかる子もいる。

でも、大事なのは、その子が自分自身の意思で泳ぎ始めることだ。

こちらからのアクションで動き始めたとしても、それなら、これまでの宿題となんらかわらない。

「子どもたちの中には、本来的に自分で学習していく力がある。」

念仏のように、それを心の中で言い聞かせて、3週間が経つ。

 

そしたら、一昨日。

ついに、彼が泳ぎ始めた。

それは、2学期に入って、3回目の小テストを返した後だった。

まわりの友だちがテストの分析をしたり、なおしをしている中、A君が、おもむろに漢字ノートとドリルを取り出し、猛烈に漢字を書き始めたのだ。

しかし、この時、あまり授業時間は残されていなかったので、すぐにチャイムが鳴ってしまった。

せっかくのやる気に水を差すようなタイミングのチャイムに内心腹が立った。

でも、A君が自分で動き出したんだ。

それは大きな大きな一歩のはずだ。

それをまずは喜ぼう。

そんなことを考えていたら、A君がすぐ横に来ていた。

彼は、私にこう言った。

 

「先生、ケテぶれって、何ページやってきてもいいん?」

 

耳を疑った。

でも、うれしさが必要以上に顔に出ないように、冷静に穏やかに返事した。つもりだ。

 

「もちろん。自分のタイミングで必要やったら、必要な分だけやっておいで。」

 

すると、彼は何か決意したように、黙って自分の席に帰っていった。

その時から次の日まで、心の中はずっとそわそわしていた。

A君は、あのまま家で漢字をやってくるだろうか。

いや、どっちにしてもスタンスは変えない。

「信じて、任せて、認める」それ一択。

そう言い聞かせ、次の日を迎えた。

 

教室に行くと、ちょうどA君が提出ボックスに漢字ノートを出すところだった!

私は嬉しくて嬉しくて、すぐにそのノートを見た。

ノートには、2ページにわたってけテぶれが書かれていた。

けテぶれの「け」には、

「次のテストで半分以上取る。」「次のテストで50点以上取る」と2回書かれていた。

すぐに、丸つけをして、コメントを書き込み、A君に返した。

 

休み時間、A君が私のところへ来て、半分独り言のように、でも、きっと聞いてほしいんだろうなあって雰囲気で話してくれた。

 

「ああ、俺的には結構頑張ってきたつもりやねんけど、これで、次のテスト半分いかんかったら、どうしよう。」

 

A君がテストの点数を気にするなんて、初めてのことだった。

自分が努力しているから、結果を出したいと願う当然の人間心理だ。

 

「点数は気になるよなあ。でも、それってA君が努力してるから感じることで、そんな風に感じられる取り組み方をしてることがすごいことやん。だって、先生何も言ってないのに、サボりそうになる自分の心に勝って自分でやってきたんやろ?それってなかなかできることじゃないよ。すごいことやで。結構頑張ったどころか、めっちゃ頑張ったと先生は思うよ。きっとこの努力は、この先につながっていくよ。間違えても、もう一回チャレンジすればいい。」

 

すると、A君は、席に戻り、返したノートを開いて、また漢字をやり始めた。

ちょっとハイペースで心配にもなるが、彼が自分で選んでそうしているなら、静かに見守ろう。

きっとこれから先も、このままずっと上り調子で行くわけではないだろう。

A君だけじゃない。

みんなそうだ。

でも、それでいい。

そうやって、良いも悪いも自分の意志で経験するからこそ、ふり返りに大きな価値があるし、友だちの存在もより大切になる。

「信じて、任せて、認める」が、少しはできたのかな。

今は、少しそのうれしさに浸ろう。

それぐらいなら、ばちは当たらないはずだ。