「アド・アストラ」を観た。 194
昨日公開されたブラピ主演の映画「アド・アストラ」を観に行った。
思い立って今日観に行くと決めてチケットを取り、1時間後には映画館にいた。
「アド・アストラ」については、こちらを。
ロイ(ブラピ)は、常に冷静沈着な宇宙飛行士。
そして、彼の父クリフォード(トミーリージョーンズ)も宇宙飛行士。
しかし、父は、地球外生命体の探索へ出て、海王星で消息を絶つ。
そんな父が生きているという情報を得たロイは、父を探す旅に出る―。
ブラピ演じるロイは、物語の最初から感情がないように見える。
しかし、それは、宇宙飛行士としてその仕事に人生の全てを費やし、家庭を顧みなかった父への怒りを無理やり抑え込み続けた末に、ロイが生み出した生き方だったのだ。
そんな過去も影響して、ロイは対人関係が構築できない。
その事実を、自分が常に冷静沈着であることで、自分の人生は他人を必要としない、もともと必要ではないのだと思い込もうとしているようなところを感じた。
その防衛本能が生み出した生きるための鎧がロイの人生を無音にする。
何に対しても心を動かさない。いつもフラット。
そんなロイの生きざまをそのまま表現したかのような静けさが映画全体に漂っていた。
全てに執着がないが故の冷静さ。
それは、生きていく上で、諸刃の剣になる。
生への執着もないからだ。
綱渡りのような判断にも、迷いがない。
その迷いのなさは、しかし、とてもとても寂しいものだ。
ロイのそんな生き方を決定づけた父と言う存在。
その父の生存など微塵も考えてなかったロイにしてみれば、父生存の可能性はまさに寝耳に水であり、それでも、表情一つ変えず、父を探索する任務を受けることを即決するロイに、その鎧の分厚さを見た。
様々なアクシデントに見舞われながらも、一人父が消息を絶った海王星を目指すロイ。
道中、気の遠くなるような独りの時間を宇宙という閉鎖された空間で過ごす。
そんな時間の中で彼の頭に浮かぶのは、消息を絶った父や、別れた妻だった。
今まで、ふたをしてきた自分の原初の記憶、人生を決定づけた父と対峙することを余儀なくされる。
映画を見終わってから、ふとタイトルの意味が気になって調べた。
「アド・アストラ」…ラテン語の「per aspera ad astra」というローマの格言から取られたもの。意味は、「困難を克服して栄光を掴む」。
ロイの父にとっての栄光は、人類史上誰も成しえず、科学者がこぞって「存在しない」と言った地球外生命体を発見することだった。
ロイは、そんな父への怒りと憧れという相反する二つの気持ちから、父と同じ宇宙飛行士の道を選んだ。
そんな彼の「栄光」とは。
映画をふり返りながら、家に帰る道すがら考えていた。
ロイは、自分の人生を自分で生きていなかった。
だから生への執着がない。
そんな自分の生き方が正しいんだと常に自分に言い聞かせて、生きてきた。
だから、父との対峙は、ロイにとってできれば避けたいことだ。
父のようになりたくなくて、今の生き方を選んだからだ。
長い旅の果てに、ロイは父と再会を果たす。
しかし、再会した父が見ていたのは、目の前の息子ではなく、まだ見ぬ栄光だった。
目の前の身近なものを見ようとせず、あるかもわからない遠くを見つめる父。
そんな父と対峙して、ロイは自分が大切にすべきものに気づく。
だから、父の人生も背負って、地球へと帰還しようとする。
この後悲劇が起きるのだが…(あんま言うとネタバレになる。もう結構ネタバレしてるけど…)
ロイにとって、「困難」は「父という存在」であり、ロイは、その困難を、対峙して克服し、「周りの人を大切にして自分の人生を生きる」という「栄光」をつかみ取ったのだ。
これは、一人の男の「再生」の物語だ。