小学校教員にょんの日々ログ

毎日の出来事や考え、思ったことなどとにかくアウトプット!

授業をアップデート! 189

8月末、2学期スタートの初日、みん職のオンライン講座を受講した。

今回のゲストスピーカーは、立命館小学校の正頭英和先生。

イギリスのバーキー財団が主催する「Gloval Teacher Prize(GTP)」のファイナリストの10人のうちの1人としてアジアから唯一選出されたスゴイ人。

最初に、GTPについていろいろとお話を聞かせていただいた。

立命館小学校は、現在日本で唯一のMicrosoftショーケーススクールとなっている。

世界では、全部で900校もある中で、日本にはたった一校。

この事実だけでも、日本のICT教育がどれほど遅れているかがよくわかる。

正頭先生は、勤務校でMicrosoftと連携していく中で、ICT推進のメリットを実感するようになっていったという。

はじめから、ICTに秀でていたわけではないと聞いて、驚いた。

自分が正頭先生の立場だったら、きっとMicrosoftとの連携に満足して、そこからさらに先を考えて、動いていくことができただろうか。

正頭先生はここで止まらない。

思考をさらに先に進める。

これからの時代、英語一本では通用しない時代がやってくる。

じゃあ、どうするのか。

かけ算だ。

今持っている専門性の英語と、ICTを掛け合わせて、差別化を図るのだ。

英語×ICTだ。

その結果として生まれたのが、正頭先生が、GTPのファイナリスト10人に名を連ねることになった、マインクラフトを使った英語の授業実践だ。

GTPの概要について一通り話していただいた後に、いつものようにグループディスカッション(GD)に移った。

GDでは、正頭先生からお題があった。

 

「あなたが他の先生と違うと思うところは?」

 

んー、悩んだ。

なんだろうか。

専攻として「国語」をずっと研究してきたけれど、「違い」にまでなっているのか?

GDで同じグループになった先生方も、少し言いよどんでいる感じは同じだった。

で、そもそも、の話である。(最近、本当に、そもそもを考えることが多くなった)

なぜ、こんなにも「他の先生と違うところ」を言うのが難しいのか。

日本の教育ではこれまで、「同じ」であることを求めてきた。

それは、「子ども」だけではなく、「教員」に関しても同じだ。

そういえば、何か新しい取り組みをしようとしたときに、合言葉のように言われるのが、「でも、学年で揃えないと。」「でも、学校で揃えないと」。

他の先生と足並みをそろえないと、「あの先生、勝手なことをして」となる。

(そこには、普段からの職員関係の形成も大きく影響しているだろうが。)

もちろん、子どもたちが一部の子どもたちが不利益を被るようなことはあってはならないと思う。

けれども、だ。

横一列になることを、必要以上に意識しすぎてきたのが、日本の教育だ。

私自身、足並みをそろえることに忖度して実践してこなかったことがたくさんある。

それは歳を重ねて、若手の教員と組むことが多くなって、ますます増えたように思う。

若手が悪いのではない。

日本の教育のシステムと、自分の勉強不足が原因だ。

GTPでは、「あなたにしかできない」教育が求められる。

それでいて、「再現可能である」ことも求められる。

一見相反するような二つが両立していることが、選考の一つの規準だそうだ。

正頭先生が、他のGTPファイナリストの先生たちがどんな授業をしているのかを教えてくれた。

例えば、ブラジルの先生。

ストリートチルドレンの多い貧困地域にある学校で、ごみ問題に取り組んだそうだ。

町中のごみを集めて学校に持ってきて、ロボットを作ったという。

その経験が、子どもたちの価値観を変える。

今までは、町中に落ちていても何の価値も持たなかったゴミが、子どもたちにとっては、どれもロボットの部品になったのだ。

子どもたちは、毎朝学校に来る道すがら、ごみを拾い、登校する。

朝のごみ拾いが、子どもたちにとっては、ロボットの部品集めになったのだ。

子どもたちが意欲的に学習に取り組むようになったことはもちろん、地域のごみ問題の解決にも一役買う形になった。

まさに、社会とシームレスな教育。

学習と生活が地続きになっている。

教育が、社会をより良くするきっかけになっている。

子どもたちも、教育を通して社会をより良いものにしていこうという意識を持つ。

まさに、以前リヒテルズ直子さんの講座で、イエナプラン教育が目指すものとして伺ったお話とリンクした。

 

しかし、このブラジルの先生の実践のように、すべてが全て問題の解決までたどり着くかと言えば、そう甘いものではない。

当然と言えば当然だ。

必ずしも解決が全てではない。

考えることが大事だ、と正頭先生は言う。

これに関しても、「問い続ける」というイエナプランにおける教師に必要な資質とリンクをみる。

 

正頭先生が言っていたことで、一番印象に残っているのが、「教師の学び方」についてだ。

「教師の世界ではこれから『これ一本やっていれば大丈夫。これ一本で勝負。』という世界はAIに負け、淘汰されていく。だから、極めるところまで達していないとしても、自分の中に、2本目の柱、3本目の柱を作って、かけ算でやっていく。AとBをやって、Cを作り出す、こういった先生がこれから求められていく」

 

昨年まで勤務校の校長で、お世話になった先生に頂いたアドバイスと重なる。

「にょん先生、国語はかなり専門性を身につけてきたと思うから、それはそのまま続けて、それともう一つ何かあったら、強いし、選択肢広がると思うで。」

 

自分にとっての2本目、3本目の柱は何なのか。

興味があることは、今幸いいくつもある。

それらへのアンテナを張り続けて、学び続けながら、第二、第三の柱になりうる自分の武器を探していこうと思う。

もちろん、自分の第一の柱で積み重ねてきたものは、それはそれでおろそかにせずに。

「引っ越し大名」鑑賞 188

先日、星野源主演の映画「引っ越し大名」を観に行った。


星野源主演 映画『引っ越し大名!』引っ越し唄 8月30日(金)全国公開

 

なんか難しいこと考えずに、純粋にエンターテインメントとして楽しめる作品でした。

めちゃくちゃ引きこもりだった気弱でネガティブな春之介(星野源)が、外の世界と触れ合うことで、少しずつ自分に自信を持っていく様は見ていて、痛快だった。

勇気を出して踏み出した一歩が、新しい出会いを呼び、その出会いが、また新たな一歩を連れて来る。

そんな「人」の物語だ。

個人的には、春之介の幼馴染役の高橋一生がツボだった。

豪快な性格でありながら、周りからバカにされても、春之介のことを信頼しているところや涙もろいところなど、「ああ、こういうやつが友だちとしていてくれたらすごく心強いだろうなあ」と素直にうらやましく思ったり。

 

春之介の誠実で、どこまでも不器用だが真面目でまっすぐなところに、周りの人間も感化され、それが重なって後半、大きな力、うねりとなっていく。

無茶な引っ越しをやり遂げるためには、知恵やお金も必要なのだが、しかし、それらを生きたものとして動かしていくのは、やはり「人」なのだ。

そんなことを考えさせられる物語だった。

「人」は論理だけで動く生き物ではない。

「人」が動くのは、それも大きなパワーで動くのは、「感情」が伴った時だ。

そこには、計算や予測を超えたものが存在する。

だから、考えられないような奇跡が起きるのだろう。

人が自分の意志で、感情を持って動くとき、その意志が強く、大きなものであればあるほど、それは強い輝きを放ち、周囲の人を惹きつける。

そして、少しずつ支援者が増えていく。

自分の夢が、みんなの夢になっていく。

一つ一つは細い、とても細い一本の糸のような夢が、何本、何十本、何百本と集まって、撚り集められて、布となり、みんなを導く旗となる。

中島みゆきの「糸」を思い出した。

 

「人」は損得だけで動くのではない。

結局は、感情を揺さぶられ、「人」で動くのだ。

そんな希望を持てる映画だった。

 

まだ続いてたん? 187

三つ前の記事でこんなことを書いた。

 

yamanyo.hatenablog.jp

 

子どもたちとの給食時間における仁義なき戦い

「英語使ったら、即アウト。」ルールはそれだけ。

この戦いは、私の完全勝利で幕を閉じた…。

 

 

はずだった。(デデスデッデデン) 

 

今日、給食時間でのこと。

私は、今日も、前日からコマを一つ進め、次のグループの子たちと一緒に、のんびり給食を食べていた。

すると、「先生!先生!」と横から激しく呼んでくる子がいる。

一体なんだというのだ。

人の恋路、違う、食い路を邪魔するとは。

 

私「んー?」

ふり返ると、そこにいたのは、前日私と死闘を繰り広げたK君であった。

K君「先生、その時計なんなん?!」

 

意味が分からない。

普段から職業柄、拙い語彙を補って、相手の言わんとすることを正確に把握することには長けている。

やっぱり意味が分からない。

 

「その時計なんなん?」ってなんなん?

大阪人の血が騒いで、もう少しで「ぬんぬん?!」と言うところだった。

危ない危ない。

 

話を元に戻す。

いや、戻さなければいけないほど、飛んでない。

どうもすいません。三平です。

 

しばらく黙って私はK君を見つめていた。

しかし、K君は何も言わない。

言わないけれど、めっちゃ見てくるやん。

ぬんぬん。

言わない代わりに、彼の目は口よりも雄弁だった。

 

K君心の声(いやいや、先生。ほら、わかるやろ?おれが求めてるのはそういうことちゃうねん。この目見て!な!欲しい答え見えてきた?どう?どう?)

 

メッセージ多いわ、その黒目。

情報含みすぎ。

1TBぐらいあるんちゃう。

 

で、私はその情報を必死に読み取って、答えた。

 

私「これはなあ、アップルウォッチやで。」

K君「え!?なんてなんて!?もっかいゆうて!!」

私「え、アップルウォッチ。」

 

K君「はい、先生英語使ったーーーーー!!!負けぇぇぇぇぇぇ!!」

 

私は思う。

彼は、昨日の夕方から今日の午前中にかけて、何を思い過ごしてきたのだろう、と。

今となっては、その思いを知るすべを私は持ち合わせていない。

でも、彼の心の底からの嬉しそうにはしゃぐ姿を見ていると、そんなことどうでもいいと、清々しくさえある。

 

 

明日、昨日罠にはめた「ハワイ」をもう一度K君に言わせてやろう。

それ以外は、どうでもいい。

「けテぶれ」開始、一週間経過。 186

 漢字の宿題を「けテぶれ」学習法に変えてから、一週間が経った。

子どもたちは、おおむねこの学習法を気に入ったようで、連絡帳の「宿題」の行から、漢字がなくなっても、ほとんどの子が自分のペースで学習を続けている。

中には、早くも「自分で計画して勉強するの楽しい!!」と感想まで書いてくる子もいる。

3つのかごを用意し、

めっちゃ見てほしい→赤

いつも通り、普通にやって来たよ→緑

おさぼりしました→青

と、取り組み方によって自分で選んで提出させるように準備した。

子どもたちは、毎朝(一応、毎日出すことにはなっている。やっていなくても)3つのかごの前で、「うーん、今日はどっちかなあ?」と悩んだりしながら、提出している。

小さなことかもしれないが、提出一つとっても、自分で思考して判断する機会になっていると感じる。

そして、最近、複数の子どもたちから、こんなことを聞かれることが増えた。

 

「先生、放課後じゃなくて、休み時間にけテぶれやって、明日出してもいいん?」

 

もちろん、私の答えは「OK」である。

この一言は、かなりうれしかった。

今まで、宿題が指定されていたことで、半ば強制的に決められていたような放課後の時間が、まるっと自分のものになったのだから。(習い事はあるけれど)

自主性に委ねられたからこそ、「放課後の時間を好きに使いたい。でも、漢字もやっておかないと、テストには太刀打ちできない。じゃあ、どの時間を使ってやろうか。」という思考が生まれる。

何もかも決められていたままでは、思いつかない発想である。

自分の一日をどのようにデザインするか、思考の質が変わっていく。

メタ認知が進み、自分を客観的に見られるようになっていく。

 

「宿題は放課後にするもの」「宿題は先生が出すもの」「宿題はみんな同じ内容を同じやり方でやってくるもの」。

これらの認識は全て、現在でも多くの学校や学級で「当たり前」とされていることだと思う。

私の学級でも少し前までそうだった。

でも、「そもそも」である。

「宿題とは何のためにあるのか?」

きっとみんな口をそろえて言うだろう。

学習内容の定着を図るため、家庭での学習習慣をつけるため、と。

しかし、これを目的として、「一人一人は違う人間であり、その学び方や学ぶ量も人それぞれである」という前提に立つならば、これまでの宿題は本来の目的達成のために機能していると言えるのか。

けテぶれに変えてから、子どもたちは少しずつだが、これまで見たことのない反応を見せ始めている。

自分の「学び方」を本当にわずかだが、意識し始めている。

「どうすれば、自分は効率よく、スムーズに学ぶことができるのか?」

試行錯誤を繰り返し始めている。

まずは「やってみる」、そして「考える」。

はじめから考えてばかりいても、何も始まらない。

一歩を踏み出すことなしに、スタートは切れない。

 

もちろん、まだ自分なりの学習法が見えていない子も大勢いる。

そりゃそうだ。

見つけられたら、一生ものだ。

そう簡単に見つかる方が奇跡に近い。

だから、見つかるまで苦しい。

挫折もする。

でも、だからまた思考がそこから先へ進む。

そして、試してみる。

その繰り返し。

まだまだこれから。

長い目で見守りたい。

 

もちろん、課題もある。

なかなかモチベーションが上がらず、取り組めていない子にどうアプローチをするべきか。

毎朝の宿題交流会において、最小限の時間で最大限の効果を発揮する場にどう改善していくか。

でも、「指導者」でなく「伴走者」として、子どもたちと同じ方を見ながら、その成長をサポートしていけたらいいなと思う。

その理想に至るには、自分自身まだまだ力が足りない。

だから、自分も日々、リフレクション。

そうして、試す、試す。

失敗を、怖れるな。

失敗は、成長という言葉を言い換えたにすぎない。

30冊目「読みたいことを、書けばいい。」 185

今年度30冊目の読了本はこちら。

f:id:yamanyo:20190903060722j:plain

「読みたいことを、書けばいい。/田中泰延」

シンプルにシンプルに、極限まで無駄を削ったような表紙が何とも気になる。

タイトルにあるように、「言いたいことはそれだけだ。」と宣言しているような潔さが漂っている。

著者の田中泰延さんは、元電通のコピーライター、勤続24年。

が、ある日、電通を退社する。

どうも、電通在職中に、ひょんなことから知り合いに頼まれて書いた映画評論が累計200万PBVをこえるほど多くの人に読まれたことがそもそものきっかけらしい。

ここで、急に「ひょんな」と言う言葉の語源が気になっているのだが、「とにかく一次資料にあたれ」と言う著者の言葉を思い出し、「ひょんな」の語源については飲み込もうと思う。

この本を購入して、早速ページを開くと、1ページ目から度肝を抜かれた。

 

「あなたはゴリラですか」

 

思わず、「いいえ、違います」と心の中で、反射的に答えそうになっていた。

「読みたいことを、書けばいい。」というシンプルなタイトルに惹きつけられて読んでみたら、「あなたはゴリラですか」って、えげつない組み合わせである。

その後も、読み進めるたびに、心のツッコミはブレーキがかかるどころか、アクセル全開である。

いちいち、言葉のチョイスが面白くて、あまのじゃくで、なんだか核心に迫りそうになると、ふわっと読者をけむに巻いて、ふざけた雄。

違う。

ふざけ倒す。

 

本編のほとんどがエッセイであり、ビジネス書では断じてないと著者は言うが、なんだかたまにグサッと刺さる一言がある。

昔、くるり岸田繁がアルバム制作について語ったインタビュー記事を読んだときのことを思い出した。

記事の中で、岸田繁は「アルバムの中で、いわゆる『ええ曲』ってのが、2曲ぐらいあったんで、あとはもう自由にやってええかな、と。アルバムの中で言うたら、あんまりそういう『ええ曲』ばっかりあってもしゃあないし。」的なことを言っていた。

多分。

あ、一次資料に当たってない。

やめとこ。

 

付録やコラムという体で、電通時代に得たノウハウだったり、書くために読むといい本の紹介なんかがされている。

付録やコラムの方が、字が小さくて、なんだか真面目。

本編で、ふざけ倒して、おまけで、真面目。

逆か。

そんな構成も「読みたいことを、書いただけ」なのだと思わせてしまうから、脱帽。

あまりに面白くて、買ってその日に全部読んでしまった。

小説以外で一気読みという経験があまりなかったので、読み終わった時の達成感には、新鮮なものがあった。

そして、なんだか無性に文章が書きたくなっている自分がいた。

「さて、何を書こうか」

クセのように、そう考えている自分がいた。

違う。

「読みたいことを、書けばいい」のだ。

ということで、この本を読んで、思ったこと・考えたことを徒然なるままに書いている。

真面目な部分で言うと、「一次資料に当たる」ということに対する徹底した姿勢には、学ぶこと大きかった。

「調べる」とは、「一次資料にあたる」ことを言う。

これ以上は、何も情報が出てこないという行き止まりまで調べることで、自分の好きに書いても、その調べ切ったという事実が説得力を持たせるのだろうし、何より好きに書いていくことに無駄な罪悪感を感じないで済む。

だから、私は、この文章を多少の罪悪感を持って書いている。

「ひょんな」の語源と「岸田繁のインタビュー記事」について、調べていないからだ。

でも、次こそは。

次っていつですか。

 

何を書けばいいかわからないというのは、そもそも「これについて書けばいい」というある種の答えのようなものを探していると言える。

しかし、そんな答えは存在しない。

そこには。、「読みたい」と「書きたい」があるだけ。

シンプル オブ シンプル。

万人にバズる文章なんてものは存在しない。

答えは、もともとあるのではなく、生み出す、または結果としてそれが答えであると認識されるのだと思う。

だからこそ、自分が読者として読みたいものを書くことが大切なのだ。

まず、そこでの自分の書いたものに対する説得力が大事なのだと思う。

 

というわけで、次回は、「保護者対応に特殊相対性理論を応用できないかどうか」について書こうと思う。

Don't speak English. 184

2学期が始まって1週間が経った。

先週までの午前中授業による試運転期間も終わり、今日からがっつり6時間授業だ。

運動会の練習も始まっているので、給食の時間は、数少ないホッと一息付ける時間になっている。

給食時間は、毎日順番に子どもたちのグループを回り、そこに机を持って行ってくっつけ、一緒に食べている。

毎日、それぞれのグループで違う話題で盛り上がり、それに参加するのはとても楽しい時間だ。

今日は、「絶対に英語をしゃべってはいけない」という縛りで会話をした。

縛りが付いた途端、急に口数の減る子どもたち。

まるで、借りてきた猫。

初めての彼女の家に緊張する彼氏。

楽しもうとして設定した縛りが、このままでは、真逆の沈黙を作り出してしまう、と思い、どんどん仕掛けた。

 

私「なあなあ、S君。あのー、機械でさあ、ピコピコやって、冒険したり、敵とか倒したりして遊ぶやつあるやん。あれで、何が最近一番好き?」

S君「…。ん?どういうこと?機械?敵を倒す?…ああ、ゲーム?」

 

私「はい、残念でしたああああ!『ゲーム』は英語おおおお!!!」

 

ひどい担任だ。

しかし、ヒールに徹することを決めた私に「容赦」の二文字はない。

 

私「なあなあ、Mさん家は新聞取ってる?」

Mさん「取ってないで。」

私「え、じゃあ、世の中の出来事とかってどうやって知るの?」

Mさん「え…そりゃあ、ニュース…あ!」

 

私「『ニュース』!!アウトォォォ!!!ひゃっほう!!」

 

本当にひどい担任だ。

大人げないとはまさにこのこと。

「大人げない」の体現者!

「大人げない」が服を着てご飯を食べている!!

しかし、悪役に徹することを決めた私に「情け」の二文字はない。

 

K君「なあなあ、先生。緑色のぶどうってなんていうんやっけ?」

私「え?緑色のぶどう?そりゃあ、『緑色のぶどう』やろ。」

K君「ちゃうってちゃうって、そうじゃなくって!!違う言い方あるやん!」

私「んー、知らんなあ。K君教えてや。」

 

この後も、私をあの手この手でひっかけ、なんとか英語を言わせようとするグループの子たちに対して、私は一度も攻めの姿勢を崩すことなく、戦いきった。

中でも、一番積極的に私に勝負を挑んできたK君との戦いは熾烈を極めた。

しかし、そんな彼も私の前に無残に散った。

彼の最後の言葉は、「ハワイ」だった。

 

なお、なぜ彼が「ハワイ」と言ったのか、その文脈がどのようなものであったかは、覚えていない。

 

明日は、どんなドラマが待っているのか。

小さなワクワクでも、明日は待ち遠しいものだ。

本質から始めよう。 183

8月22日。

この日のみん職、ゲストスピーカーは、熊本大学教授の苫野一徳さん。

テーマは「現代教育の諸問題について」。

苫野さんは、哲学者で教育学者だ。

「哲学」…今までほぼ全くと言っていいほど自分の人生において、触れてこなかった。

いや、触れてはいたのだろうけれども、「哲学」という物差しで世界を眺めたことがないと言った方が正しいか。

苫野さんは言う、「哲学によって問題の本質が洞察できれば、そこからどうすればいいかが考えられる」と。

そんな話が最初に少しあり、その後、グループに分かれて話し合った。

お題は、「教育の問題、学校の問題は?」というもの。

グループ内でも様々な意見が出たし、全体に戻ってからも、チャットにたくさんの書き込みがされた。

それだけ現代教育が抱える問題が多く、また多岐にわたっているということの表れだ。

しかし、そんな様々な問題に対して、苫野さんは非常にシンプルな答えを導き出した。

 

「そもそも何のために教育があるのか」が理解できていない。

 

これこそが問題の本質ではないのか、と。

「本質を考えていない」という本質。

 

さらに苫野さんは「何のために教育があるのか」という問いに対する考えを話してくれた。

 

「自由と自由の相互承認のため」

 

とてもシンプルで無駄なものをそぎ落とされた言葉。

この言葉自体は、苫野さんの著書を拝読し、知ってはいた。

でも、本人から直接放たれた言葉には、字で見るより力があった。

上位目的を共有し、そのための方法を共に考える。

今の教育に求められているのは、そこなのではないか。

一見多岐にわたるような問題の数々も、対話を重ね、本質を見極めることで、その根っこでは実はつながっているという事実に突き当たることは、思っている以上にたくさんあるのかもしれない。

でも、日々の忙しさに誰もが忙殺され、ただただ目の前の仕事に追われ、毎日が流れていく現代では、そうした対話の機会を確保すること自体、至難の業といえる。

 

「だから、校内研に対話を設定する」

 

苫野さんは一つの解決策としてこれを強く推す。

確かに、意図的に組み込まない限り、今の状況では待っていても、永遠にその機会は訪れそうにない。

なるほど、校内研で対話を…考えもしなかった発想だった。

ただし、たった一回の対話の機会を設けただけで、変わることなんておそらくほとんどないだろう。

だから、積み重ねていく、続けていくことが重要だ。

「何のため?」を繰り返し、本質にたどり着くまで対話を重ね続ける。

鉄を叩いて強く純度の高いものにするように。

それも、学校に関わる様々な立場の人たちが同じテーブルにつくことで、多角的・多面的に本質に迫るのが理想だろう。

この夏知ったイエナプラン教育と苫野さんの話のいろいろなところが頭の中でリンクし始めている。

 

自由の相互承認を可能にするには、まず「①自己承認」。

これは、信頼と承認が常に満たされた環境にいることで育まれる。

learn × creationで参加した小金井市教育委員会教育長の話とリンクする。

「基本的な自己肯定感」が育まれていないと、学習も意欲も積み重なっていかない。

安心・安全が保証されていない場での学びは、成立しない。

以前、コーチングの講座でゲストスピーカーだった吉田忍さんや若松俊介さんの話とリンクする。

「①自己承認」ができて、次に「②他者からの承認」を経て、ようやく「③他者を承認」できるところまでたどり着く。

存在承認の世界から価値承認の世界へ飛び込まなければいけない子どもたち。

現代は「役に立つ」ことが極端に求められる社会である。

今のままの教育で、子どもたちは未来を幸せに生きていけるのか。

徹底的な対話の積み重ねで磨き上げられた本質は、高く分厚い現代教育の諸問題の壁に穴を穿つ。

まずは、目の前の子どもたちと日々向き合う中で、苫野さんが言っていたように、「自由と自由の相互承認」をリフレクションの視点の一つとして、日々の実践をふり返っていくことからはじめよう。

焦らない。

じっくり。

一つ一つ。

結論を早急に求め、それが仮に見つかったとしても、それは磨かれていない石ころも同然。

問い続ける。

自分に。

できることをていねいに、真摯に、着実に。