本質から始めよう。 183
8月22日。
この日のみん職、ゲストスピーカーは、熊本大学教授の苫野一徳さん。
テーマは「現代教育の諸問題について」。
苫野さんは、哲学者で教育学者だ。
「哲学」…今までほぼ全くと言っていいほど自分の人生において、触れてこなかった。
いや、触れてはいたのだろうけれども、「哲学」という物差しで世界を眺めたことがないと言った方が正しいか。
苫野さんは言う、「哲学によって問題の本質が洞察できれば、そこからどうすればいいかが考えられる」と。
そんな話が最初に少しあり、その後、グループに分かれて話し合った。
お題は、「教育の問題、学校の問題は?」というもの。
グループ内でも様々な意見が出たし、全体に戻ってからも、チャットにたくさんの書き込みがされた。
それだけ現代教育が抱える問題が多く、また多岐にわたっているということの表れだ。
しかし、そんな様々な問題に対して、苫野さんは非常にシンプルな答えを導き出した。
「そもそも何のために教育があるのか」が理解できていない。
これこそが問題の本質ではないのか、と。
「本質を考えていない」という本質。
さらに苫野さんは「何のために教育があるのか」という問いに対する考えを話してくれた。
「自由と自由の相互承認のため」
とてもシンプルで無駄なものをそぎ落とされた言葉。
この言葉自体は、苫野さんの著書を拝読し、知ってはいた。
でも、本人から直接放たれた言葉には、字で見るより力があった。
上位目的を共有し、そのための方法を共に考える。
今の教育に求められているのは、そこなのではないか。
一見多岐にわたるような問題の数々も、対話を重ね、本質を見極めることで、その根っこでは実はつながっているという事実に突き当たることは、思っている以上にたくさんあるのかもしれない。
でも、日々の忙しさに誰もが忙殺され、ただただ目の前の仕事に追われ、毎日が流れていく現代では、そうした対話の機会を確保すること自体、至難の業といえる。
「だから、校内研に対話を設定する」
苫野さんは一つの解決策としてこれを強く推す。
確かに、意図的に組み込まない限り、今の状況では待っていても、永遠にその機会は訪れそうにない。
なるほど、校内研で対話を…考えもしなかった発想だった。
ただし、たった一回の対話の機会を設けただけで、変わることなんておそらくほとんどないだろう。
だから、積み重ねていく、続けていくことが重要だ。
「何のため?」を繰り返し、本質にたどり着くまで対話を重ね続ける。
鉄を叩いて強く純度の高いものにするように。
それも、学校に関わる様々な立場の人たちが同じテーブルにつくことで、多角的・多面的に本質に迫るのが理想だろう。
この夏知ったイエナプラン教育と苫野さんの話のいろいろなところが頭の中でリンクし始めている。
自由の相互承認を可能にするには、まず「①自己承認」。
これは、信頼と承認が常に満たされた環境にいることで育まれる。
learn × creationで参加した小金井市教育委員会教育長の話とリンクする。
「基本的な自己肯定感」が育まれていないと、学習も意欲も積み重なっていかない。
安心・安全が保証されていない場での学びは、成立しない。
以前、コーチングの講座でゲストスピーカーだった吉田忍さんや若松俊介さんの話とリンクする。
「①自己承認」ができて、次に「②他者からの承認」を経て、ようやく「③他者を承認」できるところまでたどり着く。
存在承認の世界から価値承認の世界へ飛び込まなければいけない子どもたち。
現代は「役に立つ」ことが極端に求められる社会である。
今のままの教育で、子どもたちは未来を幸せに生きていけるのか。
徹底的な対話の積み重ねで磨き上げられた本質は、高く分厚い現代教育の諸問題の壁に穴を穿つ。
まずは、目の前の子どもたちと日々向き合う中で、苫野さんが言っていたように、「自由と自由の相互承認」をリフレクションの視点の一つとして、日々の実践をふり返っていくことからはじめよう。
焦らない。
じっくり。
一つ一つ。
結論を早急に求め、それが仮に見つかったとしても、それは磨かれていない石ころも同然。
問い続ける。
自分に。
できることをていねいに、真摯に、着実に。