「けテぶれ」開始、一週間経過。 186
漢字の宿題を「けテぶれ」学習法に変えてから、一週間が経った。
子どもたちは、おおむねこの学習法を気に入ったようで、連絡帳の「宿題」の行から、漢字がなくなっても、ほとんどの子が自分のペースで学習を続けている。
中には、早くも「自分で計画して勉強するの楽しい!!」と感想まで書いてくる子もいる。
3つのかごを用意し、
めっちゃ見てほしい→赤
いつも通り、普通にやって来たよ→緑
おさぼりしました→青
と、取り組み方によって自分で選んで提出させるように準備した。
子どもたちは、毎朝(一応、毎日出すことにはなっている。やっていなくても)3つのかごの前で、「うーん、今日はどっちかなあ?」と悩んだりしながら、提出している。
小さなことかもしれないが、提出一つとっても、自分で思考して判断する機会になっていると感じる。
そして、最近、複数の子どもたちから、こんなことを聞かれることが増えた。
「先生、放課後じゃなくて、休み時間にけテぶれやって、明日出してもいいん?」
もちろん、私の答えは「OK」である。
この一言は、かなりうれしかった。
今まで、宿題が指定されていたことで、半ば強制的に決められていたような放課後の時間が、まるっと自分のものになったのだから。(習い事はあるけれど)
自主性に委ねられたからこそ、「放課後の時間を好きに使いたい。でも、漢字もやっておかないと、テストには太刀打ちできない。じゃあ、どの時間を使ってやろうか。」という思考が生まれる。
何もかも決められていたままでは、思いつかない発想である。
自分の一日をどのようにデザインするか、思考の質が変わっていく。
メタ認知が進み、自分を客観的に見られるようになっていく。
「宿題は放課後にするもの」「宿題は先生が出すもの」「宿題はみんな同じ内容を同じやり方でやってくるもの」。
これらの認識は全て、現在でも多くの学校や学級で「当たり前」とされていることだと思う。
私の学級でも少し前までそうだった。
でも、「そもそも」である。
「宿題とは何のためにあるのか?」
きっとみんな口をそろえて言うだろう。
学習内容の定着を図るため、家庭での学習習慣をつけるため、と。
しかし、これを目的として、「一人一人は違う人間であり、その学び方や学ぶ量も人それぞれである」という前提に立つならば、これまでの宿題は本来の目的達成のために機能していると言えるのか。
けテぶれに変えてから、子どもたちは少しずつだが、これまで見たことのない反応を見せ始めている。
自分の「学び方」を本当にわずかだが、意識し始めている。
「どうすれば、自分は効率よく、スムーズに学ぶことができるのか?」
試行錯誤を繰り返し始めている。
まずは「やってみる」、そして「考える」。
はじめから考えてばかりいても、何も始まらない。
一歩を踏み出すことなしに、スタートは切れない。
もちろん、まだ自分なりの学習法が見えていない子も大勢いる。
そりゃそうだ。
見つけられたら、一生ものだ。
そう簡単に見つかる方が奇跡に近い。
だから、見つかるまで苦しい。
挫折もする。
でも、だからまた思考がそこから先へ進む。
そして、試してみる。
その繰り返し。
まだまだこれから。
長い目で見守りたい。
もちろん、課題もある。
なかなかモチベーションが上がらず、取り組めていない子にどうアプローチをするべきか。
毎朝の宿題交流会において、最小限の時間で最大限の効果を発揮する場にどう改善していくか。
でも、「指導者」でなく「伴走者」として、子どもたちと同じ方を見ながら、その成長をサポートしていけたらいいなと思う。
その理想に至るには、自分自身まだまだ力が足りない。
だから、自分も日々、リフレクション。
そうして、試す、試す。
失敗を、怖れるな。
失敗は、成長という言葉を言い換えたにすぎない。