小学校教員にょんの日々ログ

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25冊目「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」 161

今年度25冊目の読了本はこちら。

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「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー/ブレイディみかこ

よく行く近くの書店で、平積みにされ、猛プッシュされてたのと、

何だか目が離せない表紙も相まって、購入を決めた。

帯の一番下の「ノンフィクション」の文字を見落としていて、

てっきり小説だと思っていた。

お恥ずかしい…。

 

ま、とにもかくにも読み始めたわけだが、

二日で(正確には一日半で)読了してしまった。

こんなに早く読了したのには、二つ理由がある。

一つは、内容があまりに面白く、

非常に様々なことを考えさせられるものだったからだ。

もう一つは、筆者の文章にそれらの内容を非常に軽快

かつ鮮やかに描いてみせる軽妙さがあったからだ。

 

まずは、巻末の情報から抜粋して、筆者を紹介したい。

 

保育士・ライター・コラムニスト。1965年福岡市生まれ。 

音楽好きが高じてアルバイトと渡英を繰り返し、1996年から

英国ブライトン在住。ロンドンの日系企業で数年間勤務したのち

英国で保育士資格を取得、「最底辺保育所」で働きながら

ライター活動を開始。2017年に新潮ドキュメント賞を受賞し、

大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞候補となった

「子どもたちの階級闘争―ブロークン・ブリテンの無料託児所から―」

(みすず書房)をはじめ、著書多数。

 

もう、プロフィールからして只者ではないぞ感 笑

一体どんな文章を書くのだろうと、読む前から興味をそそられていた。

 

著者の息子が、厳格なカトリックの名門校から

近所の元底辺中学校に入学したことで巻き起こる

日々のあれこれ。

親・子ども、それぞれの立場で悩みながらも、

様々な問題に向き合い、

乗り越え、たくましく生きていく。

そんな感じだろうか。

(んー、短くまとめるのが、恐ろしく下手で、自分に絶望する)

 

最初にも書いたが、この本を読んで、

とても多くのことを考えさせられた。

それも自分が普段日常生活を送っていて、

あまり考えないようなことについてだ。

でも、それはきっと自分のまわりに同じような問題がないのではなくて、

存在するけれども、それを問題として見るフィルターが自分にはなかったのだと、

読み終わった今は思う。

それがとても恥ずかしいことのような気もするし、

何も考えずにここまで来ている自分は平和ボケしているのか、

それはそれでいいことなのか?

と、葛藤が生じたりもした。

でも、どちらにせよ、「知らない」ということは、

とても怖いことだなあと思った。

「知らない」という無防備な自分ののど元に、

ナイフを突きつけられたような、

ドキッとする、

ハッとする瞬間が

読んでいて何度もあった。

 

アイデンティティ、貧富の差、人種差別、LGBTQなど、

それらの問題が日常茶飯事に起こる著者の息子の中学校生活は、

読んでいて、とても刺激的だった。

他者のアイデンティティは深読みに深読みを重ねても、

全てがうまくいくわけではなく、

相手にとっての地雷を踏んでしまうことは

一度や二度ではない。

移民問題が大きな社会問題にもなっているイギリスゆえという部分も

きっとあるのだろう。

だからだろうか、読んでいて

シティズンシップ教育がさかんに行われている印象を受けた。

だから、自分たちが暮らす国や社会について、

中学生でも真剣に考える。

もちろん、そうじゃない中学生もいるだろうが。

それに比べて日本はどうだろうか。

市民教育なんて、全くできていないのではないか。

情けないが、自分の仕事をふり返ってみた時に、

そう感じた。

先の参議院選挙での投票率の低さも無関係ではないだろう。

やはり、教育の持つ意味は今後さらに重要になってくるだろうと感じた。

 

本の中に「エンパシー」という言葉が出てくる。

ハッとした。

エンパシーは、本書で、

ケンブリッジ英英辞典から引っぱってきたものとして

こう説明されている。

 

「自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって誰かの感情や経験を分かち合う能力」

 

そして、似た言葉の「シンパシー」との違いも明確に書かれている。

 

つまり、シンパシーのほうはかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力をしなくとも自然に出て来る。だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。

 

本の中で説明されているイギリスの社会情勢や

著者の身の回りをはじめとした、

マルチカルチュラルな環境と合わせて考えると、

この「エンパシー」が非常に重要であることがわかる。

と同時に、今の日本でもこの「エンパシー」は

必要不可欠な能力ではないのかと感じる。

毎日のように、この「エンパシー」がないが故の

トラブルや事件が後を絶たない。

日々関わっている子どもたちにしてもそうだ。

この「エンパシー」は、日本の教育においても非常に重要なものではないか。

SNS上でのトラブルを見ていてもそうだ。

顔が見えないことは言い訳にしかならない。

「エンパシー」という想像力の欠如が、平気で人を傷つけている。

 

学校でシティズンシップ教育を受けたり、

身近な友だちや自分・家族のアイデンティティについて

考えることを通して、大人の想像を軽く飛び越えて、

著者の息子は成長していく。

その様は、読んでいても希望に満ち溢れていて、

子どもたちの無限の可能性に感動せずにはいられない。

 

子どもたちには本来、

こうでなければいけないという型がない。

大人の心配をよそに、案外ふわりと成長して、

グンと大きくなっていったりする。

でも、いつの間にか、その型のなさは失われて、

常識や慣習にとらわれる大人になっていく。

その原因は、やっぱり周りの社会や大人や教育にあるんじゃないだろうか。

そんな子どもたちを育てないために、教育には何ができるのだろうか。

 常識や慣習で視界を曇らせることなく、

自分で一から考え、エンパシーを発揮して、

みんなで社会を作っていく。

そんな未来を生きる子どもたちを

どうやったら育てていけるのだろうか。

読みながら、答えのない問いが

頭の中をぐるぐると回る。

 

もう一つ。

マルチカルチュラルな社会であるイギリスで生きる

著者やその息子の日常を本書で読んでいて、

「正しさ」とは何か、とても考えさせられた。

私たちが幼少期を過ごしてきた、

また、現在の子どもたちが過ごしている日本という国は、

「正しさ」が過剰に取りざたされているように感じる。

 

思うに、

「正しさ」というものは、

その人それぞれの持つ尺度によるものであって、

十人十色が当たり前だ。

でも、今の社会では、

さも「正しさ」は唯一のものだという感じがあって、

だから、その「正しさ」に適応しないものを

排除しようとする動きが強いし、

それが人々の分断を進めているように思えてならない。

そんな分断の時代だからこそ、

人々は逆説的に、できるだけ手軽につながりを求めて、

SNSが隆興を極めているのではないだろうか。

全てが幻のような、実体のないつながりとは思わないが、

そういうつながりも現実にかなりの数存在するように感じる。

それでもつながりを感じることで安心したいのだろうか。

つながり=自分の信じる正義を補強してくれる味方という

感覚はないだろうか。

 

普段、何も意識せずに過ごしていると、

素通りしてしまっているようなことも、

ていねいに立ち止まって、

きちんと自らの頭で思考し、

自分なりに答えを出そうとしている筆者と

その息子の姿は、とても人としてまっとうで、

自分の生き方を考えさせられた。

 

どこまで理解できるかはわからないが、

いや、そもそもそんな線引きをこちらがしてしまうこと自体、

間違っているのかもしれない。

とにかく、夏休み明けに、

教室の学級文庫に、

この本をそっと忍ばせておこうと思う。

読むも読まないも、子どもたち次第だが、

そういう問題に触れる環境を作ることも、

今の教育には必要なことかもしれない。