考えて変わった! 16
さっきの記事の写真の端っ子に写っていたが、
きっと同業の方しかわからないと思う。
でも、自分のなかでは結構大きなことだった。
そんなことがあの写真には写っている。
この仕事に就いて以来、ずっと国語の研究会に入っている。
動機は不純だ。
大学時代、3・4回生の間、国語専門のゼミに入っていた名残。
入りたくて入ったわけではない。
本当は社会に入りたかった。
でも、入れなかった。
出席日数が足りなくて。
結果的に国語科に足をふみ入れた。
それからずるずる就職まで来て、
その流れで、就職してからも国語部会に入った。
不純な動機、というか、成り行きでずるずると入ったにすぎない。
でも、それから12年、不思議とやめはしなかった。
周りの同期や同僚からは「よくやるなあ。」と言われもしたけど。
どうやら国語部会はきつい部会だったらしい。
でも新しいことを知るのが楽しかった。
底が見えないのが、うれしかった。
その果てしなさに燃えた。
恩師にも出会った。
気付けば、13年目。
国語部会でも結構上の方になっていた。(年齢です)
新学習指導要領の完全実施が来年に迫っている。
しかし、そんなことは大したことではない。(誤解を恐れずに言う)
なぜなら、完全実施されようが、されまいが、
目の前の子どもたちのために働くことに変わりはないからだ。
というか、今も子どもたちのために働いている。
そして、いつまで担任におんぶにだっこではなく、
どんどん自立してほしいと思い、これまで学級経営を進めてきた。
その結果だろうか。(そう思いたいが、子どもたちのポテンシャルがまあすごい。)
1・2学期も単元ごとに、学習計画をみんなで立てていたのだが、
今回、子どもたちが自主的に計画を組み替え、
「これならスムーズにゴールまでたどり着ける」という計画を自分たちで立ててしまった。
それが、この記事の冒頭で触れた写真だ。ズームアップする。
わかりにくいかもしれないが、
計画のアとオの部分は、もともと書いていたことを
切り離し、子どもたちの考えに沿うように、切ってつなぎ合わせたものだ。
私が事前に用意していた短冊では、納得いかず、自分たちで切り貼りしたのだ。
私が一切口出ししない中、自分たちで完成させた。
国語専門家から見たら、ひょっとすると、おかしなところがあるかもしれない。
けれども、子どもたちは納得している。
そして、そこに私は、とても喜びを感じている。
学習は、子どもたちのものだ。
私たちが「教えてあげる」ものではもはや、ない。
だからこそ、本来の意味での、「主体的で対話的で深い学び」の実現に向け、
少しずつでも研究進めたい。
あー、お酒が回ってる(じゃあ、もっとどうでもいい話で濁せ!)
とにかく、学びを自分たちのものだと認識しつつある子どもたちが、
愛おしくて仕方ないって話です。