小学校教員にょんの日々ログ

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自分の言葉。258

昨日は、オンラインで開催された「みんなde『学び合い』フォーラム」に参加した。

別件で、午前中の基調講演は参加することができず、午後の分科会から参加した。

ぼくが参加したのは、分科会Aの古田先生×葛原先生のお話。

葛原先生のお話は、何度か伺ったことがあったが、古田先生のお話は今回が初めて。

どんなお話が聞けるのか、とても楽しみにしていた。

結果から言うと、内容はとても良かった。

でも、それ以上に、お二人が、どこまでも自分の言葉で語られていたのが何よりも印象的だった。

同時に、刺さった。

「お前は、自分の言葉で語れているのか?」

そんなことを強烈に投げかけられているように思えてならなかった。

相手は、自分を映す鏡。

つまり、相手からそういうことを受け取ったようで、実は、それは自分の内面が相手の姿を通して顕在化しただけなのではないか。

「自分の言葉で語れていない」という感覚が自分の中にはっきりあるからこそのインパクトだろう。

言葉は、思考するために欠かせない。

「りんご」という言葉がなければ、「りんご」について思考するのは途端に難しくなる。

古田先生や葛原先生のお話を聞いていて、その語られる言葉によって、自分の頭の中に「なるほど!」という感覚が生まれた。

それは、その言葉たちによって、自分の中で形を成していなかった思考の断片のようなものが、急にはっきりと輪郭を持ったもののように感じるからだ。

徹底的に言語化することで、今までぼんやりともやがかかっていたようなものに輪郭が与えられる。

輪郭が与えられるからこそ、見えてくるものがある。

それは、その輪郭が「正解」というわけではない。

でも、輪郭が見えたからこそ、「ここをもう少し削ってへこませた方がいいな」とか「ここ欠けてるから、何かで補わないとまずいな」とか、その先へと思考が進むきっかけになる。

言葉によって与えられた輪郭がきっかけとなり、思考が進み、さらに新たな言語化へつながっていく。

その作業には、きっと終わりがなくて、常に問い続け、見えた輪郭は、その問いにさらされ続けるんだろう。

そうした作業を徹底的に積み重ねてきて、磨かれた輪郭の一端が、昨日のお二人が語られたことなんだろう。

お二人の「子どもたちの姿」という自分の外側と「内省」という自分の内側との往復の途方もなさを、きっと感じ取って、その姿に、自分自身を重ね合わせ、最初に書いた「刺さる」という感覚に至ったんだろう。

それは、どこまでも誠実で謙虚な営みだ。

自分はそこまで誠実に謙虚に、日々の実践を積み重ねられているだろうか。

そんなことを思った一日だった。

借りてきた誰かの言葉で語ってしまう誰かの実践でなく、自分の言葉で語れる自分の実践を積み重ねていきたい。