ストライダーに思う。 254
先日、友人の自宅に遊びに行った時に、下の子がストライダーに乗っていた。
チャリンコのペダルがないやつ。
最近の子は、このストライダーに乗っているおかげか、自転車に乗れるようになるのが本当に早いそうだ。
自分が子どもの頃には考えられないことだ。
まず、こまつき自転車に乗り、自転車のペダルをひたすらこぐことを覚える。
それから、いよいよこまを外し、長い長い練習がスタートする。
何度もこけて、ひざやひじをすりむいて、痛くて涙する。
だんだん怖くなってきたりするときもあって、練習が嫌になる。
でも、自転車に乗れるようにはなりたい。
その感情の狭間で葛藤を繰り返し、ようやく乗れるようになる。
ストライダーに乗っている今の子たちは、そんなぼくらの子どもの頃のような苦労は知らないのだろうか。
「早い子は3歳や4歳で自転車に乗ってるで」と友人が言うから驚いた。
でも、よくよく考えてみれば、そりゃあそうか、とも思う。
ストライダーを使って子どもたちが学んでいるのは、ペダルをこぐことではなく、二つの車輪で、バランスを取りながらまっすぐ進むことである。
バランスを崩しそうになれば、すぐに両足をつけばいい。
最初から、まるごと自分にコントロールが委ねられている。
自分でやってみて、バランスを感じて、感じた結果から、調整をして、の繰り返しが自然と起こる。
こまつき自転車だとこのバランス感覚は養えない。
崩れそうになるバランスは、本人がそうと感知することなく、後輪の両サイドについた補助輪が支えてくれるからだ。
安心感はあるだろう。
こまつき自転車に乗っている間、バランスを崩さないことは保障されているようなものだから。
本来、自分で取るべきバランスを、完全に自分以外のものに委ねているのだ。
つまり、バランスに関しては、完全に思考停止の状態。
それが、ある日、いきなりこまを外されて、バランスをとりつつ、ペダルも漕ぐという世界に放り出されるのだ。
思考停止していたものをいきなり考えるというのは、なかなかにハードルが高い。
これって、今の学校現場にも言えるんじゃないだろうか。
こまつき自転車でペダルをこいで走れるようになった子を見て、「成長したなあ」と満足していないだろうか。
補助輪をつけることを無条件で推奨して、それで走っている子を見て、補助輪の効果に微笑んではいないだろうか。
最終的な目的である「自転車に乗れるようになる」を考えた時に、ストライダーのような手立てを、枠組みを考えられているだろうか。
子どもたちが自分で感じて修正できて、失敗しても安心安全があって、コントローラーは自分の手の中にあるという感覚を持てるような。
そんなことを思った、ある日の夏の昼下がり。