少しずつ、続けていくということ。 208
2学期に入って、週に1回、基本的に金曜日の朝に対話型鑑賞に取り組んでいる。
行事ごとの多い2学期なので、毎週欠かさずできているわけではないが、少しずつ回数も積み重なってきた。
鑑賞に使う作品は、「教えない授業」という以下の本の中で扱われている作品からスタートした。
そもそも対話型鑑賞を2回ほどしか経験したことがない。
当然、ファシリテーターなどやったことがない。
でも、とりあえず「やってみる」と決めて、始めた。
何事にも「初めて」はある。
だから、そこに戸惑っていては時間がもったいない。
プロトタイプ思考で、やってみて、そこから考えて、またやればいい。
自分にプレッシャーをかけず、楽しんでやろうと思った。
そうは言っても、第一回は緊張した。
鑑賞を録音していたのだが、まあ、固い固い。
なんて本番に弱いのか。
嫌になるが、これが自分だから仕方ない。
でも、回を重ねていくにつれ、自分自身も楽しめるようになってきた。
相変わらずファシリテートはポンコツだけど、子どもたちから出てくる様々な考えを構えずに心からともに楽しむことができるようになってきた。
そして、先週、6回目の対話型鑑賞をした。
鑑賞したのは「仔鹿」という作品。
青みがかった緑色のぼんやりした背景の中に、後ろ向きで首をひねって辺りを見回すようなピンク色の仔鹿が一匹、これまたおぼろげな輪郭で描かれている作品だ。
この作品を選んだのは、これまでの対話型鑑賞での失敗から原因を考えた末、条件に当てはまる作品だと思ったからだ。
その条件とは、「情報量がそこまで多くない」ということだ。
特に、うちのクラスの子どもたちは、全体を見るという事をあまりしない。
どちらかというと、細部のよく見ないとわからないようなところに目が行く傾向にある。
それはそれでいいところでもあるのだが、そればかりが続くと、全体としての作品の解釈へと対話が展開しにくいことが何度かあったのだ。
それぞれが、自分の見つけた細かいところについて話し、互いの意見がうまくつながらなかったのだ。
いうなれば、「誰がより細かいところを発見できるか選手権」。
そこには、他者の考えを受けて、改めて作品を見直し、解釈を紡ぎ直してみる営みが薄かった。
もちろん、私のポンコツファシリテートがうまくいかない最大の要因ではあるが…。
また、パッと見て、なんとなく、全体のストーリーが見えやすい作品もあまり適していないことに気づいた。
ストーリーが序盤で固まってしまい、なかなか新しい見方が生まれにくいからだ。
「仔鹿」はそれらの条件をクリアしている作品に見えた。
だから、この作品を採用して、6回目の対話型鑑賞に挑んだ。
6回目にもなってくると、ポンコツファシリテートも、基本的な問いかけなどは、スムーズに出て来るようになった。
そして、これまでの失敗から少しずつ修正してきて、初めて少し対話型鑑賞がうまくいったと思えた。
子どもたちは、適度に制限された情報量の中で、じっくりと作品を見て、気付いたことを話していった。
情報量が少ないことで、「もっと情報が欲しい」というある種の飢えを生んだのかもしれない。
いつも以上に、友だちの話に耳を傾け、それを手掛かりに、また作品に戻って、新たに気付いたことを話し、相互作用的に解釈を深めていった。
しばらくは、今回の様に、情報量をある程度セーブした作品で、対話型鑑賞を続けていこうと思っている。
もう少し、抽象的な作品でもおもしろい展開になるかもしれないとも感じる。
情報量の少ない抽象画だと、その少ない情報から、より様々な解釈が生まれ、相互作用が期待できると予想されるからだ。
そこを楽しんで、対話本来の喜びを充分受け取れるようになってきたら、そこでまた新たな作品にもチャレンジしていきたい。
答えのない問いに、子どもたちと一緒に最適解を探していく営みの面白さを感じることができた、私にとってはのちに転換点と呼べるような対話型鑑賞だった。
一気にファシリテートはうまくならないし、作品を選ぶ視点もまだまだ未熟だけど、
「やってみること」「続けていくこと」「楽しんでやること」
この3つはいつも忘れず、継続していけたら、また新たな世界が見えてくるかもしれない。
そんな気がしている。