小学校教員にょんの日々ログ

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「JOKER」鑑賞。 201

先週、現在公開中の映画「JOKER」を観に行った。

バットマンの悪役、ぐらいしかジョーカーについての知識がない。

というか、そもそもバットマン自体もほとんど知らない。

そんな状態で観に行って楽しめるのか、少しの不安もあったが、とても気になっていたので、思い切って観に行った。


『ジョーカー』心優しき男がなぜ悪のカリスマへ変貌したのか!? 衝撃の予告編解禁

 

悪のカリスマ、ジョーカーがいかにして誕生したのかを描いた本作。

何よりも、主演のホアキン・フェニックスの演技に飲み込まれた。

狂気に呑まれていく主人公アーサーを、文字通り狂気に満ちた演技で演じ切っていて、圧巻の一言だった。

アーサーは、精神に病を抱え、突然笑い出してしまう癖を持つ。

周りには理解者もおらず、ボケた母親とボロアパートでの二人暮らし。

母親は昔世話になったという人に届かない手紙を送り続け、ピントのずれた会話をアーサーと交わすが、その目にはアーサーは像を結んでいないように見える。

コメディアンを目指すアーサーの仕事は、ピエロの仮装をしての宣伝。

しかし、その姿を町の不良少年たちにバカにされ、職場の同僚からも気色悪いと気味悪がられる。

 

だれも、アーサーを見ようとしない。

だれも、アーサーの存在を気にしない。

劇中、アーサーは徹底して、その存在を無視され、見捨てられ続ける。

世界が、自分を映し出す鏡であるならば、アーサーの鏡には、自分の姿が写っていない。

そんな鏡の中に、自分を探して、アーサーはもがき苦しむ。

でも、その足掻きもむなしく、現実は、世界は、アーサーを見ようとしない。

その描写は、フィクションと分かっていても、心が軋むような苦しさを伴う。

唯一、心を開いてアーサー本人を見ようとしてくれていた隣人の若い母親とのわずかな希望を感じるやり取りも、実はアーサーの妄想であったことが終盤で発覚する。

この場面の、心に大きな刃物が刺さるような、アーサーの孤立の深さに肌が泡立つような、あの感覚は忘れられない。

そう、アーサーは、孤独なのではなく、孤立していた。

それも徹底的に。

そんな自分を慰めていたのは、主観で自分の都合のいいように作り上げた妄想だった。

どこまでも救いのないアーサーは、じわじわ蟻地獄に嵌まるように、その身を狂気に溺れさせていく。

ある事件を契機に、その孤立と狂気は加速していく。

どれだけあがき続けても、世界から見向きもされなかったアーサーが、世界を見限った途端、世界からジョーカーとして崇拝の対象に変わっていく皮肉さは、まさにピエロにふさわしいなと思ったりもした。

 

自分が存在していないような、世界から必要とされていないようなアーサーが抱く心細さに猛烈に感情移入してしまった。

それは、きっと誰しもが感じたことがある類のものだと思う。

だからこそ、ジョーカーは生まれ、悪のカリスマになっていったのではないだろうか。

誰しもが心に大なり小なり抱える不満、不安、焦り、苦しさ。

そんなものの集合体がジョーカーであるように思えてならない。

アーサーだけじゃない。

母親もそうだし、職場の同僚もそうだ。

みんな心に闇を抱えている。

アーサーがその身に宿す闇が臨界点に達し、ジョーカーが生まれたことが発端になり、街はジョーカーを中心とした狂気の渦に飲み込まれていく。

客観的に見ると、ただの殺人者であるジョーカーに、それでもどうしようもなく感情移入をしてしまうのは、誰の心にもジョーカーが棲んでいるからだ。

誰しもが、自分の力ではどうしようもない不条理に対峙しているからだ。

 

誰か一人でも。

世界にたった一人だけでも。

アーサーと向き合ってくれる誰かがいたならば。

そう思わずにはいられない。

映画を見終わった今でも、祈らずにはいられない。

 

そして、自分は、どうだ。

ふり返る。

たくさんの人の顔が頭に思い浮かぶ。

足りない何かを数えるんではなく、今あるものを確かめよう。

アーサーにどこまで感情移入しても、こちら側の世界に戻ってこれるのは、きっと思い浮かんだ顔の人たちのおかげだ。

大切にしなければ。

そんなことを思った。