小学校教員にょんの日々ログ

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誰のための、何のための。 182

ちょうど10日前。

みん職オンラインで、イエナプラン教育についての講座があった。

ゲストスピーカーは、日本にイエナプランの考え方を広めたイエナプランの第一人者、リヒテルズ直子さん。

イエナプランについては、オランダの教育ということ、日本でも最近、大日向小学校や今後開校予定の軽井沢風越学園などのイエナプラン教育の学校ができてきていること、そして、名古屋や広島でイエナプランの導入が検討、あるいは、決定しているということ、それぐらいだ。

私が知っているこれらの情報は、しかし、イエナプランの本質にはたどり着いていない。

でも、興味はある。

すごく、ある。

なぜ、イエナプランなのか。

今の日本とイエナプランの親和性はどこにあるのか。

公立小学校において、イエナプランを導入することは可能なのか。

さまざまな問いが頭の中でぐるぐると回る。

関連書籍を探したことも一度ではない。

しかし、圧倒的に情報が足りない。

いや、私の情報の探し方が甘いのかもしれないが。

なんにせよ、いまだその具体がイメージできていないイエナプランについて知り、学ぶことで、自分に、そして、自分の受け持つ子どもたちにフィードバックできることがあるのではないか。

そんな思いから、告知があったときに、即参加を決めた。

 

このイエナプランについてのオンライン講座は、2年間をかけて開催される長期講座。

その第1回の今回は、ずばり、「イエナプランとは何か?」ということについて、リヒテルズ直子さんのお話を中心に進んだ。

 

イエナプラン教育とは、学術的な知識やスキルだけでなく、心や手の発達を学ぶためのものである。

イエナプランが生まれた背景には、産業革命の影響が大きい。

当時、「国民の価値は一人一人同じ。だから平等なチャンスを」という考えのもと、教育が整備された。

しかし、それはいつしか、国を強くするためのシステムに変わってしまった。

「教育」が手段になってしまったのだ。

 

今の日本は?…。

 

時はめぐって、現在。

世界には、様々な解決すべき問題が山積している。

貧富の差、環境問題、etc…。

それらを何とかしなければいけないという逼迫した状況から、オルタナティブ教育が誕生することになる。

そんな中、ドイツの大学教授だったペーターセンは、「人間としての子どもを育てよう」、とイエナプランを創始した。

自ら社会に参加し、より良い社会のために働きたいと思えるようになるための教育を目指した。

 

ざっくりとそうしたイエナプランができるまでの流れも教えていただいた。

「今の学校は、一つの力だけを求めすぎて、その他を軽視している」とリヒテルズさんは言う。

そもそも、一人一人持って生まれたものは違うという当たり前の前提。

そうであるはずなのに、教育が求める枠に当てはまらない子は、肩身が狭い思いをし、結果、自己肯定感はどんどん低下していく。

まさに、今の日本の教育には、そういう負の部分があちこちで見られるようになっているのではないか。

「一人一人みんな違う人間である」という厳然たる事実、そこに本当に向き合うとはどういうことなのか。

その事実を受け止めるならばこそ、自分と他者を同時に大切し、互いに認め合う教育であるべきなのでは。

そんな教育を実現するために、イエナプラン教育では、本物のものや事柄を対象にし、本物の自分を見出し、本物の問いを大切にする。

答えを大切にする今の日本の教育とはずいぶん違う。

本物の世界に触れると、「問い」が生まれる。

その「問い」を大切にするのだそうだ。

その「問い」は出来合いのものではないからこそ、答えがないこともしばしばである。

でも、「答えを見つける」ことよりも、「問い続ける」ことの方が大事だとされる。

探求学習が重要だとされているのも、この「問い続ける」ことにつながる。

イエナプラン教育における学校の役割は、「社会を今よりももっと良くすること」であるという。

国と国が分断されている今、「そうじゃない」と言える人を一人でも多く。

そんな世界を願い、イエナプラン教育は発展してきた。

 

リヒテルズさんの一言一言が、日本の公立小学校で働く自分に刺さる。

刺さるのは、自分が教育というものの本質を見ていないからだ。

見ようとしなかったからだ。

知ろうとしなかったからだ。

今の当たり前を生み出したのは、今を生きる子どもたちではない。

そこに子どもたちの声は、反映されているのか。

私たちに、子どもたちは本当に見えていたのか。

 

「誰のための、何のための教育なのか。」

 

「子どもたちのため」と信念をもってやって来た自分のはずなのに、改めてそう問われると、自信を持って、口から出る言葉がない。

その事実に絶望に近いショックを受けた。

今も、そのショックのただ中にいる。

信念は確かに持っていた。

それは確かだ。

でも、一度持ったその信念は、持ったという事実に満足して、磨いてこなかったのではないか。

信念を叩き、鍛え上げてきたのか。

そのおぼろげな輪郭の解像度を上げる努力をしてきたのか。

不易流行を便利な言い訳にしていなかったか。

現状維持は、衰退だ。

変わらないために、変わってこれたのか。

 

「誰のための、何のための教育なのか。」

 

その問いに対する明確な答えは、まだ自分の中に、ない。

でも、このままじゃあだめだ、と今の自分は思っている。

だから、まだ遅くない。

イエナプラン教育でも言っているじゃないか。

「問い続けることが大事だ」と。

イエナプラン教育を形だけ真似して、取り入れた気になっても、それは何の意味もない。

この長期講座を通して、問い続けていきたい。

「誰のための、何のための教育なのか。」

この問いの答えを探し続けたい。

そうすることは、自分の実践が、形だけの、方法論的なものに終始してしまうことを防ぐことにつながる気がする。