小学校教員にょんの日々ログ

毎日の出来事や考え、思ったことなどとにかくアウトプット!

learn × creation② 164

learn × creation(以下 lxc)一日目の最初に選んだのは、

 

「対話型鑑賞(アーツ×ダイアローグ)体験会&ディスカッション」

 

以前から「対話型鑑賞」というものに興味があって、

少し前に、このブログでも読書記録として「対話型鑑賞」の本について書いた。

 

yamanyo.hatenablog.jp

 

授業でも、この「対話型鑑賞」のアプローチを取り入れて、

学びをデザインできるのではないかという期待感があり、

そのためにも、まず自分自身が「対話型鑑賞」を一度体験してみたい

と思っていたので、プログラムを見て、早い段階から参加を決めていた。

 

lxcでのこのワークショップは、「アーツ×ダイアローグ」について、

最初に簡単な説明があった。

 

知識に頼らず作品をよく見ることからはじめ、「これは何だろう?」と一人一人に考えることをうながし、様々な意見を引き出しながら、作品の見方を深めていく鑑賞法。

 

「鑑賞」と聞くと、なんだかすごく難しそうな、

センスが問われているような、

ちょっと腰が引けるような印象が 自分にはあった。

でも、この「対話型鑑賞」の中では、それぞれの持っている知識に

差があろうがなかろうが、問題ではない。

その場にいる参加者が、全員フラットな立場で「鑑賞」ができる。

その場の設定が、まずすごく心地よかった。

「何を発言してもいいんだ」という安心感が、

場の設定に、すでにあった。

進行役の方も、あくまでファシリテーターであり、

持っている知識でもって、作品の解説をはさんだりしない。

そして、一人一人の意見をしっかりと受け止めてもらえるので、

安心感は、鑑賞が進むほど増していった。

この参加者の発言を受け止めるファシリテーターの在り方は、

今朝がた参加させてもらった「みん職」での

コーチングの考え方にも通じるものがあるなと

今そのリンクを感じている。(このことについては、また今度)

やはり、「対話」の場では、まず安心・共感が必要不可欠なのだ。

 

対話型鑑賞では、プロジェクターで映し出される1枚の作品を、

まずじっくり「みる」

この時、だれも発言はせず、ただ黙ってじっと「みる」

やってみて思ったが、みる作品によって、

自分の内側の言葉が多かったり、少なかったりした。

「少ない」ときは、少し不安に感じることもあった。

その不安は、「え、どうしよう。全然気づくことがないぞ。」

という焦りにも似た気持ちだ。

でも、結果的にこの不安は杞憂に終わる。

この後の対話的なプロセスの中で、

他者の意見を聞いて、

どんどん自分の中に新たな考えが浮かんできたからだ。

「みる」のは、時間にして、1~2分くらいだった。

その後、作品を見て気付いたことや思ったこと、感じたことを

自由に発言する時間になった。

口火を切るのに少し勇気が必要だったのは、

自分が大人だったからかもしれない。

子どもたちなら、きっとスムーズに発言してくれるんじゃないか、

クラスの子どもたちの顔を思い浮かべながらそんなことを思った。

 

最初の方が発言されてからは、

自分自身の鑑賞がどんどん深まっていくのを感じた。

「深まる」というのは、他の参加者の方の発言を聞いて、

自分にはなかった視点を得ることができて、

その新しい視点で改めて絵を見ると、

今まで考えもしなかったようなことが思い浮かんだり、

その新たに思い浮かんだことが、思いがけず、

最初に自分が考えていたことと新たなつながりが生まれたりしたからだ。

そうなってくると、「言いたい」という気持ちが自分の中で芽生えてくる。

そして、挙手制で当ててもらい、自分が今考えていたことを発言すると、

それを受けて、また別の方が付け足して、新たな解釈を生まれる。

あの場で私が心の中で感じたり、考えたりしていたことは、

きっと大なり小なり参加者全員に起こっていた現象だと思う。

 

「対話型鑑賞」では、「みる」→「考える」→「話す」→「聴く」

の4つのプロセスをぐるぐるループする。

この4つが、鑑賞が進むほどスパイラルに深まっていく。

そして、すごく感動したのが、

このプロセスをたどっているうちに、

自分の中に「自分の問い」がいくつも生まれてくることだった。

 

「あの人は、こう言っていたけど、だとしたら、あれはなんだ?」

とか、

「あそこをこうみたとしたら、なぜこっちはこうなっているのだろう?」

とか、

そういった問いが次々に、そして自然に自分の中に生まれていた。

 

学校現場で日々授業をしていて、

出来合いの「問い」ではなく、

子どもたちの心の底からの「問い」をスタートに、

様々な学習を進めていくためにはどうすればいいのだろう。

ずっと考えてきた。

教科書があり、単元があり、

その中でどうやって子どもたちに自ら

学習の「問い」を見つけるきっかけを作ることができるのか。

どうしても、そこには「この力をつけさせたい」

という教師側からの介入があり、(それが必ずしも悪いというわけではないが)

「学び」が100%子どものものではないような、

違和感というか、モヤモヤしたものを抱えていた。

 

そういうもやもやへの一つの突破口になるのではないか、

実際に自分で対話型鑑賞を体験してみて、その思いは強くなった。

対話型鑑賞というアプローチは、とても汎用性が高い。

今回の作品は「絵」だったが、

これが「写真」でも「彫刻」などの立体的な作品でも構わない。

そう考えると、「グラフ」や「図」なども、

一つの作品として、対話型鑑賞で扱っていけば、

社会や理科、国語でも導入できそうだ。

「音楽」でも同じようなことが可能ではないのか。

 

「体育」などでは、ICTを活用して、

マット運動などのフォームを動画撮影し、

それを見ながら、改善点を共有する実践などは、

比較的あちこちでされているだろう。

あれも構造的には、

作品=動画があり、

みんなで「みて」「考えて」「話して」「聴いて」

浮かび上がってきた改善策を実際に試して、また動画を「みる」

 

もちろん、このプロセスさえたどれば、

オールOKというわけではない。

ファシリテーターが非常に重要な役割を果たすからだ。

 

この日、ファシリテーターをしてくださった方は、

参加者が発言をすると、必ずと言っていいほど、

「なるほど。それってどこからそう思われました?」

と質問を投げかけていた。

過去記事で書いた本でも読んだことだが、

「なぜ」とは質問しない。

必ず「どこから」だ。

この「問い」によって、

鑑賞の目は、必ず作品に戻っていく。

そして、発言が作品のどこの何に注目してのことなのか、

ファシリテーターがかならず指差しをして、

焦点化してくれるので、

参加者はみんな、作品のどこについて話しているのかを

確実に共有することができる。

そして、ファシリテーターは、さりげなく、

鑑賞者同士の共通項を見つけ、グルーピングしてくれたり、

鑑賞者の発言を整理して、言い換え(パラフレイズ)してくれたり、

要所要所で、鑑賞の場がスムーズに進んでいくように、

絶妙のタイミングと内容で、合いの手を入れてくれていた。

このあたりのテクニックは、

ファシリテーターとしての研修を受けないと

なかなかその神髄を全て理解して、

実践の場でスムーズに場をコントロールすることは

できないのではないかと思った。

でも、「対話型鑑賞」の参加者の中に、

どんどん「問い」を生んでいくシステムは、

やはり非常に魅力的で、

自分にファシリテーターとしての力をつけるのは、

もちろん必要で、早いに越したことはないが、

それでも、段階的にできる範囲で、

授業に導入していこうと思えた。

 

対話型鑑賞では、正解が一つではなく、

自分で答え(納得解)を生み出すしかない。

でも、だからこそ良い。

子どもたちは作品を通して、

自分の解釈で作品をストーリーにして表現する。

実際自分がそうだった。

鑑賞が終わってみれば、

始めた時には思いもしていなかったストーリーが

自分の中に生まれていた。

そして、自分の中の「解釈」を深めるヒントが欲しくて、

自然と他の参加者の方の意見を「傾聴」していた。

「傾聴」の必然性が自然にそこに存在した。

「他者の意見受け入れ、積み重ね何かを生み出す」

それも対話型鑑賞の魅力の一つだと感じた。

 

まだまだ一回体験しただけで、何もかも分かったわけではないけれど、

それでも、この体験は自分にとって大きな一歩だった。

実践の場で、アウトプットを重ねて、

より子どもたちの学びを促進する一つの手段として、

自分の中で育てていこうと思う。