4冊目「QJKJQ」 36
これは以前から出かける時の電車やちょっとした待ち時間などにちょこちょこ読み進めていた小説だ。
作者は、佐藤究さん。
以前読んだ「Ank:a mirroring ape」がめちゃくちゃ面白くて、徹夜で一気読みする勢いで読み切ったのを鮮明に覚えている。
そんな作者の江戸川乱歩賞受賞作がこちら。
主人公の市野亜李亜は17歳の女子高校生。
帯にあるように、市野家―父、母、兄、亜李亜の4人家族―は、全員が猟奇殺人鬼。
しかし、ある日、兄の惨殺死体が発見され、次の日、母が忽然と姿を消す。
亜李亜は父に疑いの目を向けるが…。
そんな流れで、後半にかけて、話は思わぬ方向に進んでいく。
とても無機質で淡々とした雰囲気が、
殺人が行われ、誰かの血が流れるにつれて、
物語に血が通っていく―体温を感じられる―ような不思議な感覚になった。
一つの謎が次の謎の呼び水となり、スパイラル的に物語のスケールが大きくなっていく展開で、後半に進むにつれ、ページをめくる手が加速した。
物語を読んで、真っ先に思ったのは、
「自分」というものの存在についてだ。
私は、何をもって私のことを「自分」と認識しているのか。
名前?性別?血のつながり?職業?感情?
普段そんなことは考えないが、
もし誰かに「あなたの存在を証明して。」と言われたら、
なんて答えるだろう。
思い浮かぶ答えのどれもが、何とも心もとなく思えてくる。
主人公市野亜李亜の身に起こる出来事を追いながら、
今、私を「私」たらしめていると「思っている」ものたちが、
実は全てまやかしだったら、と考えてぞっとした。
そんな事態に陥った時、人は自分のことを「自分」だと信じられるのか。
事実、今、目の前に見えているものすら、
光の粒子がものに当たって、吸収されないものだけ反射し、
それが、目の網膜をすり抜け、視神経から脳へ伝達され、「見る」という認識を生む。
自分が「見ている」のか、脳に「見せられている」のかもわからなくなってくる。
作中、エッシャーのだまし絵に言及する部分があるが、
脳が錯覚する以上、「何が正しいか」という真実は、思った以上にあいまいだ。
市野亜李亜の「確かだ」と思っていたものたちが崩れていく場面は、
先行きの不透明なこの世界を生きていくことそのものと共通点があるような気がする。
でも、だからこそ、そんな世界だからこそ、
「自分」で考え、「自分」で決断して、進んでいくしかないのかなと思う。
その「選択」や「決断」の積み重ねこそが、自分の存在の証明になるのだろうか。
「われ思う、故にわれあり」
そんな言葉が頭に浮かんだ。