スタバ。255
長期休みに入ってから、毎日のように近所のスタバに出かけている。
そこで、読書をしたり、課題をしたり、している。
家だとなかなか集中できない。
集中を妨げる誘惑が多いのか。
どうなんだろうか。
この辺、WELL-SPACEと関係してきそうだ。
そこを学んだら、家をもっと集中とリラックスの両立する環境にできるのかもしれない。
とりあえず、そんなわけで、今はスタバを使っている。
「スタバにいく」ということが、自分の中の「やるぞ!」って気持ちにスイッチを入れているところがある。
入り口を入ると、まず店内を見渡す。
それから、空いている席をいくつか見つけると、その日、やろうとしていたことを頭の中でイメージして、それにぴったりだと思う席を選んで荷物を置く。
それから、注文カウンターに行き、ドリンクや食べ物の注文をする。
今日の午前中も、そこのルーティンはいつもと変わらない。
でも、なぜか今日はやけに食べ物に目がいった。
思い返してみると、朝ご飯を食べていなかったことを思い出す。
ぼくの本能が、食べ物を見させたのかもしれない。
しばらくいろいろなラインナップのパンを品定めする。
ラップサンドおいしそう。
アツアツじゃないから、すっと食べれるもんな。
ああ、でもアツアツのツナチェダーチーズサンドもおいしそう。
溶けたチーズこぼさんと食べる自信はあんまりないけど。
いろいろ悩んだ末、時計を見ると、11時であることに気づいた。
「いや、あと1時間したら昼ごはん時やん。」
少し冷静さを取り戻し、食べ物から目を離した。
離れた目線が次の何かを視界にとらえる前のほんのわずかな瞬間。
「いらっしゃいませ。」と店員の若い男の子の声が飛んできた。
ぼくの視線はその店員さんに吸い込まれるように向かった。
「ご注文をお伺いします。」
淀みない言葉で、そう聞いてくる店員さん。
完全に不意打ち。
やられた。
食べなかった朝ご飯。
空腹。
本能で見とれた食べ物。
そして、意識の隙間を縫って飛んできた店員さんの声。
ぼくの意識は、メインであるはずの飲み物から完全に隔離されたところにあった。
どうしよ、全く飲み物決めてなかった。
「いや、別に今から決めたらええやん、焦らんでも」と言われそうだが、ちがうちがう、そうじゃない。
なんかありますやん、無言のプレッシャーが。
店員さんからのもそうやし、ぼくの後ろに並んでる人のもそう。
それを思うと、「ああ、早くせな!」って勝手に焦ってしまうのです。
そんな焦りは、僕の思考を「甘くなかったらもう何でもええや!」に変えてしまっていた。
そして、メニューに目をやると、「コールドブリューコーヒーフローズンレモネード」という必殺技みたいな飲み物が目に入った。
これにしよ。
「じゃあ、このコールドブリューコーヒーフローズンレモネードで。」
と言って思い出す。
あ、これ、前に飲んで、あんま好きじゃなかったっけ。
さらに焦る。
「えっと、コーヒーじゃなくて、ティーに変えてください。」
「かしこまりました。」と店員さん。
危なかったー。
気づかず頼んでしまって飲んでから、「うわ、これ好きちゃうやつやん。うえー。」とか思いながら、課題図書の「学習する組織」のサマリーつくるとか…。
自分が一番「学習してない」とか笑えん。
ひとまずコーヒーをすんでのところでティーに変えることができてほっと一安心。
と思ったら、まだあったとは。
「お客さま、ティーの方ですが、ブラックとパッションティーから選べるのですが、どちらになさいますか?」
まだ、分岐あったんですか!?
刹那、その二択に迷う。
いや、シンプルにブラックティーでいいでしょ。というにょんA。
いや、ここは普段あんまり飲まへん感じのパッションティーでいくべきちゃう。とにょんB。
誰にも知られず、脳内で繰り広げられるにょんAとにょんBの小競り合い。
時間にして数秒。
決着はついた。
「あ、ブラックで。」
「かしこまりました。」
ミッション完了。
ああ、よかった。
無事にプレッシャーを乗り越えて注文ができた。
だってさ、フローズンレモネードにパッションティーって、めちゃくちゃトロピカルやん!
今スタバ内にあるトロピカルな要素全部詰め込んだ感じやん。
もし注文してたら、「コールドブリューパッションティーフローズンレモネード」になってたんだろうか。
もはや、どれが主役なのかパッと見ではわからない。
どの単語がどの単語に係ってるねん。(エイゴワカラナイ)
でも、次から同じような焦りは感じたくないので、今日みたいに図らずも追い込まれてしまった時には、
「アイスコーヒー、トールで。」って定型文を言う練習しとこ。
ストライダーに思う。 254
先日、友人の自宅に遊びに行った時に、下の子がストライダーに乗っていた。
チャリンコのペダルがないやつ。
最近の子は、このストライダーに乗っているおかげか、自転車に乗れるようになるのが本当に早いそうだ。
自分が子どもの頃には考えられないことだ。
まず、こまつき自転車に乗り、自転車のペダルをひたすらこぐことを覚える。
それから、いよいよこまを外し、長い長い練習がスタートする。
何度もこけて、ひざやひじをすりむいて、痛くて涙する。
だんだん怖くなってきたりするときもあって、練習が嫌になる。
でも、自転車に乗れるようにはなりたい。
その感情の狭間で葛藤を繰り返し、ようやく乗れるようになる。
ストライダーに乗っている今の子たちは、そんなぼくらの子どもの頃のような苦労は知らないのだろうか。
「早い子は3歳や4歳で自転車に乗ってるで」と友人が言うから驚いた。
でも、よくよく考えてみれば、そりゃあそうか、とも思う。
ストライダーを使って子どもたちが学んでいるのは、ペダルをこぐことではなく、二つの車輪で、バランスを取りながらまっすぐ進むことである。
バランスを崩しそうになれば、すぐに両足をつけばいい。
最初から、まるごと自分にコントロールが委ねられている。
自分でやってみて、バランスを感じて、感じた結果から、調整をして、の繰り返しが自然と起こる。
こまつき自転車だとこのバランス感覚は養えない。
崩れそうになるバランスは、本人がそうと感知することなく、後輪の両サイドについた補助輪が支えてくれるからだ。
安心感はあるだろう。
こまつき自転車に乗っている間、バランスを崩さないことは保障されているようなものだから。
本来、自分で取るべきバランスを、完全に自分以外のものに委ねているのだ。
つまり、バランスに関しては、完全に思考停止の状態。
それが、ある日、いきなりこまを外されて、バランスをとりつつ、ペダルも漕ぐという世界に放り出されるのだ。
思考停止していたものをいきなり考えるというのは、なかなかにハードルが高い。
これって、今の学校現場にも言えるんじゃないだろうか。
こまつき自転車でペダルをこいで走れるようになった子を見て、「成長したなあ」と満足していないだろうか。
補助輪をつけることを無条件で推奨して、それで走っている子を見て、補助輪の効果に微笑んではいないだろうか。
最終的な目的である「自転車に乗れるようになる」を考えた時に、ストライダーのような手立てを、枠組みを考えられているだろうか。
子どもたちが自分で感じて修正できて、失敗しても安心安全があって、コントローラーは自分の手の中にあるという感覚を持てるような。
そんなことを思った、ある日の夏の昼下がり。
あなたの乗っている乗り物はなんですか。253
ご縁があって、ウェルビーイングの連続講座に参加している。
先日、その連続講座の第一回があった。
その中で、「あなたの乗り物はなんですか?」という問いがあった。
もちろん、今乗っている車の車種を聞かれているとかそういうことではない。
自分の人生を乗り物に例えるとすると、今どんな乗り物に乗っていますか?ということ。
ぼくは、少し考えて、スプレッドシートにこう書いた。
「原付」
もうちょいかっこいい乗り物に乗っていたかったと思わなくもないが、直感で決めた割には気に入っているし、確かに自分に合っているなあとふり返るたびに思う。
原付って、小回りが利く。
だから、いろんな小道に入っていける。
「小道に入っていける」というイメージが浮かんだ時に、自分の中で連想したのは、「道草」だった。
寄り道するのが、大好きだ。
予定にない道でも、その時「あ、いいな!」と思ったら、そっちに行ってみずにはいられない。
ただ、小道は、その先が行き止まりになっていることが多々ある。
残念に思いながら引き返しつつ、「でも、こんなものを発見できたなんてある意味ラッキーなや」とか、リフレーミングしてみたり。
一方、小道は、思わぬところで、大きな道に合流していたりもする。
ふと興味に引っ張られて飛び込んだ先が、自分の目的地への大きな道につながっている。
そこそこスピードは出るけれども、周りの景色も良く見えるし、風やにおいも感じることができる。
時折、スピードを出しすぎて、すっ飛ばしてしまうステキな景色もあるけれど。
前しか見ずに、目的地に向かうことだけ意識してて、気付くと燃料切れで動かないなんてことも。
そんな全てが、自分の人生と妙にリンクしているようで、原付に必要以上の愛着がわいてしまったぐらいだ。
ついつい横をすごいスピードでビュンビュン抜かれていくと焦ることもあるけど。
自分の人生がこのまま、原付のままなのか、どこかで違う乗り物に乗り換えるのか、それは今の自分にはわからないけど、まあ、自分のペースよなあ結局、と思う。
動き出した夏。252
31日で、1学期が終わった。
最初からペースがつかめず、最後までペースがつかめなかった1学期だったなあと思う。
だれが悪いというわけではないが、なぜか焦ってしまうような環境、ピリピリした雰囲気が学校全体を覆っていて、誰もが余裕のない中で、もがき続けた。
1学期が終わった今、ふり返ってみれば、「結構頑張ったんじゃないか自分」と思える自分がいる。
と同時に、突っ走っている最中に、自分をメタ認知することの難しさを感じた。
続けていたリフレクションが苦しかったのは、そんな枠組みの中からのリフレクションに過ぎなかったからなのかもしれないなと今では思う。
例えるなら、水中でおぼれているのに、「どうやったら上手に泳げるのか」と息を止めながら、考えているようなものかもしれない。
大事なのは、水面に顔を出して息をすることだった。
このタイミングで夏休みに入って、こうして少し1学期の自分を俯瞰してみることができて良かった。
さて、夏休みに突入してやっとゆっくりできる…とはならない。
自分で、この夏学びたいと思ったことがどんどん動き出しているからだ。
その一つ一つが、継続的な学びの場で、かなりアウトプットが多い。
でも、ワクワクしている自分がいる。
この夏の学びをどうやって2学期からの現場での実践に生かしていけるのか。
思えば、昨夏から今の状況に至る変化が起こり出した。
自分の中で、昨夏のきっかけが強烈なインパクトとして自分の中にある。
その残像が、今年の夏をまた「いいものにしたい」という自分の中のモチベーションにつながっている。
「学ぶ」とは、「私たちにとって意義のある、つまり、効果的なアクションを取れる能力を高めるためのプロセス」。
人は、望む姿があって、そこに近づこうとして学習する。
じゃあ、自分の望む姿って何だろう。
特に、ここ一年ずっと考えている。
「学校において、子どもたちが安心安全の中で自己選択・自己決定の経験を積み重ね、クラスづくりや学びに対してオーナーシップを持って過ごせる」
そんなビジョンはある。
「教える」ではなくて「ともにつくる」人として、伴走者として在りたいという望みもある。
まだまだ解像度が低いなあと思う。
けど、一年前と比べて、ずいぶん納得して言語化できるようになった。
これをいかに自分の言葉で語れるようになるか、借りてきた言葉ではなく。
これらのビジョンに向けて、その道中も楽しみながらこの夏を過ごしたい。
今年も夏が、動き出した。
「解決」にばかり目が向くとこぼれてしまうもの。 251
先週から始まった分散登校。
子どもたちに会えた2日間は、たった2時間だったとはいえ、とても幸せな時間だった。
ただ、一つだけ関わり方で後悔していることがある。
そのことについてきちんと書き残しておいた方がいいと自分の直感が告げているので、その直感に従おうと思う。
それは、分散登校2日目。
「ふり返りジャーナル」の説明をして、書き始めた時だった。
ある男の子が少しおびえたような顔をして、ぼくのところにノートを持ってきた。
「先生、名前の漢字まちがっちゃって…。」
そこには、へんとつくりが左右入れ替わってしまったその子の名字の一文字がネームペンで表紙に書かれてあった。
それを見たぼくはすぐに笑顔で、
「そっかそっか、大丈夫やで。この予備のノートがあるから、取り換えようか?」
と聞いた。
男の子は、ほっとしたような顔でこくんとうなずき、入れ替えたノートを持って自席に戻っていった。
その時は、無意識だったけれど、自分の中でその子の「不安」を解消してあげたいという気持ちが強かったと、今振り返って思う。
その判断や行動について特にどうこうはないのだけれど、それ以前に見落としてることがあるんじゃないか…と今も思っている。
2年生の男の子が自分の名前を漢字で書くという「チャレンジ」。
その子の名字はどちらもまだ習っていない漢字。
他の子が何人も「先生、名前習ってないけど、漢字で書いてもいい!?」とうれしそうに聞いてきていた。
そういう中で、彼もきっと刺激を受けて、「自分も!」と思ってチャレンジしたんだと思う。
そこに対する「承認」が欠けていたのではないか。
そんなことが頭から離れない。
「間違ったんかあ。そうかそうか。でも、自分の名前の漢字書こうと思って、チャレンジしてんなあ。ステキやなあ。ナイスチャレンジやわ。先生うれしいなあ、こうやって『やってみよう』って思って試してみるの。」
その一言があってから、「解決」でも良かったんじゃないかなあ。
子どもたちはこれからも、日々のちょっとした不安や不満を吐き出してくるだろう。
でも、いつもその「解決」にばかり目が向いてしまうことで、零れ落ちてしまうものがあるんじゃないか。
そういうところをていねいに掬い取っていける自分でありたい。
ただの観察です。 250
今週から分散登校が始まった。
二日間かけて、地区別でクラスの半分ずつ子どもたちが登校してくる。
会うのは2回目の子どもたち。
はじめこそ、緊張していたけれど、一緒に遊んだり、話したりするうちに、緊張もほぐれて、やわらかい笑顔を見せてくれるようになった。
そんな登校日のある男の子とのやり取りがもう最高におかしくって、今でも思い出して笑ってしまう。
それは、登校日の2時間があと10分ぐらいで終わる、というときに起きた出来事だった。
男の子「先生!俺の嫌いな食べ物何やと思う?当ててみて!」
ぼく「んー、そうやなあ。じゃあさ、3択クイズにしてよ。」
男の子「わかった!んー、じゃあ、いくでー!」
ぼく「はいはい、どうぞ!」
男の子「俺の嫌いな食べ物は何でしょう?」
ぼく「うんうん。」
男の子「一番トマト!二番…えーっと、何にしよかな…あ!わかった!二番コンソメスープ!三番はー…えーっとちょっと待ってな。んーっと…あ!麻婆豆腐!さあ、何番でしょうか!?」
ぼく「一番トマト!」
男の子「えー!?なんでわかったん!?」
最高かよ。
かわいくってかわいくって。
何度思い出してもにやけてしまう。
明日からの登校日第2弾が楽しみすぎて仕方ない。
処女作。 249
先日、オンラインのショートショート講座なるものを見つけて参加した。
昨年度の三学期に、作家の時間に取り組んでいたこともあり、「教師がたくさん書かなければいけない」を積み重ねようと思ったのがきっかけだ。
Peatixで偶然見つけて、何だか面白そうだったから気づけば申し込んでいた。
当日、少し緊張して参加したが、始まってみると、講師の方の説明がとてもわかりやすい上に面白くて、ワクワクしながら書いている内にあっという間に2時間が過ぎてしまった。
2時間前には全くのゼロ状態だったぼくの頭の中に、ショートショートが完成していた。
子どもたちとやってみても面白いんじゃないかと思った。
以下が、全く事前に考えることなしに2時間の中で一から完成させたショートショート。
仕上がりはともかくとして、やればできるもんだ。
「消したい過去」
あれは、ぼくが小学校4年生の頃だったと思う。家の近所の小さな文房具屋でおもしろい消しゴムを見つけた。消しゴムに内蔵されたAIが間違いを自動で判断して、同じく内蔵のスピーカーで教えてくれるというものだ。価格は500円と、普通の消しゴムにしては少し高い
と思ったが、勉強が苦手だったこともあり、貯めていた小遣いで買うことを即決した。
家に帰ってから、使ってみると、本当に間違えたところを教えてくれる。教えてくれる音声が予想以上に大きくてビックリしたが、消しゴム側面にあるボタンでなんとか調整できた。その日から、翌週のテストに向けて、ぼくは机に向かって勉強に励んだ。間違えたところがあると消しゴムが教えてくれるので、嘘のようにスルスルと勉強が進んだ。なぜか大阪弁なのも慣れてくると愛着がわいてくるものだ。そんなぼくの姿を見て、母はとても喜んだ。
テスト当日。スラスラと問題が解ける。終了まで10分以上を残して問題を全て解き終えた。そんなことは初めてだった。
残り5分を切ったころ、最後に見直しをしようと、テストを手に取ると、裏側が透けて見えた。
まさか…。慌ててテストを裏返すと、裏面にもびっしりと問題があった。
それまでの余裕は一気になくなり、慌てて裏面の問題にとりかかった。けれど、焦りのせいで思うように問題が解けない。
ああ、間違えた!くそっ!急いで消して書き直す。
…と、その時。「ちゃうちゃう!それ消さんでもそのままでおうてんねん!」
静かな教室に大音量の大阪弁が響き渡る。
ぼくの消したい過去の1つだ。