小学校教員にょんの日々ログ

毎日の出来事や考え、思ったことなどとにかくアウトプット!

きく。 233

今回の休校措置で予定していなかった時間が生み出された。

通知表や要録などの事務作業も、毎日やるところを計画的に決めて、コツコツ進めた結果、ほぼ終わった。

他にもやることはまだまだあるが、それでも時間に余裕がある。

ウイルス感染の対応や対策に追われている各所を思うと心苦しくもあるが、この生み出された時間を有効活用して学んでいくことで、それを子どもたちに還していけるようにしたい。

そんなことを思いながら、気付けば頭の中で今年度のふり返りをしている自分がいる。

この3学期の初めから書いてきたふり返りを見返したりもしている。

そんな中で、意識の上に引っ掛かって浮上してきたキーワードがある。

それが、タイトルの通り。

 

「きく」ということ。

 

日々の実践をふり返ってみると、本当に子どもたちの声に耳を傾けられていない自分の姿があぶり出される。

それは、ふり返りを書いている時ですら気づけないでいたことだったりするから、何とも痛みを伴うが、こればかりは仕方ない。

自分は自分以上に自分であることができない。

こうやって地道にふり返って繰り返し気付く体験を積み重ねていくことしかできない。

耳を傾けられていないなあと感じた場面は、様々だ。

休み時間、対話型鑑賞、作家の時間、その他の教科の授業などなど。

もちろん、対子どもだけにとどまらない。

最近、同僚の先生たちと話をする時間がぐんと増えたけれど、その中でも「きく」ことがまだまだ下手くそな自分がいる。

 

誰かの話を聞くと、その反応として、自分の考えを言うことが多い。

それ自体が完全に悪いことではないとは思うのだけれど、問題はそのバランス。

「1聞かれただけなのに、10返そうとする」だったり、「聞かれてもないのに、自分の考えをべらべらと話そうとする」だったり…。

「相手の興味関心への興味」<「自分の話」なんだろうな。

 

こういう態度の根底には、「自分の力で他者を変えたい」とか「自分の考えは正しい」みたいな、傲慢さがあるんだと思う。

そういう自分に気づくたびに、嫌になる。

もちろん、そんなあからさまには思わないにしても、「誰かに聞かれたから、自分が何か答えらしきものを与えてあげなきゃ」といった感覚があるのは事実。

頭ではわかっていても、なかなかこの呪縛から抜け出せない自分がいる。

何かしらのヒントや答えは、聞いてきた相手の外側、つまり自分の側にあると認識しているから、そういう態度として現れるのだろう。

だから、本当の意味で相手の内側をていねいに見ようとしていない。

心の底からそう思って行動していないことは、きっとどこかで表情や仕草なんかに出ているだろう。

 

そんなわけで、最近少しコーチングについて学んでいる。

まだまだ何かわかったり、できるようになったわけではない。

けれども、ちょっとずつ、「聴く」ことに向き合っていきたいなあと思う。

 

まずは、身近なところから。

最近、会話量が間違いなく増えている同僚の先生たちの話を「聴く」ことに徹底的にチャレンジしてみようと思います。

その中での気付きをまたどこかでまとめられたらいいなあと思っています。

情報ギャップ 232

昨日の昼食での会話。

A先生

「漢字の『番』って、訓読みでなんて読むんでしたっけ?」

ぼく

「『つがい』じゃなかたですっけ?『ちょうつがい』とかの。」

A先生

「あ、そっか!『つがい』って夫婦って意味ですよね?」

ぼく

「うん…多分。」

 

ぼくは、この時点で、「番」の持つ「つがい」という読みの意味に好奇心を抱いた。

A先生との会話の中で、「つがい」の意味をはっきりと説明しきれない自分に出会い、それが引き金となったのだ。

次の瞬間には、スマホの辞書で「つがい」の意味を調べていた。

なんとなく心の中に生じた好奇心もモヤモヤが少しずつ大きくなり、いてもたってもいられなくなったからだ。

 

会話は、「番」の字から続いていく。

 

B先生

「『番茶』の『ばん』って、その『ばん』でしたっけ?」

A先生

「そうそう。そういえば、番茶ってどういう意味?」

B先生

「え、そう言われてみれば。緑茶ってことじゃないんですか?」

A先生

「そうなん?知らんかった。」

B先生

「いや、私もはっきりとわかってるわけではないんですけど。」

 

ぼくは、この時点で「番茶」の意味に好奇心を抱いた。

次の瞬間には、スマホの辞書を立ち上げて、「番茶」について調べていた。

A先生とB先生の会話を聞く中で、自分自身の「番茶」についての理解も曖昧であることを認識したことが引き金となっていた。

「知らない」が「知りたい」を誘発し、「調べる」という行動に結びついたのだ。

 

この後、会話はなぜその流れになったかは別として、ヤマザキなんかが発売している蒸しパン「マーラーカオ」の話になった。(みなさん、知ってますか?)

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他の先生たちが「マーラーカオ」を知らなくて、ぼく一人だけ、その事態が信じられなくて、ものすごくびっくりした。

それはさておき、ぼくに関して言えば、「マーラーカオ」は、小さい頃から我が家ではおなじみのパンであり、当然よく知っている。

なので、「マーラーカオ」に関して、特にこの時点で好奇心はなかった。

でも、自分は知っているのに、周りの先生は知らないという状況が、その場に対話を生むきっかけになっていた。

他の先生たちから質問が飛ぶ。

マーラーカオって何ですか?蒸しパン?他の蒸しパンとどこが違うんですか?」

「普通の蒸しパンと材料違うんですか?」

「なんでマーラーカオっていう名前なんですか?」

で、そんな先生たちよりはるかにマーラーカオとの付き合いが長いはずのぼく。

が、その質問に答えられない。

今までそんなこと考えたこともなかったから。

対話の中で、マーラーカオについて自分が実はあまり知っていなかったという認識を得た。

「知らない」→「知りたい」→「調べる」

で、調べたことをもとに、対話を重ねる。

そんなことが昼ご飯のときに、およそ1時間ほど繰り広げられた。(ヒマか。)

 

で、何が言いたいかと言うと、好奇心って情報ギャップからスタートすることが多いなあってこと。

なんでこんなことに気づいたかというと、今読んでる本の中に、「情報ギャップが好奇心を生む」って部分があって、なんかそこが引っかかったから。

 

で、そこから、自分の授業を考えてみた。

「子どもたちが主体的に学ぶ」ってことは、もう耳にタコができるほど聞いた言葉。

先生たちとの対話の中でも、「どうすれば子どもたちが主体的に学ぶ授業ができるんだろう?」ということはよく話題に上がる。

でも、だ。

そもそも思考で考えてみた時。

ぼくを含めて、「子どもの主体性」を出発点に考えようとしすぎていないか?と思った。

その主体性のもとになる好奇心はどうすれば生まれるのか。

本来的に持っている部分はもちろんあるんだろうけれど、それを刺激したり、膨らませたりする「情報ギャップ」への意識が自分自身薄かったなあと思う。

「興味関心」という言葉でくくってしまって、思考停止になっていた部分があった。

そうじゃなくて、「興味関心がなぜ生まれるのか」というプロセス部分にもっと目を向けて、そこを紐解いていくことで、もっと授業に生かせる部分があるんじゃないか。

ここから考えると、子どもたちの興味関心を出発点に…の前に、そもそもその「興味関心」を生み出すために、いかに、子どもたちの情報ギャップを生み出すか、それも難しすぎず、簡単すぎず。

子どもたちにとってちょうどいい「知らない」をいかにデザインし、「知りたい」につなげるか。

自分には、欠けていた視点だなあと昨日の対話と、読書の一部からそんなことを思った。

だから、日々、目の前の子どもたちを見取ることがここでも生きていくのだ。

だからふり返ることは何重にも意味を成してくるのだ。

 

こうやって、ふり返りから離れてみることで、気付けることも案外あるのかもしれない。

新しいことを始めるには、まず「終わらせる」ことが大事。

それも今読んでいる本の中に書いてあった。

また、読み終えたら、読書記録をつけよう。

 

 

36冊目「流動型『学び合い』の授業づくり」 231

今年度36冊目の読了はこちら。

 

 発売前から、読もうと思っていた一冊。

先日、一部だけだがオンライン学習会で読書会をした。

そのまま、続きを一人で読み進め、今しがた読了。

 

易しい言葉で、わかりやすく、すいすい読めた。

『学び合い』の授業が、一時間から複数時間、単元、教科横断型…と、

なぜそんな風に進化していったのかが、クラスのエピソードと合わせて書かれていた。

もちろん、それらの実践をどう進めていくのか、

いわゆる「HOW TO」の部分もとても勉強になったのだけれど、

ぼくが刺さったのは、そこではなくて、やっぱり「在り方」に関わるところ。

今年度が始まって、夏ごろから特に、ずっと自分の中にあるキーワード。

そこに触れる部分がやはりひっかかる。

今の自分は、きっとそういう部分をなんとかしたい、しなければ、

というモードなんだと思う。

 

①「一人も見捨てない」

『学び合い』を知ってから、この言葉は何度も目に、耳にしてきた。

でも、言葉に共感することと、それをわかって、日々実践することとの間には、

ものすごく大きな壁があると思っている。

言葉を知って、分かった気になるのは本当に簡単だ。

そして、その言葉の定義や輪郭があいまいなことにも気づかないで、

「自分もそう思ってやっているし、様々な工夫や努力をしてる。」

そう自分に言い聞かせて、思考停止してしまっていないか。

僕自身、著者の「一人も見捨てない」という覚悟に触れた時、ドキッとした。

その、「ドキッ」は、きっと自分の浅はかな部分に自分自身、罪悪感を感じている部分があるからだと思う。

日々の実践の中で、「努力」という言葉で簡単に片づけて、

見ようとしてこなかった子どもたちの姿があるんじゃないのか。

何となくどこかでわかってはいるけど、

無意識に見えないものとして片付けてしまっているもの。

もちろん、人間だから、そういう弱さは誰だってある。

だからこそ、そういう部分もふり返って、向き合っていかなければいけない。

 

②「見ようとするようにしか見えない」

人は、だれでも自分が「見たいように見る」生き物だ。

その時の自分という人間のフィルターを通してしか、世界を見ることはできない。

何のフィルターも通さずに、世界を見ることができる人など、

きっとこの世に存在しない。

だからこそ、自分がどんなフィルターを通して、世界を見ているのかに、

できるだけ自覚的でなければいけないと思う。

ここを忘れてしまうと、目の前の子どもたちの姿を、

自分の実践に都合がいいようにとらえてしまう可能性がある。

誰しも、自分の実践に効果があると思いたい側面がある。

その側面によるフィルターに自覚的でないと、

子どもたちの本当の姿は見えない。

 

③結果としての流動型『学び合い』

高橋先生は、1時間での『学び合い』を実践しているときから、

この本でいう現在の最終形「流動型『学び合い』」の姿を

思い描いていたわけではない。

ひたすらに、目の前の子どもたちと向き合い、

実践研究を積み重ね、自分をアップデートし続けた結果、

この「流動型『学び合い』」にたどり着いた。

 

これ、今書きながら、全然ジャンルの違う日食なつこの

一昨年の「sing wellツアー」のことを思い出している。

あのツアーでの彼女は、変化させたくない大切なことを

ブレずに自分の軸にしていくために、

変わることを恐れない、ように僕には見えた。

そんな彼女の姿と、高橋先生の歩んできた道のりが自分の中で重なった。

「変えないために、変わる」

これって、すごく大切なことなんじゃないだろうか。

「変わるからこそ、変わらないでいられる」とも言える。

 

目の前の子どもたちの姿をひたすらに見つめ続けてきて、

流動型『学び合い』にたどり着いた。

だから、この行程を同じようになぞったとしても、

高橋先生のようにはきっといかないと思う。

ぼくは、高橋先生ではないし、

クラスの子どもたちも高橋先生のクラスの子とは違う。

やっぱりきれいな道筋なんてなくて、

行き止まりだったり、回り道だったり、

そんなものを数えきれないくらい経験して、

悩んで、迷って、焦って、絶望して、振出しに戻って、

そんなことを経て、それぞれに、

それぞれの実践を作っていくしかないんだろうなあと思う。

それは、絶望でもあり、希望でもある。

 

本の構成上、一時間→複数時間→単元→教科横断→流動型と、

一方向に進んでいっているように読んでしまうけれど、

きっと行ったり来たり、飛んだり戻ったり、

そういうことが無数にあったんだろうなあと思う。

本書の最後に、「問い作り」の授業が出てきたのも、面白かった。

終わりはない。

目の前の子どもたちは日々変わるし、

日々変わるものに、「絶対解」なんてない。

それが面白さだし、難しさだ。

 

40歳まで、あと4年。

自分が40歳になった時に、振り返ったらどんな道ができているのか。

子どもたちの姿から、考え続け、実践を重ねていける自分でありたい。

何もない。 230

今、今日一日でやることの全て終えて、あとは寝るだけの状況でパソコンを開いている。

何について書こうか、全く思い浮かんでいない。

いつからだろう。

前は、あんなに書くことがあふれていたのに。

最近は、いつの間にか、優先順位がどんどん下がっていって、

今じゃあ、最下位だ。

でも、このブログを書くことで、気付けたことや残せた気持ち、救われた気持ち、忘れたくないことが確かにあって、

それらが頭の中の記憶の泉の底に沈んでしまう前に、

書き残せたことは自分にとって価値のあることだった。

だった?

過去形?

でも、こうして、何も書くことがないのに、思い浮かんだことを、

まさに徒然なるままに書いている。

先日久々の更新をしたばかりだが、

その一つ前はと言うと、1月13日。

その頃、自分に起きた変化と言えば、日々のふり返りを始めたことか。

毎日毎日、1時間目から6時間目までのことを、

放課後、パソコンで打ってふり返った。

ふり返ることで、気づけることがいろいろあった。

今まで立ち止まらずに流れていってしまっていたことの中に、

大切なことを見つけていくような作業だった。

日々の膨大な出来事の記憶の中から、ていねいに自分の言動や気持ち、

子どもたちの言動やその裏にあったであろう気持ちや願いなんかを

掬い取ろうと夢中になった。

その頃か。

このブログの更新が滞り始めたのは。

ふり返りというアウトプットに力を注いだ結果、

ブログでさらにアウトプットするという余力が残っていなかったのか。

じゃあ、今書くことが思い浮かばないのに、

なぜまたブログの記事を書く画面を開いて、そこに向き合っているのだろう。

なんとなく、書きながらわかってきているのかもしれない。

そんな感覚がある。

なぜ、またブログに向き合っているのか。

2月28日を一旦の区切りとして、勤務校も休校措置に入った。

先週から子どもたちは学校にいない。

けれど、ふり返りは毎日変わらずに書き続けている。

子どもたちがいないから、自分の日々の仕事内容や、

その時どんなことを考えていたのかなどを書いている。

けれど、正直、子どもたちが来ない日々のふり返りには、

気持ちが入らない。

ふり返りを始めた目的が「子どもたちとの日々をふり返ることで、子どもたちと向き合う自分を改善していき、子どもたちの姿をより良く見つめようとする中で、それを指導に生かす」ことだった。

だから、子どもがいない今の日々のふり返りが、

宙ぶらりんになっているのかもしれない。

宙ぶらりんになっているふり返りでは、アウトプットをしたという実感が得られにくい。

その結果、アウトプットをしようという自分の中の衝動が、

うまく消化できずに、どこかで「何とかうまくアウトプットしたい」という欲求が大きくなっていく。

その衝動の帰結として、今パソコンに向かい合って、

書くことも決めずにひたすらに瞬発的に思いついたことを書いているんじゃないのだろうか。

書いていて、そんな気がしてきた。

そんな気がしてきたなら、どうする?

やってみればいい。

子どもたちが来ない日々のふり返りをただただ作業的にこなすだけなら、

いっそ思い切って、子どもたちが来ないしばらくの日々は、

思いっきり自分に振り切って、ブログ更新に力を注ごう。

うん、それがいい!

そして、子どもたちとの日々が戻ってきたら、

またその日々を書き綴っていこう。

それまで、しばらくは充電期間だ。

なんならこの期間に、自分をアップデートさせていこう。

積極的に、失敗を恐れずに!

「書く」と決めてしまえば、書くネタを意識して日々を生活していくことは、

自分の癖として、自分が一番よくわかっている。

学級通信なんて、その最たるものだ。

 

というわけで、たった今決めた。

今日から、ブログしばらく毎日更新しよう!

どんなことでも構わない。

この子どもたちがいない日々を自分がどんなことに心を動かされて、

何を感じて生きていくのかを記録しておこう。

自分の手で。

想像力の筋トレ。 229

ぼちぼち、また書き始めます。

教育現場では、「他者への想像力」ということがしばしば言われたりします。

ぼく自身、この言葉を使って子どもたちに話をしたこともあります。

「他者への想像力」がないばかりに、

思慮に欠けた言動で誰かを傷つけてしまうことがあるからです。

もちろん、子どもたちに限った話ではありません。

ぼくだって、他者への想像力の欠如で、

どこかの知らない誰かや知っている誰かを傷つけている可能性があります。

 

…そんなことを考えながら、いつものようにバイク通勤で職場へ向かっていました。

前方の信号が赤から青へ変わりました。

バイクのアクセルをひねり、スピードを上げていきます…

と思ったら、一台前を走るおばちゃんのバイクが異常に低速。

ぼくは、想定を超える遅さに、ひねったアクセルをゆるめ、

同時にブレーキをにぎって、スピードを落としました。

 

おばちゃんのバイクは一向にスピードが上がりません。

 

「おいおい…何やってんねん、おばちゃん…。なんでそんなとろとろ…」

 

 

はい、ストップ!!

 

 

ストップです。

一旦、落ち着きましょう。

 

危ない危ない。

ゆうてるそばから、他者への想像力が欠如するところでした。

ここでイライラしては、そのイライラから視野狭窄に陥り、

いつ何時事故を起こすか分かりません。

冷静に。

他者への想像力を。

 

こういうときは、「そもそも思考」です。

「おばちゃんが異常に低速でバイクを運転している」という事象を、

「そもそも思考」から見直してみましょう。

 

「そもそもおばちゃんが異常に低速でバイクを運転しているのはなぜ?」

 

はい、「問い」ができました。

「問い」があると、考えたくなるのが人の性。

考えることで、様々な推測が生まれ、

そのことによって、冷静さを取り戻すことができます。

 

まずは、観察です。

ぼくはバイクを運転しながら、おばちゃんを観察しました。(前を見ろ)

すると、あることに気づきました。

なんと、おばちゃんは手袋をしていなかったのです。

その気づきによって、ぼくの頭の中に一つの仮説が生まれました。

 

「おばちゃんは、手袋をしてなくて、スピードを上げると、寒すぎて手がかじかむから、スピードが上げられないのではないか。」

 

そうか、Don'tじゃなくて、Can'tなのか!

 

そう思うと、不思議なもので、私の心の中に、おばちゃんをいたわる気持ちが芽生えてきました。

 

でも、次の瞬間、我に返ります。

 

「ほな、手袋してきぃや。」

 

なるほど、おっしゃる通りです。

そう思うと、またイライラがふつふつと湧き上がってきました。

 

「天気予報見たら、今朝の気温ぐらいわかるやろ。ってか、玄関出た時点で、気温感じて、手袋つけ…」

 

 

はい、ストップです!!

 

またひっかかりかけましたね、他者への想像力欠如の罠に。

落ち着いてよく考えましょう。

「そもそも思考」です。

 

「そもそもおばちゃんは、この寒い中、なぜ手袋をせずにバイクを運転しているのだろうか?」

 

少しして、またもや私の中に一つの仮説が浮かび上がります。

 

「ひょっとして、家出た時は手袋してたんじゃないだろうか。けれど、ここまで運転してくる途中に、寒さに凍えて独りで泣きじゃくっている子どもを見つけて、その子に自分の手袋をあげたんじゃないだろうか。」

 

不思議です。

そう思った途端、先ほどぼくの中に湧き上がってきたおばちゃんへの温かい気持ちが戻ってきました。

 

そっか、そっか、そういうことやったんや。

おばちゃん、最高やな。

想像の中で、ぼくとおばちゃんはハイタッチを交わして、肩を組んでいました。

 

…と我に返った時、ぼくとおばちゃんのバイクは、信号のない交差点に差し掛かっていました。

 

次の瞬間、私はびっくりして、思わずブレーキをかけそうになりました。

 

おばちゃんがウインカーを出さずに、急に右折をしたからです。

 

「何やってんねん。危ないなあ!あんなもん、ウインカー出さんと曲が…」

 

はい、ストップで…いや、ストップちゃうわ!!

 

それは、おばちゃんが悪い。

Educators Seeking vol.4③ 228

エデュシークまとめ、第三弾。

今回は、最後の登壇者、若松さんのお話について。

やっぱり今回も思ったことをそのまま、加工せずに書いていこうと思います。

 

若松さんの話を直接お聞きするのは、これが初めて。

著書は2冊とも読みました。

 

「深い学び」を支える学級はコーチングでつくる

「深い学び」を支える学級はコーチングでつくる

 

 

 

対話を生み出す 授業ファシリテート入門 〜話し合いで深い学びを実現〜

対話を生み出す 授業ファシリテート入門 〜話し合いで深い学びを実現〜

  • 作者:片山 紀子,若松 俊介
  • 出版社/メーカー: ジダイ社
  • 発売日: 2019/09/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

若松さんが、「子どもの姿から考える授業づくりとは?」のテーマで話す中で、キーワードとして出てきたのが、「問い」でした。

序盤、「子どもたちから様々な問いが出てきたとき、みなさんならどこまで扱いますか?」と問いを投げかけられた。

詰まった。

 

できるだけ子どもたちの「問い」を取り上げて、授業に生かしていきたい。

でも、全て取り上げていくと、いくら時間があっても足りないのではないか。

そもそも、「その問いはさすがに作品と関係ないのではないか」という問いが出たら、どうするのか。

その問いに関しては、扱わないのか。

それは、子どもから出た「問い」を大切にすることに反するのではないのか。

いや、そもそも、「子どもたちの問いを大切に」って考えてるけれど、「大切にする」っていったいどういうこと?

 

そんなことが頭の中に浮かんだ。

そして、その後の若松さんの言葉でさらに考えた。

 

子どもたちの「問い」をまず受け止めること、そして、子どもたちと共に学習を進めていくことが大切なのではないかなと思っています。

 

「大切にする」と「受け止める」の違いは?同じ?

そもそも、「どう扱うか」って自分一人で考えてる時点で、自分がコントロールしようとしてしまっているのではないか。

「教える」「教えられる」ではない、同じ方向を向いて共に学ぶ大人(共同探求者といえるのかもしれない)であれるかが大事なんだろうけれど、そのスタンスを本当に心の底から信じ、身体化するまでが難しいなあ。

などなど…。

 

若松さんのお話自体が、たくさんの「問い」を孕んでいて、気付くと、話を聞きながら自己内対話を猛烈にしている自分がいた。

そう、きっとこれって、若松学級の子どもたちが日々体験している学びなのではないだろうか。

そんなことを思った。

一方的に、若松さんが話すだけではなく、適宜グループでの交流で、さらに自分の思考が刺激される。

そのグループ交流の取り方も、全体を見ていて、その雰囲気などから瞬時に判断したりしてるんだろうなあ。

自己内対話をして思考している時に黙ってしまうよなあって自分に気づいたり。

それって、じゃあ、クラスの中で子どもたちが問いに対して黙ってしまっている場合、自分はきちんとその時の子どもたちの内面まで見取ろうとしてきたのだろうか。

黙ってる=困ってる→次の手を何か打たなければ!みたいに安易に考えていたんじゃないか。

そうすることで、実は、じっくり思考していた子どもたちの時間をぶつ切りにして、先に進めようとする自分の都合ばかり優先させてしまっていたのではないか。

その時点で、授業の目的は「子どもたちの学びの場」ではなく、「自分がその授業を時間内に計画していたところまで終わらせること」になっているだけじゃないか。

わかっているつもりでも、そうやって陥ってしまうのは、日々のふり返りができていなかったり、子どもたちのふり返りや問いを、個々で浅く見るにとどまって、それぞれの関係性を考えて次につなげるような工夫まで至っていないからじゃないか。

 

いきなり大それたことなんてできるわけがないし、そんなものは目指すものではないと思う。

結果としてふり返った時に「ずいぶん遠くまできたなあ」って思える積み重ねた上での結果でしかない。

ビジョンは大事だけれど、そのビジョンを立てたことにかまけたり、ビジョンまでの現在地を見誤って、子どもたちの姿を見ていないと、いつまでたっても、若松さんの言う「子どもたちの問いを受け止める」や「子どもたちと共に学習を進めていく」には、たどり着けないだろうなあと思う。

1.01でも、それを続けて、365乗すれば、一年後には大きな成長になっているだろうし、目の前の子どもたちの姿を何となく見えた気になって日々を過ごしてたら、0.99の365乗でゆるやかに下降していくんだろう、みたいな。

 

数えきれないぐらいの「管理」と「任せすぎ」の狭間で、うまくいかない痛みと向き合い続けたからこそのこの日の話なんだろう。

 

子どもたちの持つ「問い」の背景には、その子のものの見方や考え方が働いている。

その考え方に正解・不正解はない。

だからこそ、子どもたち同士の問いをつないでいくことで、一人一人が世界の見方や、自分の考えを深めていくことができる。

「問い」のつなぎ方にも正解なんてきっとない。

練りに練ってもうまくいかないことなんてきっと山ほどある。

でも、その事実から目を背けず、向き合って次のチャレンジへ一歩踏み出していくことをどれだけ、愚直に繰り返し、積み重ねていけるか。

 

 

圧倒的な量が質を生む。

Educators Seeking vol.4② 227

エデュシークまとめ、前回の続きです。

今回は、二人目の登壇者 葛原さんのお話について。

また、うまくまとめようとか全然無視して、考えたことダダ漏れで書いていこうと思います。

 

葛原さんといえば、「けテぶれ」でよく知られています。

「けテぶれ」が何なのかについては、本を読んでください。

 

 

「けテぶれ」宿題革命!

「けテぶれ」宿題革命!

 

 

今回は、このけテぶれの話ではなく、そのほかにも色々と編み出されている「NKS思考法」や「心マトリクス」などの考え方が、けテぶれなどとどう作用しあっているのかという全体の構造のお話中心でした。

 

葛原さん自身が、「今まで言語化を避けてきた部分をあえて掘り下げた」と話していた通り、その話は何とも壮大で、そりゃあ40分の持ち時間じゃあ足りないはずだ、と完全同意でした。

 

でも、その後半になるにつれ、(いや、割と最初からだったかもしれません)どんどん熱を帯びていく葛原さんの話に、私も一緒に熱く…とはならず、どっちかというと、逆に冷静に冷静になっていく自分を感じていました。

それは、決して「冷めた」という意味ではなく、頭が「冴えていく」というニュアンスです。

話の内容はもちろん素晴らしかったのですが、それは、他にも色んな人が書いておられて絶対そっちの方が分かりやすいので、端折ります。

それよりも、私的には、熱を帯びていく葛原さん自身を俯瞰して見ているような自分について意識的にふり返ってみようと思います。

話が進むほど、客観的に葛原さんを見つめる自分がいたなと改めて数日たった今、思います。

プロゴルファーのタイガーウッズが、極限の集中状態に入ったら、まわりの観客や雑音が消えて、自分とカップしか見えない・聞こえない「ゾーン状態」に入るという話を聞いたことがあります。

それと同じでは到底ありえませんが、あの時の感覚を説明するのにもっとも近いのが、それなのかなと思っています。

じゃあ、何が自分をそうさせるのか。

それは、間違いなく「子どもたち」に向き合う葛原さんの教師としての姿を目の前で見たからという他にないのかなと思います。

「子どもたちの姿」という具体を見つめ続け、そこからフレームワーク(けテぶれ・NKS・心マトリクスなど)へと抽象化し、極限までブラッシュアップして、それを子どもたちに還元し、そこに大量の具体を落とし込んでいく。

具体と抽象のサイクルを無限に回していく、その思考に至るまでの「探究力」と、目指すべき子どもたちの姿への「妥協のなさ」。

そうした姿勢に、感覚が研ぎ澄まされていったような時間でした。

 

「わからないものをわからないままわかろうとする」とっくんに対して、

世界の見方を子どもたちが使えるレベルまでシンプルかつ汎用性の高いものにし、それをもって「わからないものをわかりやすくわかることができるようにする」葛原さん。

 

一見、二人は相反するような考えに最初は聞こえたのですが、自分の中で反芻していくうちに、二人が大事にしていることが同じであることに思い至りました。

 

「世界」は「言葉」で「わける」ことで「わかる」ようになる。

だから子どもたちが自分で言語化して、現在地を確かめられるように、心マトリクスが作られた。 

X軸とY軸で表される4象限のどこに自分が位置して、どこを目指すべきなのか。

これも「子どもたちの姿」を「見る」ことにつながります。

というか、「見る」ことの精度が、間違いなく教師も子どもたち自身も上がるだろうと思います。

でも、4象限のどこにも振り切らない無数の点も確かに存在します。

その点の一つ一つがきっと目の前の子どもたちなんだろうと思います。

ミリ単位の誤差もなく、自分の現在地をそこからはじき出すことができる人間は、大人でもそういないと思います。

だから、「わからないことをわからないままわかろうとする」ことも必要になってくる、私はそう感じました。

とっくんと葛原さんは、真逆ではなく、それぞれが互いを補完し合うような考え方なのではないか。

 

一つ言えるのは、二人とも目の前の子どもの姿を徹底的に「見る」ことから目を背けていないという事。

「見ようとして見えない」事実からも目を背けていないという事。

その姿に同じ教師として、言葉以上のものを受け取った、そんな時間でした。

 

あくまで私の解釈だし、全然違うかもしれないけれど、それはそれ。

私にとっては受け取ったものが本物。

それが全て。

 

また一つ、自身の在り方をアップデートするきっかけをもらい、胸が熱くなりました。

 

 

と、このあたりで今日はお開きにします。

前回以上に、ぐちゃぐちゃで意味不明ですね、すいません。

でも、受け取ったものの手ごたえが、ここに確かにあるうちに、自分が感じたままを言語化できて良かったです。

 

さて、明日から、授業が本格的にスタートします。

「見る」「徹底」「振り返る」「面白がる」をキーワードにペース調整しながら頑張っていきます。

 

三人目の若松さんのお話のまとめは、また次回。