小学校教員にょんの日々ログ

毎日の出来事や考え、思ったことなどとにかくアウトプット!

おさぼり。 203

うひょー、サボったなあ、久々に。

前回の更新が15日で、今回が27日やから、約2週間ぶりかあ。

この間、わりかし、忙しかった。

でも充実した日々を送ってはいた。

ブログに書きたいことは、日々たまっていくが、それを書く時間を後回しにしてしまってた。

 

なぜ人はやろうと思っていることを後回しにしてしまうのか。

 

よく「モチベーションがあがらなくて…」ということを聞くが、個人的にはそれは関係ないだろうなと思っている。

 

今日は、久々の更新ってことで、その辺について思ってることをアウトプットしておこう。

 

人は、「やる気がないから行動できない」ということでは、どうもないらしい。

それは単なる思い込みで、真実は、「行動したら、やる気が出てくる」と。

どうも、そういうことらしい。

 

確かに、自分のことを思い返してみれば、いやいやでも、とにかくやり始めたら、「いつの間にか夢中になってた」ってことが少なくない。

 

身体感覚的にもこれには、同意できるなあと感じている。

 

…であるならば、重要なのは、「やる気をどうやって出すか」ではなく、「どうすれば、自分を行動に落とし込むことができるか」というシステム作り。

 

それは、要するに、「時間の確実な確保」に他ならない。

 

その視点でこの2週間をふり返ってみると、頭の中には、常に「ブログでアウトプットしたいなー、せなあかんなー。」という意識があり、でも、その優先順位は、限りなく最下位に近い位置づけになっていた。

 

「この仕事が終わったらやろう。」「ここから帰ってきてこれが済んだらやろう。」

 

そんな風に考えているのが常だった。

 

でも、それは「IF」の考え方だなあとつくづく。

「もし~終わったら」そんな考え方では、仮にその時が来ても、結局その時には、また別の重要事項が優先順位の下の方からどんどんランクを上げてきて、「ブログでのアウトプット」を追い抜いて、私の頭の中を占めることになるだけ。

 

だから、大事なのは、「一日の中にルーティンとして、アウトプットの時間を設ける」ということ。

 

わかってたはずやのに、日々に流されて忘れてた。

まあ、失敗はつきものやし、今日ここで気付けたから良かった。

こうやって、少しずつ修正しながら、前に進んでいけばいっか。

それぐらいに楽に考えよう。

 

で、もう一つ。

最近、インプットが以前に比べて多くなったと感じる。

ネットでの情報はもちろん、研修やオンライン講座、読書などなど。

今まで以上に、様々な角度からの情報を自分の中に取り込んでいる。

でも、アウトプットをしていない。

すると、どういうことが起こるか。

 

頭の中で、膨大な情報がぐるぐると回り、絡み合い、浮かんでは消え、消えては浮かび、気になり、思考が中断し…。

ざっくり言って、脳みその燃費がすっごく悪い。

だから、仕事をしていて、教材研究をしていても、雑念が浮かんで、今作っている途中の教材を「これでいいんかな?」と迷って、作る手が止まってしまうこともしばしば。

それって、メンタリストのDaiGoが言うところの「ウィルパワーの浪費」に他ならない。

人は、日々膨大な数の決断をしていて、その決断の度に、自身の中にある有限の「ウィルパワー」を消費していっているという。

そのウィルパワーが底をつくと、人は集中力や決断力が極端に低下する。

 

ああ、自分のここ最近の状態ってまさにこんな感じやなあと思った。

頭ではぼんやり「そうかもなあ」と思ってはいたけど、それもこうしてアウトプットして言語化することによって、整理されていく感じがする。

 

そういう意味でもアウトプットって大事だ。

初心に戻った感じ。

 

明日からまた、自分の人生の中に、アウトプットを位置付けていこう。

質じゃなくて、量を、習慣を。

「選ぶ」ということ。 202

今年の夏は、私にとって、これから先もきっと「あの夏は転機だったな」と思い返すことになると思う。

自分自身の教育観のアップデートを迫られた夏だからだ。

この仕事が大好きだ。

だから、進んで仕事に取り組んできたし、楽しんでやってきた。

これからもずっとこの仕事を続けていきたい。

今もその考えは変わらない。

でも、その変わらない思いを実現するためには、今のままじゃダメなんだ。

そんなきっかけを得ることになった今年の夏。

あれから2か月が過ぎようとしている。

見える景色は、まだそんなに変わらない。

でも、今までは目にも気にも留めなかった小さなことにも意識が向かうようになってきた。

ずっと正面からばかり見ていた物事を、様々な角度から見ようとする意識を持てるようになってきた。

でも、それだけだ。

ただ、それだけだ。

自分から取りに行こうと意識し始めた途端、今までを遥かに超える情報が手元に入ってくるようになった。

新たに知り合い、刺激をもらえる人たちにも出会った。

でも、それだけだ。

ただ、それだけだ。

私は、何者でもないし、私のままだ。

それは、これからも変わらない。

私は、私でしかない。

それは、絶望で、希望だ。

 

全国には、すごい実践をしている先生たちがたくさんいる。

子どもたちの力を伸ばしている先生たちが、いや、先生たちだけじゃない。

先生でなくても、今の教育を良くしようと様々なところで動いている人たちがいる。

でも、その人たちの誰にも、私はなれない。

自分には何ができるのか。

そんな止まっているような歩みでいいのか。

そう絶望しそうな自分がいる。

 

一方で、自分だからできることがあるはず。

歩むことはスピードではなくて、歩みを止めないことが大切だ。

そう希望を信じたい自分もいる。

 

絶望と希望のシーソーゲーム。

私は、教師としてどう在るべきなのか。

 

自分のコンフォートゾーンを飛び出して知った世界は、広く深かった。

まだ入り口に立っただけ。

それでも情報はたくさん入ってくる。

インプットは、アウトプットをしなければその価値が半減する。

互いが相反するような情報にもたくさん出会う。

そんな時、欲張りに全てを手にすることはできない。

手にしようとしても、どれも中途半端になって、結果全てを投げだすことにもなりかねない。

だから「選ぶ」。

選んで進む。

仕事だけじゃない。

人生は「選ぶ」の連続だ。

「今」は、自分が「選んできた」ことの積み重ねの結果だ。

でも「選ぶ」ことを思うとき、「捨てる」ことも思う。

「選ぶ」ということは、「捨てる」ということだ。

「選ぶ」ことで、「選ばなかった」方を「捨てる」ことになる。

けれど、「選ばなかった」「捨てた」方の手に入らない未来を思うとき、身動きが取れなくなってしまう。

なんて欲張りなんだ、と自分が嫌になる。

でも、そんな私も、私なんだ。

もっと、軽やかに、しなやかに、生きていけたらなと思う。

そんな境地に達する瞬間が、自分の人生のこの先に待っているのだろうか。

とてもそうは思えない。

そんな今の自分。

んー、煩悩多いなあ。

人間の煩悩は108つだとはよく言うが、「もっとあるやろ、絶対!」と自分にツッコみたくなってしまう。

でも、それでも、何があっても、私は私でやっていくしかないんだというゆるがない事実。

その事実に対する覚悟がまだ備わっていない感じ。

36にもなって情けない。

んー、この暗闇を突き抜けたい。

何を選ぶか。

何を捨てるか。

どんな自分で勝負をするか。

自問自答は続く。

「JOKER」鑑賞。 201

先週、現在公開中の映画「JOKER」を観に行った。

バットマンの悪役、ぐらいしかジョーカーについての知識がない。

というか、そもそもバットマン自体もほとんど知らない。

そんな状態で観に行って楽しめるのか、少しの不安もあったが、とても気になっていたので、思い切って観に行った。


『ジョーカー』心優しき男がなぜ悪のカリスマへ変貌したのか!? 衝撃の予告編解禁

 

悪のカリスマ、ジョーカーがいかにして誕生したのかを描いた本作。

何よりも、主演のホアキン・フェニックスの演技に飲み込まれた。

狂気に呑まれていく主人公アーサーを、文字通り狂気に満ちた演技で演じ切っていて、圧巻の一言だった。

アーサーは、精神に病を抱え、突然笑い出してしまう癖を持つ。

周りには理解者もおらず、ボケた母親とボロアパートでの二人暮らし。

母親は昔世話になったという人に届かない手紙を送り続け、ピントのずれた会話をアーサーと交わすが、その目にはアーサーは像を結んでいないように見える。

コメディアンを目指すアーサーの仕事は、ピエロの仮装をしての宣伝。

しかし、その姿を町の不良少年たちにバカにされ、職場の同僚からも気色悪いと気味悪がられる。

 

だれも、アーサーを見ようとしない。

だれも、アーサーの存在を気にしない。

劇中、アーサーは徹底して、その存在を無視され、見捨てられ続ける。

世界が、自分を映し出す鏡であるならば、アーサーの鏡には、自分の姿が写っていない。

そんな鏡の中に、自分を探して、アーサーはもがき苦しむ。

でも、その足掻きもむなしく、現実は、世界は、アーサーを見ようとしない。

その描写は、フィクションと分かっていても、心が軋むような苦しさを伴う。

唯一、心を開いてアーサー本人を見ようとしてくれていた隣人の若い母親とのわずかな希望を感じるやり取りも、実はアーサーの妄想であったことが終盤で発覚する。

この場面の、心に大きな刃物が刺さるような、アーサーの孤立の深さに肌が泡立つような、あの感覚は忘れられない。

そう、アーサーは、孤独なのではなく、孤立していた。

それも徹底的に。

そんな自分を慰めていたのは、主観で自分の都合のいいように作り上げた妄想だった。

どこまでも救いのないアーサーは、じわじわ蟻地獄に嵌まるように、その身を狂気に溺れさせていく。

ある事件を契機に、その孤立と狂気は加速していく。

どれだけあがき続けても、世界から見向きもされなかったアーサーが、世界を見限った途端、世界からジョーカーとして崇拝の対象に変わっていく皮肉さは、まさにピエロにふさわしいなと思ったりもした。

 

自分が存在していないような、世界から必要とされていないようなアーサーが抱く心細さに猛烈に感情移入してしまった。

それは、きっと誰しもが感じたことがある類のものだと思う。

だからこそ、ジョーカーは生まれ、悪のカリスマになっていったのではないだろうか。

誰しもが心に大なり小なり抱える不満、不安、焦り、苦しさ。

そんなものの集合体がジョーカーであるように思えてならない。

アーサーだけじゃない。

母親もそうだし、職場の同僚もそうだ。

みんな心に闇を抱えている。

アーサーがその身に宿す闇が臨界点に達し、ジョーカーが生まれたことが発端になり、街はジョーカーを中心とした狂気の渦に飲み込まれていく。

客観的に見ると、ただの殺人者であるジョーカーに、それでもどうしようもなく感情移入をしてしまうのは、誰の心にもジョーカーが棲んでいるからだ。

誰しもが、自分の力ではどうしようもない不条理に対峙しているからだ。

 

誰か一人でも。

世界にたった一人だけでも。

アーサーと向き合ってくれる誰かがいたならば。

そう思わずにはいられない。

映画を見終わった今でも、祈らずにはいられない。

 

そして、自分は、どうだ。

ふり返る。

たくさんの人の顔が頭に思い浮かぶ。

足りない何かを数えるんではなく、今あるものを確かめよう。

アーサーにどこまで感情移入しても、こちら側の世界に戻ってこれるのは、きっと思い浮かんだ顔の人たちのおかげだ。

大切にしなければ。

そんなことを思った。

渾身のガッツポーズ。 200

けテぶれ開始から1か月と1週間が過ぎた。

子どもたちのけテぶれは、日々山あり谷ありだ。

人生と一緒で、ずっと右肩上がりの成長ばかりが続くわけではない。

成長したと思っても、油断しているとすぐに下り坂に差し掛かっている。

なかなか伸びなくても、失敗から学び、工夫を続けることで、ある日、急に上り坂に転じたりする。

そんなアップダウンをくり返しながら、子どもたちは少しずつ自分を知っていく。

自分がこういう試行錯誤を経て、少しずつ自分と向き合ったのっていつだろう。

ふり返ってみると、大学受験の時かなと思った。

そうか、あの頃の自分に近いことを今子どもたちはやっているのか。

そう思うと、1か月やそこらで、はるかに内省の力もまだ発展途上の子どもたちが、本当の成長を遂げ、学習力をつけていくには、時間がかかる。

かかって当然だ。

でも、日々、接していると、その「当たり前」がぼやけてしまうときがある。

できない子どもたちに、ついつい声をかけてしまいそうになる。

結果を焦っているんだ。

でも、まだ1か月。

どっぷりと浸るほど、学びの海に潜らせたり、泳がせたりしているわけではない。

そんな風に立ち止まっては、初心を忘れないように肝に銘じる日々。

最近気になるのは、3~4人のけテぶれ全くやってこない子たち。

でも、私が言ってやるようになっても、それは「言われたから」やっているだけ。

自分自身の内発的動機付けにもとづいていない行動でしかない。

そういう外発的動機付けでやっている行動は、その外からの働きかけがなくなった時点で、元に戻ってしまう可能性が高い。

目的は、何だ。

目の前のけテぶれノートを書いてこさせることか。

違う。

けテぶれは手段だ。

そのノートを見てその場だけ満足するのは、かりそめの感情だ。

そのかりそめの満足におぼれてしまったら、それは目的を見失っていることを意味する。

選択するのは、子どもたちだ。

安易なその場限りの指導に逃げるな。

自分に言い聞かせる。

 

根を張る作業は、とても地道で、成果も見えず、暗闇の中を進んでいるような心もとなさが常に付きまとう。

 

でも。

 

そんな中にいても、きれいな花が咲く瞬間がある。

最近、今週、そんなきれいな花を1輪見つけることができた。

今日は、そのことを書き残しておこうと思う。

 

クラスにおけるトップランナーと言っても過言ではない、Aさん。

日々コツコツと努力を積み重ねることをいとわず、友だちからも積極的にいいところを吸収して、オリジナルのけテぶれを進化させてきた。

彼女のノートには工夫があふれ、実践を重ねるごとに、自己分析の海に深く深く潜るようにもなっていった。

彼女自身も、自分のけテぶれのやり方に少しずつ自信をつけてもきていた。

しかし、テストになると、あと一歩足りない。

見落としがあったり、書き損じがあったりで、テストは満点に届かない。

担任としても、その努力を知っているだけに、丸つけをしていて、満点に届かない事実と向き合うたびに、私自身もものすごく苦しくなった。

このまま続けば、彼女はいつか自信を失ってしまうのではないだろうか。

そんな不安がよぎったことも一度ではない。

でも、グッと我慢して見守った。

この事実から目をそらしてしまっては、真の成長や喜びには出会えない。

それは、私も彼女も同じだ。

 

そして、2学期6枚目の小テスト。

毎回、「今日こそは!」という思いは、本人の表情やノートから痛いほど伝わってきていた。

テスト用紙を配りながら、「がんばれ!」と心の中で精いっぱいのエールを送る。

テストはあっという間に終了。

その場で〇つけを済ませる。

何枚目だろうか、Aさんの答案だ。

無意識にペンを持つ手に緊張が走る。

全力の解答用紙の放つ迫力に押されてしまわないように、気合を入れて隅々までチェックして、間違いがないか厳しく採点する。

でも、心の中では、「どうか満点であってくれ。」と祈るような自分もいる。

採点はすぐに終わった。

 

結果は、満点。

思わず、ガッツポーズをしそうになった。

顔が緩む。

いやいや、頑張ったのは彼女であって、お前は何もしてないやんけと心の中で自分を制する。

全員分の丸つけを済ませ、テストを返却した。

1人ずつ名前を呼んでテストを返していく。

喜んだり、悔しがったり、様々な反応。

そして、Aさんの答案が一番上になる。

名前を呼ぶ。

答案を手渡す。

私から答案をもらって、すぐに点数を確認するAさん。

点数を確認して、すぐ彼女は答案を二つ折りにして、くるっと後ろを向き、自分の席へ向かおうとした。

でも、後ろを振り返った瞬間、彼女は右手を握りしめて、力いっぱいのガッツポーズを作った。

動きとしては、小さな、小さなものだった。

でも、私には、そのガッツポーズがものすごく大きく、そして尊いものに見えた。

 

もちろん、これで彼女の物語が終わったわけではない。

これからも彼女の挑戦は続くし、右肩上がりばかりというわけにもいかないこともあるだろう。

でも、それでも、この日の100点は、彼女にとって、おそらく忘れがたい100点なのではないだろうか。

これからの自分を奮い立たせてくれる100点だろう。

そう思う。

 

他にも咲きそうな花がある。

花まではいかずとも、花を咲かせるための根を一生懸命張っている子もいる。

どの子も、自分なりの自分と向き合っている。

向き合えない自分と向き合ってもいる。

がんばれ、みんな。

ただただ、そう願う。

32冊目「クラスが元気になる!『学び合い』スタートブック」 199

今年度32冊目の読了本はこちら。

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「クラスが元気になる!『学び合い』スタートブック/西川純[編]」

 

『学び合い』については、その言葉自体は聞いたことがあった。

それに、読者登録しているブログの中にも、いくつか『学び合い』について書かれたものがあるので、空いた時間に目は通していた。

でも、『学び合い』が一体どういう授業で、なぜそのアプローチ方法がこんなにも支持されているのかについては知らなかった。

いや、知ろうとしていなかったのかもしれない。

 

でも、ある日、ある方とオンラインで話をしているときに、薦めてもらった。

「にょんさん、『学び合い』って聞いたことありますか?にょんさんの考え方とやったら、きっと合うと思うんですけどね。良かったら、僕持ってる『学び合い』の本、大量に送りますよ。」

とまで言ってくれた。

 

「いや、一回自分で本屋行って見繕って読んでみます。ありがとうございます。」

そうお礼を言って、やり取りを終了した。

 

そして、その週末、難波の旭屋書店へ行って、『学び合い』に関する書籍を探した。

何冊かあったのだが、その中で、「一番入門書的で最初に読むにはいいかもしれないよ。」とおススメしてもらっていたのが、今回の読了本だ。

迷わず、レジに持って行き、購入した。

 

帰ってすぐ読んでみて、まず最初に思ったのは、「似たようなことは何度もやったことがあるなあ。」ということだった。

でも、あくまで、それは「似たようなこと」であって、よく読めば、それがこの本でいう『学び合い』とは似て非なるものだということがわかった。

確かにクラスで、何らかの課題を出して子どもたち同士で考えさせたりしたことはあった。

けど、この本で言われているように「一人も見捨てない」という覚悟をベースにして、取り組んでいたかと言われれば、全く違う。

そこに、確固たる信念はなかった。

でも、この本を読むと、その確固たる信念というものが、とても重要であるということが分かった。

もちろんそれは、「誰一人見捨てない」ということだ。

 

最近、自分の授業の在り方、いや、今の公立小学校での授業の在り方に疑問を抱いていた。

その疑問は、どんどん膨らむばかりで、その中で、どういう授業をしていけば、子どもたちの力を伸ばすことができるのか、と悩んでいた。

その疑問とは、「同じ内容を、同じペースで、同じ方法で、みんな黒板の方を向いて行う」という古くから多くの日本の学校で当たり前とされてきた授業スタイルについてだ。

当然だが、一人一人学ぶスピードも、学ぶ方法も違う。

ある子は、一人で黙々と練習問題を解くのがいいかもしれないし、また、ある子は、グループで対話を重ねながら、問題の意味を理解し、少ない問題数を着実に解いていくのがいいかもしれない。

でも、今の学校のシステムは、そういった個別最適化に向いていない。

一般的に、講義形式の授業スタイルでは、学力が中位層の子どもたちにちょうどいいスピードになっているように感じる。

だから、すぐに理解できる子にしてみれば、簡単すぎてつまらないし、なかなか理解できない子からすれば、難しすぎて速すぎてついていけない、ということが起こる。

つまり、単純に考えて、このやり方だと、クラスの3分の2は、自分に合った内容を自分に合った方法で学習できていないということだ。

それってそのままでいいのだろうか。

それを教師側の工夫で、何とかできないのだろうか。

「あの子たちは仕方ないですよね。」なんて話して諦めてしまっていないだろうか。

また、個別最適化の問題以外にも、受け身な学び手を育てていることにも疑問だ。

口を開けていれば、身につけなければいけない力を誰かが運んできてくれる。

そんな風に、やたら受動的に学んでいる子どもたちは、いないだろうか。

いや、いる。

だから、「問い」を作れない。

自分で問いを作れないから、「問題」が運ばれてくるのを待っている。

確かに、その待っていてやってきた問題を解いていけば、ある程度の力はつくのかもしれない。

でも、その問題とやらは、誰かがあなただけのために作ったものではない。

「あなた自身」の問題ではない。

「あなた自身」の問題は、あなた自身が見つけるしかない。

 

『学び合い』の中では、一時間の課題が先生から出題される。

その中で、各自が自分のわからないところに向き合い、時に一人で、時に友だちの力を借りて、課題をクリアしていく。

でも、ここで大切なのが、課題は「全員が」クリアできて初めて、「クリア」になるということだ。

つまり、自分一人が課題を達成しても、それは本質的に課題を達成したことにはならない。

なぜなら、全員が課題を達成できていないからだ。

では、できた子はどうするか。

まだできていない子に教えるのだ。

そこに至るまでには、認知の段階的なプロセスがある。

まず「わかる」、そして「説明できる」、最後に「教えられる」となる。

最後の「教えられる」は、自分以外の他者に向けてする行為なので、難易度が最も高いと言える。

しかし、この行為を通して、すでに自分個人としては課題を終えていた子も、さらにその学習内容について理解を深めることができるのだ。

しかし、その価値は、初めは子どもたちになかなかわかってもらえない。

「なぜ、わざわざ教えに行かなければいけないの?」なんて子もいておかしくない。

だからこそ、本書で『学び合い』のキーポイントとして書かれている「教師の語り」が大事になってくるのだろう。

教師がそのプロセスの重要性を語りに寄って価値づけすることで、それも、一度ではなく、何度も折に触れて積み重ねることで、少しずつその価値がクラスに浸透していくのだろう。

これって、まるっきりクラスづくりじゃないか。

そう思った。

授業をしながら、クラスづくりをしているような、

クラスづくりをしながら、授業をしているような、表裏一体のアプローチに感じた。

そして、『学び合い』の授業では、立ち歩きが推奨されている。

自分が学びたい方法で、学べばいいからである。

究極、誰とどこで学んでもいいわけである。

だって、一人一人、学習スタイルは違って当然だから。

学習環境をデザインすることが、これからの教育においてますます重要になってくることを考えれば、必然と言えるかもしれない。

 

そんなこんなで、なるほど~とうなずきながら、読み進めていたら、すぐに読み終わってしまった。

だって、うすいんだもん!!ww

まあ、入門書的書籍だから、これぐらいでいいか。

 

というわけで、早速この『学び合い』、クラスで算数の授業に取り入れて実践を始めてみた。

やってみての現時点での感想だが、ものすごく教師の出方が難しい。

なんなら、自分で講義型授業やってる方が、よっぽど楽と言えるかもしれない。

『学び合い』では、子どもたち同士で、わからないところを教え合って、互いに学びを進めていく。

これって、その根っこには、「子どもたちは、本来的に自分たちで学ぶ力を持っている」という前提に立っていないと成り立たない。

だから、「信じて、認めて、任せる」、究極そこの一点突破だなあと思う。

そういう意味でけテぶれとも似ているところがあるなあと感じる。

そして、そうなってくると、どう教師として重要なのは、「いかに教えるか」ではなくて、「いかに在るか」という、自身の在り方だと気付いた。

だから、信念が必要なのだ。

信念は、在り方に直接的に影響を与える。

信念を持たずにやった語りは子どもたちに響かない。

その「在り方」をずっと考えている。

自分は教師として「どう在るべき」なのか。

この問いには、まだ答えられそうにない。

8月にみん職で受講したイエナプラン教育のリヒテルズさんの講座で感じたことと重なる。

授業ももちろんだが、その根っこにある「在り方」こそ、今後大きく問われる時代になっていくのではないか。

その在り方が明確であって初めて、さまざまなアプローチ方法が効果を発揮するのではないのか。

 

そんなことを考えさせられた一冊だった。

今後も、『学び合い』の学習を続け、自分の在り方を磨きながら、進めていこう思う。

 

少しずつ刻んでいこう。 198

日曜日、運動会の打ち上げがあった。

打上げの中で、何人かの先生と話をしていて、成績表の所見の話になった。

運動会など、行事ごとがあったら、その都度所見を少しずつ進めていけたら所見も学期末にまとめて、苦しまなくてもいいんですけどね、と。

若手の先生たちが口をそろえて言う。

私は、数年前から、子どもたちが帰ったら、その日あったことをOneNoteにメモするようになった。

メモさえしておけば、勝手にPCとデータを同期してくれるので、このシステムのおかげでずいぶん所見を書くのが楽になった。

学期末にするのは、たまったメモを字数に合わせて削ったり、つなげたりたりする作業ぐらいだ。

2時間ぐらいあれば、終わる。

そういう話も、流れの中で話した。

「なるほど、そういう風にすればいいのかあ。」とほとんどの先生がうなずいてくれた。

でも、同時に、「それができればいいんですけど、なかなか習慣化するところまでいかないんですよね。やろうとは思うんですけど、ついつい日々の目の前の仕事に追われて、後回しにしてる内に、学期末になってるんですよねー。」と口をそろえて言う。

 

んー、確かに。

自分のことだけでいいなら、先ほど言ったようなことで事足りるのだが、こういう先生方の状況では、やはり学期末に近づくにつれ、心の余裕がなくなってくる。

心の余裕がなくなってくると、人間関係がぎくしゃくするかもしれないし、そのぎくしゃくは間違いなく、子どもたちへも影響を与える。

そして、余裕のなさは、ミスを生み、そのミスへの対応に追われ、さらに心の余裕がなくなる。

負の連鎖である。

で、そこで一つ思いついたことがある。

お酒がいい具合に回っていたこともあるのかもしれない。

でも、その時の私には、そのアイデアがいいものに思えたのだ。

私は、思いついたことを先生方に話した。

 

「あのー、それやったら、みんなで放課後、『所見の会』みたいな感じで、ゆるーく、どっかの教室に集まって所見書くみたいな企画どうですか?時間は、4時半から5時までの30分限定とかで。自由参加・自由退出で、一人でも書けたら儲けものみたいなコンセプトで。」

 

すると、先生方からも上々の反応が返ってきた。

人間、やろうやろうと思っていても、一人だといろいろとできない言い訳を並べて、先延ばしにしてしまいがちだ。

でも、コミュニティの力をうまく使えば、心理的ハードルは下がるのではないか。

そう考えていて、つながった。

 

 

yamanyo.hatenablog.jp

 

この本に書いてあった。

そうだ、そうだ、7つの力をうまく組み合わせて成し遂げる力を高められるんだ。

 

そして、今朝。

職員朝礼。

「他に連絡のある先生はいますか?」

司会の先生の言葉に、私は手を挙げた。

 

「あのー、連絡と言うか、告知と言うか。運動会も終わったんで、成績表の所見に書けることが結構あると思うんですけど、学期末にいつも所見で忙しくなるので、良かったら、今日の放課後、4時半から30分ほど、自由参加で、書きたいなって人で集まって、所見書きませんか?『所見の会』みたいな感じでゆるく。とりあえず、ぼく、4時半になったら、空き教室で所見書いてるんで、良かったら、一緒に書きましょ。」

 

放課後、4時半少し前になって、私は空き教室のクーラーのスイッチを入れた。

黒板に、簡単に所見に便利な時数カウントの数式を書いて、一足先に書き始めた。

5分ほどたって、4時半になったころから、ぽつぽつと先生たちが、一人、また一人とやってきて、好きな席に座って所見を打ち始めた。

時折、思い出したことがあった時は、ゆるくおしゃべりした。

「あ、そうそう。先生のクラスのA君、運動会の練習で隊形移動のとき、〇〇頑張ってましたよ!」

とか、

「あ、そういえば、運動会委員会の仕事でBさん、最後まで〇〇頑張ってくれてましたよ。」

とか。

そうやって、情報交換しながら。

30分はあっという間で、5時には、みんな引き上げて、職員室に帰った。

 

働き方改革が言われるようになってしばらく経つ。

これまで、自分の仕事をどうシンプルにして、時間を生み出すか。

そういう視点で考えてきた。

さる先生の「全バカ」を読んだり、TwitterのTL上に上がってくることを参考にしたりもした。

ずいぶん、個人の仕事としては改善されたと思う。

でも、それじゃどこまでいっても一人だ。

一人でやることも大切だけれど、それを学校の先生たちみんなで共有して、縛りにならない・負担にならないシステムを作っていかなければ、だめなんだ。

だって、学校の先生みんなの業務が改善されなければ、結局そのしわ寄せは、子どもたちにいくことになるから。

私には、そういう視点が足りていなかったなと今回の提案をしてみて痛感した。

何より、所見の会が終わったあとの、先生たちの嬉しそうな顔。

疲れているはずなのに、元気が湧いてきているような表情。

残念ながら参加できなかった先生たちの「参加したかったです!」という声。

トップダウンではない、ボトムアップだからこその良さが活かされた企画なんじゃないかと感じた。

今回、たまたま私が提案しただけで、次からは誰が提案したっていい。

職員朝礼で、やりたいなーって人が声をかけて、「やろうかな」って人が勝手に集まってやればいい。

それぐらいのゆるさがいい。

その積み重ねが、刻んでいく日々が、未来の自分を救う。

こういうみんなを巻き込んでの業務改善を、ゆるく、でも、効果を狙って、楽しみながらやっていければいいなと思った。

みんなでなら、やっていけるんじゃないかなと思った。

すでに、2回目の開催を複数の先生が希望している。

職場の先生たちみんなで育てていけたらこれほどうれしいことはない。

みんなでハッピーになっていこう。

きれいにオチました。 197

ある日の放課後―。

一人の男の子が、A君が私のところへやってきた。

心なしかしょんぼりしている。

どうしたんだろう。

私は、彼の発言を待った。

すると、私の前に来たA君はこう弱弱しくつぶやいた。

 

「先生、連絡帳を書くのを忘れてしまいました…。」

 

いやいや、そんな悲壮な顔せんでも…。

大したことちゃうやん。

そう思ったが、彼のその後を見守った。

黙って微笑んでいると、彼は子犬のようなまなざしで私を見てきた。

 

「これ絶対助け求めてるやつやん!」

 

しかし、これしきのこと、そもそも私に言いに来ずとも、いくらでも解決可能な問題である。

だから、もう少し考えてほしくて、私は口を開いた。

 

「連絡帳もう消してしまったしなあ。どうすればいいと思う?」

 

すると、そこで初めてきょろきょろと教室を見回したA君。

その視線がある一点で止まった。

そして、その後、私に向かってこう返した。

 

「友だちに見せてもらって写します。」

 

はいはい、オッケーです。

できれば次は、先生に言いに来ずとも、そうやって自分で対応できるようになっていけるといいね。

 

A君は、教室に残って何をするでもなく、ふらふらしていたB君のもとへ行った。

そして、

 

「なあなあB君。ごめんやねんけど、連絡帳見せてくれん?」

 

その言葉にふり返ったB君、一瞬動きを止めた後、A君に向かってへらへらしながら返事をした。

 

「連絡帳?あっ、俺も書いてないわ~!へへへへ。」

 

あんたもかいっ!!

横で聞いてて、盛大にずっこけて、爆笑した。

なんてオチ。

気付けば、うるんだ子犬みたいな目をしていたA君も笑っていた。

 

その後、二人はもう一人教室に残っていたC君に連絡帳を見せてもらって、事なきを得た。

 

「連絡帳を書く」というのは、あくまで「手段」であるわけで、それが何かと問われれば、「次の日の予定や持ち物を把握し、見通しを持って準備などをできるようにすること」である。

だから、究極、連絡帳なんて書かなくてもいい。

自分が毎日の学校生活を送っていく中で、困らなければいいのだ。

「手段」と「目的」をはき違えないことで、本質的なことに集中して、行動ができる。

 

そして、「連絡帳を書き忘れる」という困った事態(A君にとっては)に陥っても、「じゃあ、どうすればいいのか」を冷静に考えて、行動に移せることが大切である。

「連絡帳を書くのを忘れました。」というすでに起きたことの報告をしたところで、あまり意味はない。(内容にもよるが)

だから、理想は、私になど言いに来ず、自分で友だちを見つけて写すなり、家に帰ってから電話で聞くなり、秘密裏にやってしまえばいいのだ。

私もこういうことは、言いに来られたところで、全く大したことではないので、叱る気などさらさらない。

 

最後に、B君のメンタルの強さ 笑

彼は、本当にタフ。

人間としての味がめちゃくちゃあって、愛おしいキャラクターだ。

まあ、忘れっぽかったり、片づけが苦手だったり、マイペースだったりで、困ってることも多々あるが、本人は全くへこたれていない。

尊敬する。

 

いやあ、しかし、吉本新喜劇ばりに、きれーいなオチを見せてもらい、すごく得した気分になった 笑