小学校教員にょんの日々ログ

毎日の出来事や考え、思ったことなどとにかくアウトプット!

Don't speak English. 184

2学期が始まって1週間が経った。

先週までの午前中授業による試運転期間も終わり、今日からがっつり6時間授業だ。

運動会の練習も始まっているので、給食の時間は、数少ないホッと一息付ける時間になっている。

給食時間は、毎日順番に子どもたちのグループを回り、そこに机を持って行ってくっつけ、一緒に食べている。

毎日、それぞれのグループで違う話題で盛り上がり、それに参加するのはとても楽しい時間だ。

今日は、「絶対に英語をしゃべってはいけない」という縛りで会話をした。

縛りが付いた途端、急に口数の減る子どもたち。

まるで、借りてきた猫。

初めての彼女の家に緊張する彼氏。

楽しもうとして設定した縛りが、このままでは、真逆の沈黙を作り出してしまう、と思い、どんどん仕掛けた。

 

私「なあなあ、S君。あのー、機械でさあ、ピコピコやって、冒険したり、敵とか倒したりして遊ぶやつあるやん。あれで、何が最近一番好き?」

S君「…。ん?どういうこと?機械?敵を倒す?…ああ、ゲーム?」

 

私「はい、残念でしたああああ!『ゲーム』は英語おおおお!!!」

 

ひどい担任だ。

しかし、ヒールに徹することを決めた私に「容赦」の二文字はない。

 

私「なあなあ、Mさん家は新聞取ってる?」

Mさん「取ってないで。」

私「え、じゃあ、世の中の出来事とかってどうやって知るの?」

Mさん「え…そりゃあ、ニュース…あ!」

 

私「『ニュース』!!アウトォォォ!!!ひゃっほう!!」

 

本当にひどい担任だ。

大人げないとはまさにこのこと。

「大人げない」の体現者!

「大人げない」が服を着てご飯を食べている!!

しかし、悪役に徹することを決めた私に「情け」の二文字はない。

 

K君「なあなあ、先生。緑色のぶどうってなんていうんやっけ?」

私「え?緑色のぶどう?そりゃあ、『緑色のぶどう』やろ。」

K君「ちゃうってちゃうって、そうじゃなくって!!違う言い方あるやん!」

私「んー、知らんなあ。K君教えてや。」

 

この後も、私をあの手この手でひっかけ、なんとか英語を言わせようとするグループの子たちに対して、私は一度も攻めの姿勢を崩すことなく、戦いきった。

中でも、一番積極的に私に勝負を挑んできたK君との戦いは熾烈を極めた。

しかし、そんな彼も私の前に無残に散った。

彼の最後の言葉は、「ハワイ」だった。

 

なお、なぜ彼が「ハワイ」と言ったのか、その文脈がどのようなものであったかは、覚えていない。

 

明日は、どんなドラマが待っているのか。

小さなワクワクでも、明日は待ち遠しいものだ。

本質から始めよう。 183

8月22日。

この日のみん職、ゲストスピーカーは、熊本大学教授の苫野一徳さん。

テーマは「現代教育の諸問題について」。

苫野さんは、哲学者で教育学者だ。

「哲学」…今までほぼ全くと言っていいほど自分の人生において、触れてこなかった。

いや、触れてはいたのだろうけれども、「哲学」という物差しで世界を眺めたことがないと言った方が正しいか。

苫野さんは言う、「哲学によって問題の本質が洞察できれば、そこからどうすればいいかが考えられる」と。

そんな話が最初に少しあり、その後、グループに分かれて話し合った。

お題は、「教育の問題、学校の問題は?」というもの。

グループ内でも様々な意見が出たし、全体に戻ってからも、チャットにたくさんの書き込みがされた。

それだけ現代教育が抱える問題が多く、また多岐にわたっているということの表れだ。

しかし、そんな様々な問題に対して、苫野さんは非常にシンプルな答えを導き出した。

 

「そもそも何のために教育があるのか」が理解できていない。

 

これこそが問題の本質ではないのか、と。

「本質を考えていない」という本質。

 

さらに苫野さんは「何のために教育があるのか」という問いに対する考えを話してくれた。

 

「自由と自由の相互承認のため」

 

とてもシンプルで無駄なものをそぎ落とされた言葉。

この言葉自体は、苫野さんの著書を拝読し、知ってはいた。

でも、本人から直接放たれた言葉には、字で見るより力があった。

上位目的を共有し、そのための方法を共に考える。

今の教育に求められているのは、そこなのではないか。

一見多岐にわたるような問題の数々も、対話を重ね、本質を見極めることで、その根っこでは実はつながっているという事実に突き当たることは、思っている以上にたくさんあるのかもしれない。

でも、日々の忙しさに誰もが忙殺され、ただただ目の前の仕事に追われ、毎日が流れていく現代では、そうした対話の機会を確保すること自体、至難の業といえる。

 

「だから、校内研に対話を設定する」

 

苫野さんは一つの解決策としてこれを強く推す。

確かに、意図的に組み込まない限り、今の状況では待っていても、永遠にその機会は訪れそうにない。

なるほど、校内研で対話を…考えもしなかった発想だった。

ただし、たった一回の対話の機会を設けただけで、変わることなんておそらくほとんどないだろう。

だから、積み重ねていく、続けていくことが重要だ。

「何のため?」を繰り返し、本質にたどり着くまで対話を重ね続ける。

鉄を叩いて強く純度の高いものにするように。

それも、学校に関わる様々な立場の人たちが同じテーブルにつくことで、多角的・多面的に本質に迫るのが理想だろう。

この夏知ったイエナプラン教育と苫野さんの話のいろいろなところが頭の中でリンクし始めている。

 

自由の相互承認を可能にするには、まず「①自己承認」。

これは、信頼と承認が常に満たされた環境にいることで育まれる。

learn × creationで参加した小金井市教育委員会教育長の話とリンクする。

「基本的な自己肯定感」が育まれていないと、学習も意欲も積み重なっていかない。

安心・安全が保証されていない場での学びは、成立しない。

以前、コーチングの講座でゲストスピーカーだった吉田忍さんや若松俊介さんの話とリンクする。

「①自己承認」ができて、次に「②他者からの承認」を経て、ようやく「③他者を承認」できるところまでたどり着く。

存在承認の世界から価値承認の世界へ飛び込まなければいけない子どもたち。

現代は「役に立つ」ことが極端に求められる社会である。

今のままの教育で、子どもたちは未来を幸せに生きていけるのか。

徹底的な対話の積み重ねで磨き上げられた本質は、高く分厚い現代教育の諸問題の壁に穴を穿つ。

まずは、目の前の子どもたちと日々向き合う中で、苫野さんが言っていたように、「自由と自由の相互承認」をリフレクションの視点の一つとして、日々の実践をふり返っていくことからはじめよう。

焦らない。

じっくり。

一つ一つ。

結論を早急に求め、それが仮に見つかったとしても、それは磨かれていない石ころも同然。

問い続ける。

自分に。

できることをていねいに、真摯に、着実に。

誰のための、何のための。 182

ちょうど10日前。

みん職オンラインで、イエナプラン教育についての講座があった。

ゲストスピーカーは、日本にイエナプランの考え方を広めたイエナプランの第一人者、リヒテルズ直子さん。

イエナプランについては、オランダの教育ということ、日本でも最近、大日向小学校や今後開校予定の軽井沢風越学園などのイエナプラン教育の学校ができてきていること、そして、名古屋や広島でイエナプランの導入が検討、あるいは、決定しているということ、それぐらいだ。

私が知っているこれらの情報は、しかし、イエナプランの本質にはたどり着いていない。

でも、興味はある。

すごく、ある。

なぜ、イエナプランなのか。

今の日本とイエナプランの親和性はどこにあるのか。

公立小学校において、イエナプランを導入することは可能なのか。

さまざまな問いが頭の中でぐるぐると回る。

関連書籍を探したことも一度ではない。

しかし、圧倒的に情報が足りない。

いや、私の情報の探し方が甘いのかもしれないが。

なんにせよ、いまだその具体がイメージできていないイエナプランについて知り、学ぶことで、自分に、そして、自分の受け持つ子どもたちにフィードバックできることがあるのではないか。

そんな思いから、告知があったときに、即参加を決めた。

 

このイエナプランについてのオンライン講座は、2年間をかけて開催される長期講座。

その第1回の今回は、ずばり、「イエナプランとは何か?」ということについて、リヒテルズ直子さんのお話を中心に進んだ。

 

イエナプラン教育とは、学術的な知識やスキルだけでなく、心や手の発達を学ぶためのものである。

イエナプランが生まれた背景には、産業革命の影響が大きい。

当時、「国民の価値は一人一人同じ。だから平等なチャンスを」という考えのもと、教育が整備された。

しかし、それはいつしか、国を強くするためのシステムに変わってしまった。

「教育」が手段になってしまったのだ。

 

今の日本は?…。

 

時はめぐって、現在。

世界には、様々な解決すべき問題が山積している。

貧富の差、環境問題、etc…。

それらを何とかしなければいけないという逼迫した状況から、オルタナティブ教育が誕生することになる。

そんな中、ドイツの大学教授だったペーターセンは、「人間としての子どもを育てよう」、とイエナプランを創始した。

自ら社会に参加し、より良い社会のために働きたいと思えるようになるための教育を目指した。

 

ざっくりとそうしたイエナプランができるまでの流れも教えていただいた。

「今の学校は、一つの力だけを求めすぎて、その他を軽視している」とリヒテルズさんは言う。

そもそも、一人一人持って生まれたものは違うという当たり前の前提。

そうであるはずなのに、教育が求める枠に当てはまらない子は、肩身が狭い思いをし、結果、自己肯定感はどんどん低下していく。

まさに、今の日本の教育には、そういう負の部分があちこちで見られるようになっているのではないか。

「一人一人みんな違う人間である」という厳然たる事実、そこに本当に向き合うとはどういうことなのか。

その事実を受け止めるならばこそ、自分と他者を同時に大切し、互いに認め合う教育であるべきなのでは。

そんな教育を実現するために、イエナプラン教育では、本物のものや事柄を対象にし、本物の自分を見出し、本物の問いを大切にする。

答えを大切にする今の日本の教育とはずいぶん違う。

本物の世界に触れると、「問い」が生まれる。

その「問い」を大切にするのだそうだ。

その「問い」は出来合いのものではないからこそ、答えがないこともしばしばである。

でも、「答えを見つける」ことよりも、「問い続ける」ことの方が大事だとされる。

探求学習が重要だとされているのも、この「問い続ける」ことにつながる。

イエナプラン教育における学校の役割は、「社会を今よりももっと良くすること」であるという。

国と国が分断されている今、「そうじゃない」と言える人を一人でも多く。

そんな世界を願い、イエナプラン教育は発展してきた。

 

リヒテルズさんの一言一言が、日本の公立小学校で働く自分に刺さる。

刺さるのは、自分が教育というものの本質を見ていないからだ。

見ようとしなかったからだ。

知ろうとしなかったからだ。

今の当たり前を生み出したのは、今を生きる子どもたちではない。

そこに子どもたちの声は、反映されているのか。

私たちに、子どもたちは本当に見えていたのか。

 

「誰のための、何のための教育なのか。」

 

「子どもたちのため」と信念をもってやって来た自分のはずなのに、改めてそう問われると、自信を持って、口から出る言葉がない。

その事実に絶望に近いショックを受けた。

今も、そのショックのただ中にいる。

信念は確かに持っていた。

それは確かだ。

でも、一度持ったその信念は、持ったという事実に満足して、磨いてこなかったのではないか。

信念を叩き、鍛え上げてきたのか。

そのおぼろげな輪郭の解像度を上げる努力をしてきたのか。

不易流行を便利な言い訳にしていなかったか。

現状維持は、衰退だ。

変わらないために、変わってこれたのか。

 

「誰のための、何のための教育なのか。」

 

その問いに対する明確な答えは、まだ自分の中に、ない。

でも、このままじゃあだめだ、と今の自分は思っている。

だから、まだ遅くない。

イエナプラン教育でも言っているじゃないか。

「問い続けることが大事だ」と。

イエナプラン教育を形だけ真似して、取り入れた気になっても、それは何の意味もない。

この長期講座を通して、問い続けていきたい。

「誰のための、何のための教育なのか。」

この問いの答えを探し続けたい。

そうすることは、自分の実践が、形だけの、方法論的なものに終始してしまうことを防ぐことにつながる気がする。

 

29冊目「けテぶれ宿題革命!」& けテぶれ始動。 181

2学期が始まった昨日の今日で早速だが、

「けテぶれ」をついにスタートした。

Twitterで、その存在を知ってから色々調べて、でも、具体がイメージできなくて、調べて、そうこうしていたら、考案者の先生が本を出版された。

渡りに船とばかりに、すぐにその本をAmazonでポチり、夏休み中に読んで、自分のクラスでどう実践するか考えた。

そして、今日。

その「けテぶれ」を導入した。

実は、漢字ノートの宿題のやり方に関しては、毎回こちらで範囲は指定して宿題を出してはいたが、その取り組み方については、少しずつ子どもたちの裁量に任せる部分を大きくしていった。

そして、苦手なところを中心に練習したり、意味調べしたり、そういう工夫が光るノートは、学級通信で逐一共有し、全体のモチベーションの底上げをしていた。

だから、導入自体は、そこまで混乱しないだろうなと予測していた。

でも、最初の導入が肝心なことには変わりないので、しっかりと準備をして、今日に臨んだ。

「けテぶれ」導入に際しての語りは、本の内容を参考にして、クラスの子たちの反応で多少アレンジした。

前日にみん職オンラインで聞いた立命館小学校の正頭先生のお話も一部参考にした。

そして、この導入はある程度予想通り、スムーズに受け入れられた。

しかし、そうは言っても、実際にやってみないことにはわからない。

やはり体験に勝るものなし!ということで、実際にクラス全員で、国語の時間に、「けテぶれ」をやってみた。

そして、やってみてすぐ、友だち同士で、どんな練習をしているのか、ミニ交流会をした。

子どもたちの様子を見ていると、友だちのノートをキラキラした目で見ている子、質問している子、うれしそうに自分の方法を話す子、様々だった。

でも、中には、黙って悩んでいるような子もいた。

そりゃそうだ。

今日始めたばかり。

ここから自分でトライ&エラーをくり返しながら、少しずつ、学びの海をうまく泳げるようになっていってくれればいい。

「どうする?一通り説明はしたけど、いつからする?来週ぐらいからにする?」

と聞くと、

「いや、もう今日から始める!!」とかなりの人数の子が言ってくれた。

明日の提出ボックスを見るのが、楽しみで仕方ない。

 

とりあえず、無事に子どもたちを船から降ろすことはできたかな。

ここからは、粘り強く、子どもたちを信じて、任せ、私も一緒になって時に悩みながら、子どもたちの自立した学習者へのサポートをしていく。

コツコツ、一歩一歩。

目先の結果に一喜一憂しないで、上位目的を常に忘れずにいよう。

というわけで、コーチングももっともっと本格的に勉強しなければ。

新しいことが動き始めて、自分自身にさらなる向上が求められてもいる。

でも、その状況がたまらなく楽しいし、ワクワクする。

子どもたちも学びの海を自分で泳ぎだしたんだ。

教師の私も自分の学びの海をもっともっと上手に泳げるように研鑽を積まなければ。

その海は、きっと子どもたちの海とつながっている。

対話型鑑賞第2弾 179

人生で2度目の対話型鑑賞をしてきた。

知り合いの先生に教えていただいて、すぐに申し込みの連絡をすると、「まだ大丈夫ですよ。」ということで、参加を即決した。

今回の会場は、江之子島文化芸術創造センター「enoco」。

このenocoが開催している「おしゃべり美術館」という企画だ。

会場に入ると、展示会場に案内された。

展示会場は、ちょうど教室一つ分ぐらいの広さだろうか。

その部屋のぐるり回りと中央の柱になっている壁に、様々な作品が展示されていた。

後で聞いたが、どれも大阪府の所蔵品だということだった。

時間になって、担当の学芸員さんの声掛けで参加者が集まり、対話型鑑賞はスタートした。

今回の参加者は、全部で10人程度。

年配の方から、ママさん、その子どもたち(小学校低学年~高学年)、大学生など、様々。

それに、京都造形芸術大学からアシスタントが二人来て、学芸員さんのお手伝いをしていた。

始まってすぐ、面白いなと思ったことがあった。

てっきり一回目の対話型鑑賞の経験から、すぐに参加者みんなで、一つの作品を鑑賞し始めるのかと思っていたが、そうではなく、「では、みなさん。今から自由に会場内の作品で気になるものを見つけて、お連れの方と鑑賞してみてください。時間は、5分くらいで。ここで大事なのは、とにかく作品について、お話してみてください。思ったことを声に出してください。ここ、大事です。声に出して、作品について何でもいいので、気付いたり考えたりしたことを伝えてください。みなさんのところに、少しずつ私たちも行って、お話しようと思いますので。」との指示。

なるほど、これって、ある種、鑑賞に対する緊張をほぐそうとするアイスブレイク的な立ち位置のものなのかなと思った。

もう一つは、純粋に、たくさんの作品に触れてほしいという学芸員としての思い。

言われるままに、見て回っていて、一つの作品になんだかひっかかりを感じて、一緒に行った奥さんとその作品について話した。

「これって、人じゃない?目がぎょろっとしてて、片手で自分のあごをつかんでる。」

「え、私は両手でほおづえついてるように見える。」

などなど。

もうすでに感じ方が違っている。

人によって、見方は千差万別であることを早速実感する。

その後も、話していると、後ろから学芸員さんがやってきた。

「お二人は、この作品が気になられたんですか?」

「はい。なんだか、描かれている人が気になって。」

「ほうほう。人っていうのは、すいません、どこを見てですか?」

「あ、ここです。あ、ここが目で。」

「ああ~、この円になってるところが両目ってことですか。」

「はいそうです。で、その下にも鼻のような穴が開いてるし、くちびるのようなものもあるので。」

「なるほどなるほど。これとこれも顔のパーツに見えたから人だと思われたんですね。なるほど。」

こんな感じで、学芸員さんとしゃべっていると、5分はあっという間に過ぎて行った。

なんなら、しゃべり足りない。

学芸員さんと話しているうちに、どんどん見えてくるものがあったから。

でも、一旦自由鑑賞は終わって、ここからは私が思っていたイメージ通りの「対話型鑑賞」がスタートした。

今回は、全部で3つの作品を鑑賞した。

どれもジャンルがバラバラ。

一つ目は、立体作品。

二つ目は、絵画(具体的に鑑賞して何が書かれてあるのかが一目でわかる)。

三つ目も、絵画(ただし、抽象画。パッと見ただけでは、何が描かれているのかわかりづらい)。

この、あえて一つのジャンルに偏らない作品のチョイスだったり、順番だったりも大事なんだろうなあと思う。

今回の対話型鑑賞の一つの目的は、「ファシリテーターの役割をくわしく観察する」だ。

もちろん、純粋に対話型鑑賞を楽しむこともあるが。

 

ファシリテーター学芸員さんは、一人一人の意見を本当によく聴いてくれる。

自分が意見を言って、当事者としてそう感じているからここに関してはほぼ間違いない。

とにかく、しっかり最後まで聴いてくれる。

どんな意見でもかまわないというメッセージを姿勢として見せてくれる。

だから、話せば話すほど、安心する。

安心するから、どんどん話したくなる。

前回と同じ感覚だった。

これは、子どもたちの自己肯定感を高めることにもつながるだろうなあと思った。

「存在の承認」という一番根っこの大事な承認。

これが、満たされるような感覚がある。

そして、「それはどこからそう思ったんですか?」と根拠となったのが作品のどこなのか聴いてくる。

そう、一人一人の意見を聴いたら、必ずすること。

「どこからそう感じたんですか?」の問い。

この問いで参加者は必ず作品に戻る。

そうだったそうだった、一回目の対話型鑑賞でもそうだった。

そして、参加者の発言を受けて、確認するように絶妙に言い換えている。

「なるほど、つまり、ここが○○のように見えたんですね。」

といった感じで。

このプロセスを共有することで、発言者は、聴いてもらえているという実感をより深めるのだと思う。

そうして鑑賞は、参加者の意見をつなぎながら、進んでいく。

そして、もう一つ。

必ず、指差しをして、今どこについて発言しているのかを参加者で共有していけるようにしていた。

これがいわゆる「焦点化」というもの。

これすごく大事だなあと思った。

というのも、聴いているだけで「ああ、あそこのことを言っているんだな」とすぐにわかる意見もあるのに対して、なかなか聴いているだけでは、作品のどこを見ての意見かがわからないこともあるからだ。

前回の対話型鑑賞では、全員大人だったので、そのあたりはかなりスムーズだった。

しかし、今回の対話型鑑賞は、子どもたちが4人ぐらい参加していた。

その中の一人の男の子がめちゃくちゃ積極的に意見を言う子だったのだが、その子の発言が聴いているだけでは、どこのことを言っているのかわからないことが何度かあった。

こういう状況におけるファシリテーターの焦点化は、その後の鑑賞を進める上でも、非常に需要である。

視点の共有がなされていないと対話が深まっていかないからだ。

子どもが参加者にいることで、焦点化の重要性を肌で感じることができたのは、大きな収穫だった。

そして、意見が一つの部分で煮詰まって来た時の、情報の整理。

これもすごく大事だった。

意見が大方出尽くしたような段階で、これまでに出てきた意見が何で、それは作品のどこから感じたことなのか、焦点化しながら、整理していくことで、作品の中のまだ見ていない部分にも目を向けようという意識が参加者の中に生まれてくるからだ。

そうすることで、新たな対話へとつながっていく。

 

鑑賞終了後、ファシリテーターを務めて下さった方とお話しすることができた。

小学校で2学期からの導入を考えていること、朝鑑賞の形で進めようと思っていることなど、かなりあれこれお話しできて良かった。

月一回程度行っているファシリテーターの学習会にもぜひぜひ参加してくださいとのことだった。

いよいよ今日から2学期が始まる。

いろいろと新たな実践も考えている。

対話型鑑賞もその一つだ。

実践と理論の往還。

ファシリテーターとしての自分の向上。

この二つを積み重ねていこう。

積み重ねた先には、どんな景色が待っているのだろう。

そう考えると、ワクワクする。

 

子どもたちとの日々が、また、始まる。

自分の強み。 178

前回の「レア力で生きる」の読了記録記事の中で、「ストレングスファインダー」で自己分析したことを思い出し、久々に見返してみた。

2年前の4月に分析したのだけれど、2年経った今、振り返って、結構自分の本質をついてるなあとびっくりした。

なので、ここに記録して、忘れないようにしたい。

 

【強み①】 収集心

・本能的にいつも優れた助言をする。

・読む資料の選択は、人々の質問によって左右されることがよくある。

・初めて読む場合でも、再度読み返して記憶をよみがえらせる場合でも、読書を楽しむ。

・他の人に役立つ発見が大きな喜びをもたらす。

・多読家と言われることがある。

・並んで待たなければいけない場合、一人で食事する場合、知らない人の隣に座った場合に備えて、読み物を持ち歩いている。

・活字が心の栄養になるので、独創的なプラン、プログラム、設計、活動を生み出すことがよくある。

・現在の出来事に注意を払う。

・テーマに深く入り込むのが日常的。

・ニュース記事などの背景にある論理的思考を説明するために、理論や概念、哲学を生み出す傾向がある。

・いつも、出来事や政策方針、人、危機などについて情報を集めている。

・斬新な洞察は、同じように深く考える人々を会話に引き込む。

・言葉のニュアンスや難解さを楽しむ。

・高度な、あるいは専門的な語彙により、力のある明確な語を選択できる。

・話すときでも書くときでも、事実に即した強引な方法で自分の考えや感情を伝える。

・博識であることを楽しむ。

・グループでの話し合いにおいて、大半の参加者よりも多くの質問、提案、解決策、革新的な考えなどを提案する。

 

【強み②】 着想

・特定のトピックや活動について特に高い技術や知識を持っている。

・特定の作業を実行するために革新的な方法や変わった方法を考案する傾向がある。

・毎日同じ手順に従わされるのには飽きているのかもしれない。

・何かを変更しようと提案しても、それが何も考慮されることなく却下されてしまうと、退屈を越えて、苛立ちを感じる。

・データ、証拠、事実などを評価することによって、改善すべきことを見つけ出すことがある。

・可能性を考える人たちと時間を過ごすのが楽しい。それらの人たちが、誰も考えなかったような興味深いアイデアを提示してくれる時、特に楽しいと感じる。

・医学や政治、ファッション、再生可能なエネルギー源、人道的支援、芸術などの最先端について探索することが好き。

・本能的に、ある種のアイデア、目的、プロセス、データなどを分解することが得意な人だという評判を受けるかもしれない。

・個々の要素がどのように機能するかしないか、相互連携するかしないかを詳しく調べる。

・物事の進め方に革新的な方法を考案することに精神的なエネルギーを使うことがある。ここで、起きた小さい変化や別の場所で起きた大きな変化によって、おそらく自分の思考が刺激を受ける。

 

【強み③】 内省

・情報の輪に加わることによって知識を広げたいと考えている。

・ほとんどの人が可能なレベルよりも深く、思慮に富んだ会話を交わす人々に惹かれる。

・無駄な会話に参加するのを時間の無駄に思える。

・さまざまな文書から、特定の種類の情報や事実、洞察を集める。

・読書への情熱が、適切な決定を下したり、正しい点を指摘したり、課題に適切に対処したりするために必要な知識を確実に与えてくれる。

・本能的に、もともと活発な精神を、読書を通じてさらに刺激している。

・新しいアイデアや観点を検討する。

・自然に生涯学習を行っている。

・自分自身が最高の教師。

・本で見つけたあまり知られていない事実や洞察に言及してよく他の人を驚かせ、そんな自分にも驚く。

・記憶や文書にファイルした何かで自分や同僚の思考が広がると喜びを感じる。

・よく作家、研究者、歴史家、政治家、庶民、著名なリーダーの主な思想を会話に持ち出す。

・考え方も話す言葉も洗練された人との会話を楽しむ。

・哲学や諸説、概念に関する議論は心躍る経験。

・専門用語をいちいち説明したり複雑な思考の基本的なポイントを説明したりする必要がなく、質問を投げかけるとすぐにわかってもらえるのを好む。

・会話に熱中しながらも、その本質をよく理解し、その知識を後で使えるようにする。

 

【強み④】 学習欲

・情報はいくら持っても持ちすぎることはないと思っているので、これで情報量は十分だという状態に達するのは不可能。(→まじか 笑)

・毎日、新しい知識の欠片を絶えず収集する。

・他の才能に応じて、1つか2つの興味のあるトピックを深く追求する場合もあれば、幅広い分野に浅く知識を持つ傾向がある場合もある。

・その分野での最上位の専門家としてまたは雑学王として他の人に認められるまでは満足することがない。

・理解することが簡単ではないテーマに惹きつけられる。

・自分を充分に信頼して、精神的な忍耐強さや機敏さを試すことがある。

・普段から、教育とは、公式であれ非公式であれ、昨日理解していたことを、今日はさらに深めることだと考えている。

・本能的に、意識的に、一般的でない語、極めて専門的な語、または高度な語を語彙に含める。

・言葉は会話、討論、または議論において優位性、つまり支配力を与える知識の一形態だと実感している。

・まず、聞き手の注意を捉え、その後、イベント、プロジェクト、会議、または問題の解決の管理を任される。

・多くの場合、日常的な会話や学術的な会話、または専門的な会話や記述で、難解な語や理論的な語を使用する。

・一般的でないとその複数の意味を習得することを楽しむのは、生まれつき言葉に興味を持つから。

・授業やセミナーで、比較的簡単に語を記憶する傾向があり、それは、自然で楽しいことである場合が多い。

 

【強み⑤】 戦略性

・革新的なアイデアを生み出す。

・イベント、人、提案などに対して、ユニークな視点を提供する。

・人々がプロジェクトや取り組みを始めるきっかけを与えることがある。

・目標を定め、それに到達するための様々な方法を考案し、その中から最良の方法を選択する傾向がある。

・他の人たちが問題に気付く前に、解決方法を見つけることがある。

・時には、事前に数々のアイデアを生み出しておき、その中から特定の状況で最も意味のあるアイデアを選択することがある。

・特定の種類の問題について、その基本要素を検討する傾向がある。

・物事がなぜ、どのように機能するのか、あるいは機能しないのかを理解しようとする。これらの洞察が施行を刺激する。

・事実関係の情報やデータを再構成して、トレンドの明確化、課題の提示、機会の特定、解決策の提案ができる形にすることができる。

・議論に新たな次元をもたらす。

・一見すると無関係な情報から意味を見出す。

・複数の行動計画を考えてから最適なものを選ぶ。

・特定のプロセス、行動計画、旅行プランなどを強化、改善、改定、修正、または見直すために、数多くの方法を生み出すことがある。

・提案したことは、今後数か月、数年、または数十年でのプロジェクトの展開方法に影響を与えることがある。

・自分自身または他の人の才能、スキル、知識に潜む欠点を見つけることがある。

 

アンケートから導き出された結果を、割とそのまま書いた。

本質をついているとはいえ、全然違うところももちろんある。

でも、気を付けなければ、ここに記したいくつかの例のようになって、うまくいかない状況を自分で作り出してしまうかもしれない。

そのことは、肝に銘じておかなければいけないと強く思う。

ただ、ざっくりとここに書いたような性質があるのは、自分でもなんとなく、心当たりがある。

長所と短所は表裏一体。

これを見ていて、まさにそうだと思う。

ここに書いた自分の性質を、長所にするも短所にするも、すべては自分次第。

ここに書いた性質が、全て長所として生かせて、

収集心×着想×内省×学習欲×戦略性のかけ算をイメージしながら、自身のレア力を高めていければと思う。